死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20190221

 久方ぶりに寝坊した。髭も剃らず髪も梳かさずで、過労死したサラリーマンの死体からスーツを剥ぎ取った羅生門的浮浪者の体で職場に参上した。まあ、テキトーに仕事をしていたわけだが、人がいないのをいいことに、グスタフ・ルネ・ホッケの『ヨーロッパの日記』を盗み読みしていた。この身のホクホクしているホッケみたいな名前の人は、まあ凄い人で、該博さと文章の上手さで主題をコロコロ動かしていく方向の天才っぽい。昔『文学におけるマニエリスム』とか『マグナ・グラエキア』とか読みましたよ、一応腐っても文学部生だったので。とはいえ主権とか国家理性とかの方が関心があった似非文学部生ですが……。

 

 しかし、最近は本をそれなりに読めるようになってうれしい。多分『どうして私が美術科に!?』を読んだ効果だと思う(なお今日も絶賛解釈しましたが、このブログ上では一旦距離を置くことにする。これ以上言及して自分のバイブス高めたら2巻を買ってしまいそうになるので)。まあ別に読んだからどうだということでもないのだけど、前も言ったように人生は如何にリソースを適切に分散できるかにかかっている。今の俺は仕事・ブログ・読書・Youtubeという感じでまあまあバランスができていて、何とかうまく回っている。これまでは仕事の比重があまりにも凄いことになっていたのでブログも読書もキモデブオタクにレイプされたJK(エロ同人の神話的形象)みたいな感じでマグロっていたが、最近は仕事が落ち着いたおかげで何とかなっている。この状態が続いていたら辞めなかったかもしれないが、平穏はいつだって引き裂かれてきたのだ。俺は20世紀こそが人間の全てを明らかにしたと信じているので。

 

 だが、仮に仕事を辞めた後どうだろう? どれだけ穏便でリベラルでホワイトで天使ちゃんマジ天使みたいな会社に入ったとしても、少なく見積もってもリソースの6割は仕事に注ぎ込む必要が出てくる。残り4割の配分が恐らくその後の人生を決定するのだが、どうしたってどれも溥儀、じゃなかった余技にしかならない。本業と余技、というような区別が果たしてどれだけ妥当性を持っているのかわからないが。「やるしかねえ」という浅い現状肯定以外の答えを持ち合わせているわけでもないが。

 

 職場の後輩から「五等分の花嫁」がよいという話を聞いたが、これについてのパブリックコメントを募集します。