死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

「君には他人の痛みを思いやる想像力が欠けている」と言った中学の生活指導の先生に捧げるオタク早口→20200618追記

 ――場末のブログでも時に義憤に駆られることがある。

 

www.sankei.com

 

 仕事の休憩中にたまたま発見したニュースだ。端的にまとめると、

 

 ①コンビニで男性がコンビニ払い込みの際に「僕サーズ」と店員さんに言う。

 ②コンビニ側は店を消毒。店長が被害届を京都府警に提出する。

 ③京都府警は防犯カメラなどの捜査で、男性を偽計業務妨害容疑で逮捕する。男性は逮捕時には「SARSとは絶対に言っていない」とかなり強く否定している。

 ④ところが、男性は当時感染性の強い流行性角結膜炎にかかっていて、店員さんに「僕にさわるとうつるので、(チケットと紙幣を)消毒してください」と言ったという。

 ⑤だが京都府警側は男性がSARSと言ったと決め込み、執拗に迫る。ただ、防犯カメラの映像を検証しても、「僕SARS」と言っているようには聞こえない。

 ⑥京都地検は5月14日付で男性は不起訴処分(嫌疑不十分)に。ただ、仕事を辞めざるを得なくなった。そして、産経新聞の取材に応じた。

 

 「俺コロナ」のニュースは知っていたが、「僕サーズ」については今日が初耳だった。そもそもそこまで大きく取り上げられていた感じではないように思われる。そして、今このニュースがヤフーニュースでもかなり取り上げられていて、皆さんが意見を戦わせているようだ。以下、当ブログ管理人の私見を述べる。

 

 まず、本件について最も重大な責めを負うべきなのは京都府城陽署である。誤認逮捕という表現が妥当かはともかく、少なくともそれに匹敵するレベルで捜査があまりにもお粗末だ。防犯カメラで当該男性を追跡したり、コンビニのチケット支払いサービスを照会したりするなどの犯人特定捜査はしたのだろうが(だからスピーディーに逮捕できたのだろう)、店内の防犯カメラ映像で犯行状況を精査する義務を怠っていたというべきである。怠っていたのでないとして、京都府城陽署の捜査員が全員難聴で「僕SARSです」と「僕にさわるとうつる」が判別できないという事情があったとしても、「何故今時SARSなんだろう……?」「これ消毒してくださいって言うか……?」などの疑問を感じなかったのだろうか? 付言すると同じ問いは逮捕状を発給した裁判官にも向けられるべきだろう(世の中には大学の成績証明書と同じぐらい簡単に逮捕状を機械的に発給する裁判官もいると聞くが)。そして、そうした検討がなされないまま、取調官による執拗な自白要求がなされたと男性は主張している。仮にこれが事実であるとするならば、捜査機関が未だに「自白は証拠の女王」と見做していると言わざるを得ない。ここ十数年の刑事司法改革は何だったのか。

 どうせヤベェ奴だからヤベェ響きの感染症なら何でもいいだろうし、何か適当に理由つけてお店を消毒させて困らせようとしてんだろ、みたいな先入観を抱くのはインターネットのモッブ諸君だけで十分である(これについては後述する)。だが、捜査機関がそれでいいわけがない。捜査のための推測は推測でしかなく、それは捜査によって得られる他の証拠との関係で常に再検討を余儀なくされる。これは警察官であれば誰でも知っているはずである。犯罪捜査規範4条2項は「捜査を行うに当たつては、先入観にとらわれず、根拠に基づかない推測を排除し、被疑者その他の関係者の供述を過信することなく、基礎的捜査を徹底し、物的証拠を始めとするあらゆる証拠の発見収集に努めるとともに、鑑識施設及び資料を十分に活用して、捜査を合理的に進めるようにしなければならない。」としている。この種の規範は日常的に捜査を行う刑事諸氏の皆さんにとっては単なるお題目でしかないのだろうが、皆さんは民主主義社会を守る法治国家の警察官であり、皆さんの行状が批判されるとしたらこの「お題目」が前提となることをゆめゆめ忘れるべきではない。規範は忘れた頃にやってくるのだ。

 

 また、京都地検の不起訴理由が「嫌疑不十分」となっている。これについては、京都新聞の記事が確認できる。

 

this.kiji.is

 

 ここで地検は「犯罪事実を立証するに足りる十分な証拠の収集に至らなかった」とコメントしている。ここから読み取れるのは「男性もSARSなんて言ってないと主張していて、実際に防犯カメラの音声を聞いてもSARSと言っているとも、言っていないとも判断できない。ですので、公判を維持するための十分な証拠とは言えないので不起訴としました」ということだ。これを「嫌疑なし」で不起訴としたら、京都府警が誤認逮捕だったと言わざるを得なくなるため、地検が府警の面子を守ったための判断ではないかという「邪推」もしたくなる。しかし、これを「邪推」だと片付けられない理由は、防犯カメラの音声の精度がどれだけのものかはわからないが、この客観的証拠(それも裁判だったら有罪・無罪に直結するクリティカルな証拠だ)についての判断を放棄するレベルのものなのかという疑いが残るためだ。また、そもそも上記産経報道が紹介するような事態で、男性の「故意(つまり、自分が感染症に罹患していると表明することで、少しでも店の業務が滞るであろうなという認識があったか否か)」がどれだけ立証できるのか(当たり前だが、男性が言い間違いをした、声が聞き取りにくかった、店員さんも聞き間違えた、というような状況は刑事的には意味をなさない。刑法は故意犯処罰が原則だからだ)。それでも「嫌疑不十分」と言えるのか。もちろん地検も府警と協議して総合的に判断した結果なのだろうが、「嫌疑不十分」について何故そう判断したかが明確でない以上、上述のような「邪推」は消えてなくなることはない(そして地検はよっぽどのことがない限り、上記コメント以上のことを説明しないとみられる)。そして、「嫌疑不十分」は「嫌疑なし」ではないので、被疑者補償に関するハードルも違うことは付言しておく。

 警察の捜査にミスがあってはならない。しかし一方で警察官も人間であり、間違いはゼロではない。この種のディレンマが不可避だが、その不可避性に甘んじることなく、憲法31条で謳う適正手続の保障が近代法治国家の根幹であるからこそ、公訴権を検察官が独占し、検察も有罪に問えるとしっかり判断した上で起訴を行うのである。このようなチェックシステムが今回は一応働いたと言うべきかもしれない。だが同時に、そもそも警察の捜査段階で十分救えた話であり、男性が失職しない可能性も十分ありえた。何故、警察の捜査がお粗末になったのか。この点が究明されない限り、城陽署ひいては京都府警が信頼を回復することはないだろう。監察部門によるしっかりとした内部検証が行われるべきで、そしてそれを外部に然るべき立場の人間が説明すること、これはマストであると言わざるを得ない。

 

 捜査機関の話はここまでとして、次に報道機関についても苦言を呈する。

 

 まず、事実関係の整理として、今回当ブログ管理人はこのニュースの初報を検索エンジンGoogle」を利用して可能な限り調べた。現在インターネットで閲覧可能な初報(無料記事)は、朝日新聞と読売新聞(正確には読売が運営している医療系サイト)、サンケイスポーツである(下記にリンクを貼る)。

 

digital.asahi.com

yomidr.yomiuri.co.jp

www.sanspo.com

 

 これらの記事では全て「職業不詳の男(59)」として男性が挙げられている。つまり、管見の限り現時点では報道機関のニュースで男性の実名は出ていないことになる。念のためGoogleで「僕はサーズ 本名」などといろいろ調べてみたが、男性の名前と思しきものは現在はヒットしなかった。ツイッターでも、初報段階の反応として「こういう奴こそ実名報道しろよ」と言っているアカウントもあることから、当初から実名報道をしていない報道機関もあったとみられる(当ブログ管理人が購読している朝日新聞デジタルのアプリを利用して、新聞記事検索をしたところ、朝日新聞は初報段階と不起訴段階の記事を掲載しており、どちらも氏名を伏せて報じている)。

 ただ、さらに検索を進めたところ、どうも一部の報道機関は初報段階で実名報道をしていたようだ(ちなみに、その元の記事は全て削除されている)。少なくともインターネットのニュースまとめサイトや、一部ツイッターアカウントの呟きには、男性の実名と思しき名前が残っている。これは、上記産経報道で男性が「インターネットに実名が残っている」と主張していることに符合する。また、インターネットの記事は報道機関の匙加減で勝手に文章を変更できること(実際に断りもなく訂正を入れていることは多く、報道機関としてはかなり不誠実な対応と言わざるを得ないケースも見受けられる)から、上記記事についても当初実名報道していた可能性は排除できない。

 報道機関が実名を公表の是非についての判断経過を外から知ることは難しい。ただ、実名報道しなかった報道機関については、京都府警の情報を鵜呑みにせず、ある程度その自主性を発揮したと言えるだろう。ただ、報道がなされたことによって男性は「SARS男」として世間の非難を浴び、仕事を辞めざるを得なくなった(失職の原因は何も逮捕だけではないだろう。そのような社会的サンクションも少なからず彼の人生に影響を与えたとみるべきである)。自分が新型コロナウイルスに感染していると公言する事例が多々見受けられる状況下で、そもそも報道しないという選択肢はあまり検討されなかったのかもしれない。しかし、今回産経の報道で初めて上記のような経緯が明らかになった。男性が「不起訴処分(嫌疑不十分)」となったという小さな記事を5月15日付で朝日新聞京都新聞も掲載しているようだが、それで男性が批判を受けて減損した名誉を回復できているのだろうか(もちろん、名誉とは量的観念ではなく、その場合こうした衡平が曖昧になってしまうことは否めない)。そこは疑問である。

 とはいえ、報道機関はどうしてもその報道内容を警察や検察、省庁や自治体の発表に依存せざるを得ない(もちろん、警察や検察、官公庁内部の問題については例外である)。それは報道機関が、この国の警察や検察が独裁国家よろしく恣意的に情報を操作して事実を隠蔽しないであろうという法治国家的な「信頼」を前提とした、言い換えれば「オーソライズ」された情報を基に、素早く可能な限り正確な記事を送り出す必要性があるからだ。日刊新聞の日々の記事1本1本について、懐疑の無限後退をしていれば、組織ジャーナリズムは根本から瓦解するだろう。それは理想論として持ち出される「ジャーナリズム」との妥協の産物でしかないが、我々はそれに今多くの情報を負っていることも忘れてはならない(NHKが報じる新型コロナウイルスの感染者数を、NHKもしくは各都道府県が情報操作しているので一切信用していないという人はごく少数だろう。だからこそ、皆感染者数で一喜一憂できるのだ)。これを否定することは情報社会の自殺でしかない。

 

 諸々書いたが、まとめると以下のようになる。

 

 ①京都府警の捜査は問題である。きっちりとした内部検証が行われるべきで、然るべき立場の人間がその結果を適切に過不足なく報告するべきである。

 ②京都地検は不起訴理由を「嫌疑不十分」としているが、何故「嫌疑なし」でないのか。京都府警の面子を守るための判断なのかという疑いを解消できていない。

 ③報道機関において本件の報道がなされたのは、種々の事情に鑑みると致し方ない側面があったとはいえ、事後的に男性の名誉回復に資する報道は実質産経の上記報道しかなかったのではないか。

 

 最後に、本件はコロナ禍という特殊状況の中で生起した事例ではあるが、これは「コロナでみんなピリピリしているんだよ」というような話で片付けられるものでは決してないことを強調したい。日本ではこうしたことがずっと繰り返されている。それにたまたまコロナ禍が延長線上にあっただけである。過去・現在・未来を貫く一連の問題として、刑事手続や日々の報道について我々は思考する必要があるのだ。

 

 ……はい、お疲れ様です。どうですか皆さん? 俺は途中から書いていて嫌になったよ。中学生の時に痴漢に間違われたトラウマを未だに引きずっている結果、普通の正義観念や規範に安住できない体になっているので。昨日もサークルOBのグループLINEで、北朝鮮が南北連絡事務所を爆破したことを受けて「横田滋さんの遺骨を北朝鮮に散骨したら金与正がブチギレて朝鮮総連爆破するのかな……」みたいなジョークを投下するタイプの悲しい不謹慎ピエロなんですよ俺は(まあそういう人間性はひとつ前のエントリを見れば明らかである)。その点で京都府警を「京都腐警」、報道機関を「マスゴミ」と言う資格は全くございません。

 

 ただ、上述の意見は偽りなく本心からそう言っている。なので、「おっ、急にトーン変わったけどま~たくっさいくっさい逆張りかよキメェなお前が植松に殺されろよ。21世紀は誠実に信念を貫く人間の時代だ」と思う必要は全くない。一応これでもリベラルに擬態する能力は高い方だ。そうでなくて、本題はここからなんですよ。

 

 全ての物事を過不足なく把握し、それについて適切な見解を述べることは不可能である。上記の例をとってみると、実はこの男性が「僕SARS」とマジで言うタイプの狂人で、でもたまたま諸々の状況が重なり、あと防犯カメラの録音精度の低さも手伝い、適当に否認してたら不起訴処分になったという可能性もゼロではない。そうなると警察も検察も「立件しようと思ったけど厳しいな……」と思って不起訴にしたとすれば、「疑わしきは被告人の利益」に沿った抑制的な刑事手続だなと思われる。もちろんそんなことはないと思うが、「ゼッテェそんなことねえわ!」と言い切れるだけの情報を俺は持ち合わせていない。

 また、報道機関についても、その段階の情報を色々と考慮した上で実名報道したのかもしれない。その過程はブラックボックスなので、何ともいいようがない。大事なのは「人間が何かを言おうと思ってお気持ちに駆られる時、往々にして不十分な情報・知識を前提とせざるを得ない」という点である。なので、その所論が知らなかったことによってひっくり返されることもあるだろう。後出しじゃんけんには敗北するし、ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つのである。

 

 ところで、ツイッターで検索すればわかるが、インターネットのモッブ諸君はこの「僕SARS」の男性にまあとにかく酷い言葉を浴びせていた。そして、今回産経が報道した途端、人々はダチョウ倶楽部上島の帽子と同じノリで掌をくるりんぱし、警察は酷い、報道機関は酷い、インターネットの誹謗中傷は酷いと言っている。別に男性に批判を浴びせた連中と、後出しじゃんけんしている連中は同一人物ではないと思うが、基本的な精神性は共通していると俺は考える。一言で言うと、「想像力」より「義憤」が先行してしまうタイプだ。これこれこういう奴がいて、酷いことをしているので、何か言ってやらないと気が済まないという人々。テラスハウスの一件で人命が失われたので、人々は「誹謗中傷本当に気をつけようね……」みたいな話をしていたんじゃなかったんですか?と言いたくなるぐらい、人々は今日もせっせと「酷い奴」を批判することに明け暮れている。

 こうやって書くと何かそれが悪いことだと言っているように聞こえるかもしれないが、俺はちょっと違う。それは悪い帰結を引き起こすかもしれないが、行為それ自体が悪いとは思わない。というのも、先に挙げた「往々にして不十分な情報・知識を前提とせざるを得ない」という条件が不可避だとすれば、想像力には限度がある。少なくとも今回のSARSの件はそれを暴露したように思う。つまり、警察発表に基づいて書かれた新聞報道を事実として受け取った人々があまりに多かったということだ。そこに安住した人々は、もしかして冤罪(言葉の用法としてはあまり正しくないが)かもという懐疑を抱くことなく、「俺コロナ」と言っている異常なおじさんたちと男性を同一視し、「射殺しろ」「おっさんキモい」「ガイジか?」と唱和したわけだ。

 ならば、その限界を考慮して、全てを肯定も否定もせず、耳と目を閉じ口を噤んで孤独に暮らすことはいいことだろうか。そんな人間がたくさん暮らす社会(というか、それは「社会」なのか?)を歓迎するのは最悪の政治家ぐらいである。

 「想像力」より「義憤」が先行すること、これは人が人である限りどうしても避け得ない事態である。結果として碌でもないことになった人々を批判するのは容易い。ただ、こういうインターネットおそまつくんたちを眺めて「想像力が欠如しているんだよねえ」と嘲笑う偏差値高めの嫌な人間にはなりたくないですね。俺はよく言われる「想像力の欠如」という表現が本当に嫌いなので(ただ、昔何度かこの言葉を批判に使ったことがあり、それについては反省しています)。

 今のインターネットモッブに欠如しているのは、むしろそうした「義憤」の表明には結果責任が伴うという意識ではないだろうか。韓国の「指殺人」という言葉が顕著に示しているが、人は「つぶやき」の延長線上で人命に影響を及ぼすことができる時代である。もし貴方がSNSで誰かを義憤に駆られて強く非難しその人が自殺したとしよう。どんなにその人が悪逆非道だったとして「そいつは死ぬべきだった!自業自得だ!」と言えるだろうか。言ってもいいが、その人がたとえ自己の罪の意識に駆られて死んだとしても、彼/彼女の背中を死へと押しやったのは他でもない貴方である。追い詰めた時に手は添えるだけだったか、強く押したかは問題とならない。貴方は義憤を表明することでその一群に加わってしまったのである。罪の意識は今度は貴方に宿るだろう。そういう言葉を使ってもいいが、その責任を引き受ける覚悟があるか。スマホと脳が直結しているような社会においてこそ求められる「規矩」である。

 もちろん、自分が義憤を表明することでどんな帰結を引き起こすかという「想像力」は確かに重要ではあるが、不十分でもある。先も言ったように、その「想像力」はどうあがいても不完全な事態しか想定できない。自分が大丈夫だと思って投稿したステートメントが、新たな事実によって見当はずれだったということがわかる、なんてのは日常茶飯事だ。「事実」は人間の儚い「想像力」なんて常に超えていってしまう。

 

 さて、久々に長文を書いたので疲れてきた。強引なまとめに入りたい。俺の一連の主張もまた、「想像力」が足りていないのは間違いない。というか、論理に粗があると思うし、事実誤認もたくさん含まれているだろう。一応記事をアップする前に確認はしたが、不十分だと思う。しかし、これは書くべきことだと思った「義憤」を止めることはできなかった。だからこそ俺はこの記事を世に送り出し、批判を受け止め、修正すべきところは修正するという「結果責任」を果たすことにしたい。

 

 ……まあ、こんな場末のブログで言う話ではないんですけどね。シャンシャン。

 

  ※2020/6/18 今日朝になって改めて見返して、1点だけ追記します。

 この議論の立て方だと、例えば「俺はどんなに叩かれてもいい。それは受け止める。刑事責任もとる。だが在日がどうしても憎いので今から朝鮮学校にヘイトはがきをたくさん送ります」みたいな行動が防げないという懸念が生じる。この場合、そいつが逮捕されて刑事罰を喰らったとしても、当の朝鮮学校の子どもたちや保護者、教員等の関係者に深い精神的トラウマが残るのは想像に難くない。

 本論では、「想像力」よりも「義憤」が先行する事態を避けることは人間にとって困難で、かといって「想像力」の不完備を理由に何も意見しないことは不健全であるので、せめてその結果責任が伴う自覚や、結果責任を引き受ける覚悟を保持した上で意見することが大事ではないかと述べた。

 しかし、一応本論でも軽く触れているが、これは「想像力」がなくても大丈夫ですよと言っているわけでは決してない。つまり、市民社会を生きるにあたっての最低限の想像力を持ち合わせるならばという条件をつけておきたい。具体的に言うと、他者の存立を脅かすような人種やジェンダーに関する差別的な表現(何でもかんでも差別という立場を俺はとりたくないので、この部分についてはかなり詳細に詰める必要があることは重々理解しているが、今は控える)は、当該市民をその市民が自力で変えることができない/困難な性質でもって社会において劣位に置こう、ないし排除しようという恣意的な試みである。これは市民社会において市民一人ひとりが平等かつ公正に保障されるべき安全や安心に対するチャレンジなので、市民社会そのものへの攻撃だと理解すべきである。

 上のような事態を予防する観点から「想像力」を養うことの重要性は論を俟たないし、「原則」には「例外」が不可避的に伴う。つまり、ヘイトスピーチヘイトクライムをすることによって生じる帰結に思いが至らないレベルまで「想像力」が欠如している例外的な人間には、残念ながら市民社会を当面の間退場いただくほかないだろう。寛容の基礎は社会的合意であり、その合意に違反するのであれば、まあどうぞ別のところでやってくださいとしか言いようがないのだ(そんな「ここではないどこか」を探すのは極めて難しいだろうが)。

 まあ、補充としては不十分な気がしないでもないが、取り急ぎ書いておきます。