死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

【映画感想】『僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46』

 何の目的もなく5連休に入ってしまったので、無聊を慰めるために近くのTOHOシネマズで見てきました、標記の奴を(標記って書くと仕事っぽいな)。その後にテネットを見ましたけど、あれは俺の手には余りますね。やめましょう。

 

 このブログでちょこちょこ言及しているが、俺は欅坂については一般人以上ファン未満ぐらいの知識があると自負している。前職の取引先で好きだった人がいて、その人との飲みの席で何となく話を合わせる程度に調べたのがきっかけだ。俺はリアルで人間と触れ合うのが辛いタイプの心よわよわ勢なので、握手会とかライブに行ったことは一度もない(それは昔行ったサンホラのライブとオフ会で懲りた)。ただ、楽曲も全部聞いているし、ライブは行ったことはないがDVD化されているものは大体見た。テレ東のけやかけも友達に録画のDVDを借りてほとんど見ている。それでも自分がファンではないと思うのは、当の彼女たちにはとことん興味がないからだ(平たく言えば推しは1人もいない)。むしろこのアイドルグループが巻き起こす「現象」、いや言ってしまえば欅坂という「現象」に強い興味を覚えたのだ。以下、映画の感想を述べながら、あーだこーだやっていくとしましょう。

 ※なお、以下の文章で括弧書きしている個々のインタビュー内容は俺の記憶に基づくものなので正確な引用ではありません。あと多分歴戦のファンから見れば事実誤認や解釈違いが多く含まれている可能性があるので、もしこの場末のブログにコメントする暇がおありでしたら御指摘いただければ幸甚に存じます。

 

 自分たちでそう言っているが、彼女たちの持ち味は圧倒的なライブパフォーマンスである。欅坂のシングル表題曲に必ず出てくる「僕」という名もなき主人公がいる。感受性豊かで少し未熟な彼(あえて「彼」と言うが)世界の多様(それは同調圧力だったり愛だったり儚さだったり)に触れた時の心のプリズムを、歌だけでなくダンスや表情で彼女たちは余すことなく表現してきた(これは付言しておかねばなるまいが、表題曲以外も名曲が多いのは欅坂の特徴だと思う)。

 そして、グループの表現力の絶対的根幹としてなくてはならないものだったのが、1期生最年少のセンター平手友梨奈だったことは周知の通りである。これは恐らく多少なりとも欅坂を認知している人間ならば誰でも首肯できる話だと思う。もちろん、ダンスが上手いメンバーはいるし、歌唱力に秀でたメンバーもいくらでもいる。しかし、目が離せなくなるような個を備えており、明らかに能力や資質の総和以上の「霊感」をその全身に湛えていたのがまさに平手だった。映画ではやはりそのことを再確認させられたと思う。映画館の音響や映像の光の加減によってもかなりチューンナップされているのだとは思うが、2019年東京ドーム公演での「不協和音」のパフォーマンスは「圧巻」と言わざるを得ないものがあったし、その直後に行ったソロの「角を曲がる」も感動的だった。映画でやはりその〈存在感〉を見せつけた平手が一方で〈不在〉であったことの、メンバーの苦悩や葛藤がこの映画の主題である。

 

 坂道アイドルの鼻祖である乃木坂46AKB48の公式ライバルとして登場したのが2011年。その後、かなりの苦労を重ねながらも国民的アイドルとしての地歩を固めたのに対し、欅坂が乃木坂の築き上げたものの上からスタートできたことは否めない。そのことはメンバーもかなり気にしているようで、映画でも初期のライブでキャプテンの菅井友香がライブMCで「自分たちの身に余るような」と話していたのが印象的だったし、メンバーの原田葵も「最初にドーンと出ちゃって……」ということを繰り返していた。そういう中で、平手を絶対的センターとして据える方向性を突き進まざるを得なくなったというのはあると思う。成功している以上、変える必要がないからだ。メンバーたちも「てち(平手の愛称)がいるからこそメンバーのこのフリが輝く」とか「てちというセンターがいない中でやる意味あるのか」という振り返りをしている。

 

 映画では、楽曲にのめり込むような平手の表現力が仇となり、メンバーとの間で徐々にコミュニケーションがとれなくなっていく様子が浮き彫りになる。副キャプテンの守屋茜は「二人セゾン」の頃から兆候があり、決定的な変化は「不協和音」であったと回想している。実際、「不協和音」以降のMV撮影以降、休憩中などで平手が他のメンバーと談笑するシーンはほとんどない。もちろんこういうカットばかりを選んでいる可能性(当たり前だがこの手の映画がある種の「正史」を形成しようとしていることには十分警戒しなくてはならない)は否定できないが、少なくともメンバーも平手と自分たちの間にある種の線を引いていたように思う。映画で小池美波が「私たちが考えているような悩みでてちは悩んでいない」と答えていたのは示唆的である。傍目から見ると「ソンナコトナイヨ」って言いたくなるが、平手の表現力を近くで見ているメンバーとしてはそんなことあるんだろう、きっと。

 

 そういう中で、2017年の欅坂初の全国公演ツアーの名古屋公演で平手が精神的に追い込まれて欠席。映画では、ここから他のメンバーたちが彼女の〈不在〉とどう向き合うのかということが描かれる。最初は代役センターを立てずに平手の位置を空白にしたまま進めた。守屋が言うように「てちがいないから代役を立てようとかはありえないというのが多数派」だったとすれば、彼女たちはこの〈不在〉は一時的だと思っていたのだろう。

 しかし、あえて誤解を恐れずに言えば、そもそも最初から平手は欅坂の中にいたのだろうか。平手=欅坂であり、欅坂=平手であったということを、メンバーたちも少なからず自覚していただろう(映画では、守屋や齋藤冬優花がかなりこの趣旨の発言をしている)。アイドルグループの中のワンオブゼムではなく、むしろ彼女こそが欅坂という現象の中核だということであるならば、かなり逆説的な物言いとなってしまうが、最初から最後まで彼女は欅坂46というアイドルグループの中では〈不在〉であったのかもしれない。だが、平手はそれほどまでの現象を、初期からのスマッシュヒットの路線を継続するために背負い込むことになった。渡邉理佐はこれを「犠牲」と表現していたが、かなり正鵠を得ていると思う。

 映画のシーンで印象的なのが、名古屋公演の時(だったと思うのだが、マジで記憶があやふやです)、メンバーを集めておじさん(この人の名前を知らない)が「平手がいなくなったら欅坂はダメってなっちゃうの?俺はそんなん言われたくない。こんな才能がこんなに集まっているのに」と発破をかける意図で言っていたのだが、メンバーたちは俯いたままだった。もちろんその場で言い返すのは空気感的にはおかしいだろうなとは思うが、悲しいかなこれは事の本質を突いてしまっていたように思う。

 

 そして、2017年紅白終了後の平手による「欅坂とは距離を置きたい」という宣言(これが映画で明らかになった新事実なのだろうか。教えて偉い人)。2020年1月に「脱退」したことを考えると、長く持ったなあと素朴に思った。俺も2018年10月に前職の上司に辞意を申し出て、死ぬほど慰留されて1年続けようというところを交渉して2019年3月に辞めたマンなので、平手はメチャクチャ偉いと思う。その現場の画が公安の秘聴・秘撮みたいなカメラワークだったので映画館で噴き出してしまったが、多分守屋が「やめないって選択肢はないの?」って泣きながら言っていたっぽい。平手はその後に「みんなは欅坂やってて楽しい?」と聞いていたのだが、それは欅坂を背負い込み過ぎた結果、それ以外の「欅坂」を提示しづらい環境になったことを平手が自覚していたことの表れだろうか(もちろんそれは平手に責めを帰すべきことでは全くないが)。

 

 これ以降、平手はライブも出たり出なかったりという状況が続く。そして幻となってしまった9枚目の表題シングルについてはMV撮影を欠席したことも明かされた(これは確か文春も報じていたが)。欅坂の変化としては、平手のオルタナティブを模索する努力も見られた(この映画でフォーカスされていたのは小池美波の「二人セゾン」である)し、2期生の加入も新しい風を吹き込んだものと思われる。そして、最後の東京ドームライブと紅白を終えた後、平手は欅坂を脱退した。

 その間の文春報道やコロナ禍で思うように活動ができない中、欅坂は7月のオンラインライブで改名を発表し、ラストシングル「誰がその鐘を鳴らすのか」のパフォーマンスを初披露した。便宜的なセンターは小林由依が務めているが、サビ部分ではセンターがくるくる変わり、センターのみが映える構成では決してない。会ったことのない神様に任せるのではなく、主導権争いに汲々とするのでもなく、ただ誰かが鐘を鳴らせばいいんだというメッセージが痛いぐらい伝わってきたし、個人的には「二人セゾン」の次に好きな曲かもしれない。前の記事でも少し触れたが、これは本当に葬送の曲だと思う。先ほど言ったように、平手=欅坂だという状況がなくなってから、初めて彼女たちは「欅坂」という現象を自分たちのものとし、そして自分たちで幕を下ろしたと言える。そして彼女たちは新章である櫻坂46を進んでいく――。

 

 映画感想と言いながら、かなりまとまりのない欅坂振り返りになってしまった。何かこれだけ書くといい話っぽいし、俺の隣で見てた知らないオタク(鬼滅の刃のTシャツ着てた)も終始啜り泣きしていた。だが、俺は残念ながら21世紀になっても誠実に信念を貫けない前時代的冷笑主義者なので、これでいいんだろうかという違和感を覚えたことは告白しておく。

 

 まず、運営側について。ナチス親衛隊制服酷似問題から思っていたが、根本的に運営側の能力に疑問符をつけざるを得ないところが多い。文春報道などについても明確な説明を避け続けた挙句、改名すれば欅坂の負のレガシーを皆忘れると思っているのだろうか(まあ菅政権になった途端に支持率が60%を超える国なのでそう思われても仕方ない)。ひらがなけやきから日向坂への改名というのは明るい話であったように思うが、この改名を額面通り受け止めるのは現状かなり難しいのではないか。映画でも菅井が「2期生が入ってきてこれから活動していく中で、欅坂というイメージがどうしても邪魔になってしまう」と正直に話していたが、このイメージが「邪魔」になると思われるまでほっといていたのは誰だよという気がしないでもない。

 そもそも、いじめがあると報じられたアイドルグループを名前が変わったとして誰が新規に応援できるのだろうか。これについてはファンの間で真偽について延々と不毛な論争を続けている向きがある。こういう状況に対して何らかの説明責任を果たさないのであれば運営とは何なのだろうと思う。TAKAHIRO先生が劇中で聞かれていた「大人の責任」とはこういうものなのではと素朴に思ったわけである(もちろんTAKAHIRO先生の「点ではなく線として見続けること」という答えも大事なことだが)。

 また、昨日文春がブチ込んできた石森虹花のスキャンダルもうーんと思ってしまう。そもそも俺はアイドルに恋愛禁止を強いる構造はヤバくね?と素朴に思う(恋愛禁止条項を設けることについては裁判例もかなり分かれている)し、アイドルがホストと密会していたという程度の話を芸能人の不倫報道と同格にブチ込む週刊誌報道の在り方も問題なしとはしない(ただ個人的には欅坂に親でも殺されたかと言わんばかりの文春の狂った前傾姿勢は嫌いではない。イエロージャーナリズムに頑張ってほしい悪辣な人間なので)。しかし、これは予想できたことであり、というかこの手の問題が継続して起きてきたのが欅坂なわけで、そこらへんのリスクマネジメントどうなってんだと思う。キャプテンの菅井がオンラインライブのあいさつで「今、グループとして強くなるために、新しく入ってきてくれた2期生、新2期生、そして1期生の28名でここから新たなスタートを切り、もう一度皆さまとたくさんの夢を叶えていけるように頑張りたいと思っています。」と言っていたが、ここで「28名」という人数を入れる必要があったのだろうか。そういうチェックとかどうなってんねんと思ってしまう。

 なお、文春報道によれば、既に石森は運営側に卒業の意向を伝えているという。余談だが石森は本当に欅坂のことを考えていた子なんだなというのは映画を観ていて思った。映画でも平手に常に寄り添っていたのは石森だったし、9枚目シングルで導入された選抜制で落とされた他の子たちのために怒っていたのも石森だった。しかし本当に大事なのはこういう子のケアである。これはちょっと言い過ぎなところもあるかもしれないが、運営側が1人1人にもっとしっかり向き合っていればこんなことにはなってないのではないか。

 映画冒頭で、メンバーたち(記憶があやふやだが齋藤と石森だったと思う)が口々に言っていた「優しい子たちが多いから、誰かの感情をみんな同じように共有してしまう」「みんなで手をつないで崖に立っていて、誰かが落ちればみんな落ちていく」という話が印象に残っている。そういったメンタルのケアが十分に行われていたのだろうか。映画では、菅井が欅坂の状況に「メンバーがみんな我慢して残ってくれるんだろうか」と泣きながら吐露するシーンがある。アイドルが強いられる我慢というのはおよそ一般男性異常者の想像を超えるものがあると思うが、公の場で「我慢」とまで言わせるほどの状況にまで人間を追い込むのは運営ヤバくないっすか?となってしまう。そういう部分をおざなりにした挙句、文春に洗いざらいリークする人間がいる組織が、さて改名して新たに頑張りますというアイドルグループを支えられるのだろうか。

 

 俺もアイドルなるものをコンシャスに観察し続けて日が浅く、先行研究に全く目を通したことがないレベルでの物言いになってしまうが、アイドルとは結局「現象」に過ぎないのではないかと思うことがある。それを作り出しているのは生身の女の子に過ぎないが、その「現象」やファンや運営、メディアなんかと一緒に膨らましていくものだ。映画で菅井が「私たちって普通の女の子なのに、世間で受け止められているイメージとは違うなっていう思いはありました」みたいなことを言っている。下積み経験がほとんどないままスターダムに駆け上がり、「不協和音」の反骨的なイメージが欅坂を代表していくようになっていく中で、その「現象」をこのグループは結局背負いきれなかったという意味では失敗だったのだと思う(個人的には、欅坂を象徴しているのは「不協和音」ではなく「二人セゾン」ではないかと考える。この曲の儚さに、ある種のロマン主義的な精神が仄見える気がする。しかし、どこまでいっても自己主張の延長線に過ぎなかったそれに終止符を打ったのが「誰が鐘を鳴らすのか」だと思う)。

 しかし、失敗したにしても、5年間において築き上げた楽曲やパフォーマンスは確かに素晴らしいものだったと俺も思う。立憲民主党を結党した時に枝野幸男の持ち歌で話題になったと思えば、周庭が国安法違反で逮捕された時に思い浮んだのも欅坂の曲である。シリアスな政治ニュースでアイドルの曲が出てくるのはあまり日本では聞かない話だ。それぐらい、欅坂の曲が広く訴求力を持っているということは少なからず言えるだろう。俺自身、単純に一番好きな曲は「二人セゾン」だが、「月曜日の朝、スカートを切られた」の歌詞はかなり俺の人生そのものに響くものがある。そして、ライブパフォーマンスにおいては絶大な支持を受け続けたアイドルグループである。未完のプロジェクトであり、趨勢としては失敗と診断せざるを得ないが、それをもってして欅坂の歴史を「瓦礫」と言うにはあまりにも色彩豊かなレガシーを残していることも述べておかねばなるまい。ちなみに映画はそのパフォーマンスの凄さを体験できるという意味では、多分俺みたいな欅坂にちょっと興味がありますぐらいの人間にはとてもいいコンテンツなのではないかと思う。

 

 一部の楽曲の力強さ、そしてそれが「欅坂」だという世間的イメージ=現象に引きずられてきた彼女たちだったが、駆け上がる次の「坂」はもう迫ってきている。だが、もし「欅坂」の総括をこの映画で事足れりとするのであれば、きっと「欅坂」は今後も「櫻坂」を上らんとする彼女たちの重荷になり続けるであろう。そうならないようにするのは、まさに「大人の責任」が求められているのであるまいか。