死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

【映画感想】『バイス』――絶対的権力の「何が」徹底的に腐敗するのか

 アクトン卿のよく知られている格言で「権力は腐敗する、絶対的権力は徹底的に腐敗する」という言葉がある。昨今の日本の政治状況を見ても「そやね」と確信できる言葉だと思うが、しかしよくよく考えてほしい。権力の腐敗、とは一体全体何を指しているのか。権力を持つ者の腐敗か、権力を行使する組織の腐敗か、あるいは「権力」概念そのものの腐敗か。そもそも、「腐敗」とはどのような状態を指すのか。

 

 『バイス』は、簡単に言ってしまうと『マネー・ショート』のプランBが再結集してこの問いかけにふざけながらもとりあえず60点の答案を出してきた作品だ。60点というのは、エッセンスは確かだが、「おふざけ」が過ぎるなと思うからであって、むしろ誉め言葉である。

 

 主人公はクリスチャン・ベールが演じるディック・チェイニーアメリカ史でも類を見ない政治権力を副大統領ながら、いや副大統領だからこそ手にした男だ。チェイニーが如何にして権力の階梯を登りあがっていったのかにフォーカスをあてていく。

 

 飲んだくれてせっかく入ったイェール大学を退学し、飲酒運転で捕まるチェイニーに愛想がつきかける恋人のリン。リンは飲んだくれた父親が母親に暴力をふるうことを念頭に「そういう結婚はいやだ。そうじゃないと証明しろ」と強く言い、チェイニーはまともになることを決意、議会インターンの仲間入りをする。ここで、スティーブ・カレル演じるラムズフェルドが壇上からインターンたちを皮肉って「精鋭(ベスト・アンド・ブライテスト)?」と皮肉るシーンがあるが、ベスト・アンド・ブライテストとはケネディ及びジョンソン政権でブレーンを務めた補佐官や閣僚を指す(そして、彼らが如何にベトナム戦争の泥沼にはまったかはハルバースタムが描き切った通りだ)。実際、ドン(ラムズフェルドの愛称)とディックは、その後共和党の「ベスト・アンド・ブライテスト」として、ニクソンとフォードに仕え、ディックは下院での経験を経てレーガン・パパブッシュに仕える(ラムズフェルドレーガンブッシュ政権では閣僚入りしていない、念のため)。そして、彼は子ブッシュ政権下で「お飾り職」とされてきた「バイス=副大統領」を射止め、権力の絶頂期に至り、対テロ戦争などの重要なプロセスで彼が主導的役割を担ったかが描かれる。

 

 こうした中で、チェイニーが培ってきた行政・立法での経験が彼が「バイス」になった時の鮮やかな権力掌握術につながる。この点については、映画を見るよりもバートン・ゲルマン『策謀家チェイニー』に詳しい(というか、これが種本だろと思うようなシーンがちらほらあった)し、正直映画よりも法律顧問のアディントンや副大統領首席補佐官だったスクーター・リビー(ブレイム事件で訴追され有罪判決だったが、最近トランプ政権下で恩赦になったらしい)のあくどさがよくわかる。とはいえ、映画でもエッセンスはきちんと描かれていると思った。ラムズフェルド、ウォルフウィッツ、リビー、アディントンらとチェイニーがホワイトハウスと省庁人事を固めるところが、個人的には映画の中で一番アガったところだ。下の下にいた人間が上の上でやらかしまくるのが好きなので。

 

 まあ、論点は多岐にわたるが、この記事で注目したいのは、映画で描かれる「権力の無目的性」だ。リンに「証明しろ!」と言われたので「はい、じゃあ証明しま~す」とばかりに権力の階段を駆け上がっていくチェイニーだが、映画では「何で偉くなりたいのか」が全く見えてこない。世の中をよくしたい!とか、偉くなりたい!とか、金ばらまきたい!とかそういうのが「目的」として描かれない。もちろん現実のチェイニーにも何かしらの理念はあったのかもしれないが、この映画はチェイニーの抱く理想像に対しては極めて禁欲的だ(本論とは外れるが、これは民主主義という理念を実現するべく軍事的手段も辞さないというネオコン=ウォルフウィッツ的な発想を指弾するリベラルしぐさとは一線を画しているというメッセージだと思った。あるいは、「アメリカはネオコンがダメにした!」的な主張のバカバカしさを再演するまでもないということだろうか。ネオコンをある政策志向を持つ外交的職能集団として定義すると、その世界観についての検討がしばし疎かになると個人的には思う)。何のために権力を握るのか、それが観客もチェイニーも全く分からないまま、全てが掌握されていく。

 

 こうして獲得された自己目的化権力は、それを規制する理念を欠いているため、いわば「なんでも入る箱」になってしまう。結果として、ありとあらゆる常軌を逸した構想が、副大統領と側近たちの密室政治で曖昧に実現されていく。印象的なのは、チェイニー、ラムズフェルド、ウォルフウィッツ、アディントンがテーブルを囲むレストランで、ジョージ・テネットCIA長官が給仕役となってメニューで「レンディション(国外におけるテロリストの違法な移送)などいかが」という政策を提示し、チェイニーは大した検討を加えることなく「全部もらう」というシーン。こうして、CIAの「ぼくのかんがえたさいきょうのちょうほうかつどう」にお墨付きが与えられ、あとはティム・ワイナーが書いた通り、そのしっぺ返しで悲惨なことになる。

 

 最初の問いに戻ろう。この映画によると、権力の腐敗とはつまるところ「権力の無目的性から生じる自己目的的な権力の邁進」である。映画で描かれる大企業への利益誘導も民主主義的プロセスを度外視した密室政治も、それが目的ではなく「権力」への手段でしかない。この場合チェイニーという「権力者」個人にこの「腐敗」の責任を問うのは筋違いだろう。チェイニーは確かにこの「権力」の完成者であるが、しかしそもそも少数者による政策決定の伝統は、少なくともケネディ政権から既に用意されていたのである(もっと前からかもしれない)。映画で何度も問題になっているUnitary Executive Theoryについても、その土壌はニューディール以降の執政府への権力集中にあったとみるべきだろう(実際、副大統領が実質的な役割を持つだろうという観測はフォード政権からあったはずだ)。この「腐敗」は運命づけられているようなものであり、チェイニーはジェンガの最後の1本を抜いたに過ぎない。チェイニーは邪悪なのではなく、統治機構や議会操縦を知り抜いた上で、その権力獲得の先に何をなすべきなのかが明白でなかったことが問題なのだ。そして彼は、保守系シンクタンクの勃興を背景に、PNACネオコンの世界観にのっかった、というよりもそれさえも利用したとするのは、言い過ぎかもしれないが。

 

 チェイニーもラムズフェルドも「アメリカを守る」ということはお題目のように繰り返すが、アフガニスタンタリバンを瓦解させた後に、アルカイダと本来的にはつながりのうすいイラクに謎のぶっこみをかける時点でそんなものは嘘だとわからなくてはいけない。じゃあ結局このマッドティーパーティーは何で行われたのか? ということがよくわからない。さらに恐ろしいことに、時系列を徹底的にシャッフルして観客の時間意識をずらした上でこの映画が問いかけるのは、「パーティーは本当に終わったのか?」ということである。そして、チェイニーによって完成した権力が向かう先を誰も知らないとしたら……。ここから先は映画の話ではなく、紛うことなき現実のアメリカ政治を振り返る必要があるだろう。バカバカしく笑える映画だが、あくまで現実への手引きでしかないということだ。最後のシーンは、アダム・マッケイによる観客への「いつまで映画で消耗してるの?」という皮肉なのかもしれない。

 

 基調はおふざけだが、アメリカ政治史へのきちんとした目配りが随所にある。こういうのを見て「こんなんでイラクの人たちが死んだの? 気分悪い……」と思う向きでなければ、オススメできると思う作品だ。

 

あー終わった終わった

 家庭、ついに終わりそうです。

 

 まあ、帰ってきた時に母親から「そろそろ限界」ということは聞いていた。父親の粗野な人間性に40年近く我慢してきたことを考えるとしょうがない。この国のシステム上、熟年離婚はどっちも幸せな結果にならないということだけはその時伝えたが。そして今日、ついに母親がキレた。父親はまともに取り合わず、この日は重い空気が支配して終了したが、恐らくそろそろ母親は家を出るんじゃないかと思う。その時、俺はとりあえず退職金の半分を渡し、しばらく食いつないでもらうことを考えている。とはいえ、どこに住むのか? 区のDVシェルターは受け入れてくれるだろうか? 母は友人が多いと思うが、しかしいきなり「家を出てきた。助けてくれ」と言って助けてくれるだろうか? いろいろ心配はあるが、とにかく今は父と母どっちも顔を合わせないことが重要だろう。もはや話し合いでどうこうなるレベルではないっぽい。

 

 こうなる原因は何だったのか。書きながら考えているが、やはり主因は父親にあると言わざるを得ない。典型的に酒で人生をダメにしている。俺もまあ酒でそこそこの失敗をやらかしているが、父親の酒癖の悪さは本当に最強クラスだと思う。そこに野球が重なると地獄になる。カープ好きジャイアンツ嫌いの父親だが、カープが負けて巨人が勝つと本当に不機嫌になって物に当たるわ、叫び声をあげるわする。それでテレビを1回ブチ壊しているし、あまりに奇声を上げるので隣の家の赤ちゃんが泣いてしまい、俺と母親がそこの両親に平謝りすることもあった。そして今日、カープは中日に負けやがった。9回表で2点取り返したが、追いつけなかったので、そのせいで今日の親父は荒れていた。カープは俺と母親に謝ってほしい。まあそもそも野球中継ごときで熱くなる奴は死んだ方がいいと率直に思うが。そんな奴ファンでも何でもなくて、ただ怒る原因探してるだけだろと言いたくなる。

 

 こんなことから、うちでは結構父親は触らぬ神に祟りなし的な扱いをしていた。まあ、それで結局父親が家の中で孤独感を持っていて、酒やら自分の趣味に逃げるしかないとしたら、責任の一端が俺と母親にないわけではない。しかし、そうなる理由がそもそも自分の粗野な性格に端を発するのならば、悪いがそりゃ自業自得だよとしか言えない。俺は少なくとも親父を理解しようと試みたことは何度かあったが、結局無駄だった。母親に至っては、無駄だと思っていたのだろう。それでも俺を社会に送り出す前までは我慢していたと思う。

 

 そのいい例が、俺が小学生(いや中学生だったかもしれない)の頃の事件である。父親があろうことか、浮気していたのだ。田舎の同窓会であった女らしい。母親はもちろんブチギレて即離婚ということになり、まあそれまでも地元のゴミみたいな底辺スナックで酒を飲んでは家で怒鳴り散らかすような人間で、そういう不満もぶちまけまくった。父親は父親で「じゃあもう勝手にしろや!!!!!」と離婚する気マンマンだったのだが、当時の俺が大泣きして「嫌だ!!!!!!!」って言ったのである。

 

 結局父親はスナックで酒を飲まない・浮気は解消する、そういうことでこの騒ぎは収まったのだが、最近ある一件(これも父親の酒絡み大失敗である)を起こし、それがショックでまたそのスナック(まだ潰れてなかったんかママは早く死んでくれ)に通い出したのである。まあ、そういうこともあって母の限界はとっくのとうに超えていたのだろう。今日の一件は、来たるべくして来た、そういう感じである。

 

 俺も父親には我慢していた。バラエティ番組はつまらんといってリモコンを独占して日本のクソみてえな演歌番組ばっかり垂れ流すかと思えば、もう10回は見たよという寅さんの映画の再放送を好んで見たりとか、酎ハイやハイボールを作るときに氷を必ず家族の誰かに持ってこさせるとか、休日は釣りに行って家のことはしないし帰ってきたから釣ってきた魚の処理は母にやらせるわタコを俺にもませるわ、酒に酔っぱらうと意味もなく閉鎖的な田舎に電話して毎度毎度俺が小言を言われるわ、フラストレーションは常にたまっていた。とはいえ、父親は一応俺の大学までの金を出してくれた恩もある。それに、飲んでいない時とカープの試合を見ていない時の父親はただのまとめサイト感染極右差別主義者(63にもなってまともな見識ひとつ持っていないというのは悲劇だ。高校まではそこそこの秀才だったと聞くが)なので、あまり話をしないことで放置をしていた。しかし、今日の一件で父親は母親の恨み辛みにまともに取り合う気がないこともわかった。これ以上はもういろいろとやっても無駄だろう。

 

 当然の理だが、俺は母親につく。父親は帰りたかった田舎に帰るなり何なりすればいい。アル中になって適当に死ぬだろう。クズにはふさわしい末路だ、母親(俺にとっては祖母)より先に死ぬという親不孝さえしなけりゃもうなんだっていい。財産分与も適当にしてもらいたいが、家はローン含め引き取りたいと思っている。とはいえ、親父が家を分捕る可能性も踏まえ、早急に俺自身が就職を決めて財政を立て直し、母の面倒を見ないといけない事情も出てきた。俄然えり好みしない就職活動が求められている。しかし前職があまりに特殊だったのでポータブルスキルに乏しい。どうすればいいんだ俺は。実は意外に詰んでいるのではないか。そうなったら殺してもらうしかない。そうだ、殺してもらうのはいつだってできる。俺はやる、やりたい、やらなくちゃ、それはカス。俺は俺のリアルを信じるぞ。

 

 

 

本は重い

 1000冊以上の蔵書を引き連れて東京に帰ると決めた時、親が提示したのは実家の俺の部屋の蔵書のほとんどを処分しろという条件だった。2か月ぐらい悩みあぐねた結果、俺はそれを受け入れた。

 

 当然ながら最初は渋っていた。何故って、読んでいない本もたくさんあったし、読み返したい本もそれなりにあった(とはいえ、そういう本は大体買い直したりしていた)。しかし、現実は厳しい。我が家の4畳半の小さい部屋に、ゲーミングパソコンやらテレビやらを入れるだけでも一苦労なのに、ましてや本を新たにぶち込むとなると、明らかにドの四次元超越神力が必要なのである。かつてヴァージニア・ウルフは「女性が小説なり詩なり書こうとするなら年500ポンドの収入とドアに鍵のかかる部屋が必要」 とかぬかしたらしいが、21世紀風にアップデートすると「人間が高度に知的な生活を送ろうとするならば年500万円以上の収入と鍵のかかった完全防音の6畳の部屋が必要(要議論)」である。

 

 昨年10月から辞めるプランは真剣に練っていて、母親にもその話をしていた。すると母親が蔵書の話をブチこんできたので、正味半年ぐらいはその問題について考えたことになる。いや、正確に言うと直前まではもう片隅オブ頭の片隅に置いておいて、いざ引っ越すぞという段になって実家の蔵書を売りさばく結論を導き出した。

 

 理由は大きくわけて2つ。

 

 ①自分の部屋にある本の方が実家の本よりも今の自分の関心を反映している

 ②もし仮に断捨離するならば予め本棚によって整序されている実家の本の方がやりやすそうである

 

 ほんとかよと思う向きもあるかと思うが、まあ概ねこの判断は間違っていなかったと今では思う。

 

 というわけで、まず実家に帰ってきてやったのは蔵書の整理である。本を自分のお小遣いから買うようになったのは中学生からで、本棚もその時買ってもらった。多分初めてちゃんと自分のお金で買ったのは、春日部のリブロで「ひぐらしのなく頃に 鬼隠し編」の漫画版ではなかっただろうか。表紙買いである。

 

 と話題が思い出に逸れてしまったが、その本棚からまず本を抜き取り、大まかに「哲学」「宗教」「歴史」「文学」「政治」「その他」と大書した6つの段ボールにどんどん投げ入れていった。それがある程度たまると「哲学2」とか「政治3」を作り、最終的には「哲学4」「宗教2」「歴史5」「文学3」「政治6」「その他3」という感じになった。それでも本が3割ぐらい残っていたのだが、もう疲れたしブックオフとかで100円で買ったようなもんばかりだし……ということでこちらジャンル問わずひとまとめにして、すぐに宅配便でなんでも鑑定し引き取ってくれるダイソンみたいな買取サービスに送り付けた。8箱ぐらい詰めた本だが、結局合計2万円行くか行かないかだったと記憶している。

 

 それで、残った本たちをさらに選別した。選別の基準は「この先10年以内に再読の機会があるか」である。そうやってみて本を見てみると「ああ、まあこれは読まないかな」と意外にもクリアに判別出来てしまう。そんな自分に驚いていた。

 

 思えば俺はJ・S・ミルがブチ上げた「なんでもそれなりに知っていて、何かひとつはとてもよく知っている」教養人の理想を追い求めた結果、その「何かひとつ」をうまいこと定められずに典型的な器用貧乏になってしまったのだが、積み上げてきた書籍のラインナップはまさにそんな感じだった。大学時代は暇もあったので、何でも読めるだろと思って買っておいた本も、3年働いて人生の自由に使える時間の有限性を身をもって知った上で眺めてみると、なんだかこれ一生読まないだろうなっていう気がするのである。ある程度自分の方向性が定まったというよりも、知的好奇心が減退したとか、自分の生活との折り合いをつける際に、生活を若干優先させる程度の関心になったという方が真実に近いだろう。

 

 ただもうひとつ理由を挙げるとすれば、俺が買っていた本のほとんどは買い直しも容易だったという点である。たとえば古書店価格でも数万するような本だったら絶対に処分しないが、数千円ぐらいなら気合を入れれば買えるのである。これは社会人という身分で自分で稼いだお金で本を買って分かったのだが、どんな時でも月に5000円以上の本一冊ぐらいは何とかなる、気がする(あまり断言はできないが)。俺は労働が一番激しかった時期にそのストレス解消にヤフオクやアマゾン含め1か月で40万ぐらい本を買ったこともあるが、そこまではしなくても、月の収入のうち1割でも本のためにとっておくとしたら、一応本は買えるだろう。だとしたら、別に売ってしまっても問題はないだろうなと考えた次第。

 

 以上のことから、本の選別はスムーズに進んだ。ほぼ8割ぐらいは段ボールに詰めたまま普通の古本屋に送り付け、あるいはどう見ても売れねえだろってぐらいボロボロな本は資源ごみにした。大体1500冊ぐらいは処分したことになる。

 

 残った本は300冊ほど。そこで、新しくやってきた本を本棚に入れて、何とか収めることに成功した。こうしてみると、前よりも本棚が広く感じた。ネックだったのが、これまで本棚に入っていた本がどちらかというと安価な文庫本が半数を占めていたので、全集やハードカバーが入るようにちょっといろいろしなければならなかったというところ。そして、その作業を何とか1日で終えた後「もう本はあまり増やしたくないな」と感じたのである。

 

 引っ越す前までは、本はいくらでも買ってやろうという気持ちであった。しかしそれはまあそこそこ広い部屋に住んでいて1000冊ぐらい本を買っても何とかなっていた時期の話で、改めて4畳半のクソ狭い部屋に本を詰めまくった環境に自分が今後も住むということを考えた場合、よし蔵書これ以上増やしたら死ぬなと考えるのは自然な気もする。そういう自然な思考ができないと「足の踏み場も……」みたいなヤバい蔵書家が誕生するわけだが、あいにく今の俺にはそんな金もなければその蔵書をためてこれから読むであろうという知的エネルギーも多くはない。もちろん、本はこれからも読んでいきたいし、ディビジョン2(UBISOFTさんお金返して!!!!!!)に目途がついたらすぐにでもホメロスから読み始めたい気持ちがある。そういう中で、また買いたいなという本があったら買って(あるいは図書館利用の比重も増やしつつ)、その代わり読んだ本でもう読まないかなっていうものはどんどん売っていくか人にあげようと思う。そういう新陳代謝も必要かなと思ったのだ。

 

 蔵書の量でその人の知的な伸びしろが決まる、と個人的には思っている。なぜならば、その人が頻繁かつ簡単にアクセス可能な知識の集合体が、その人の習慣とアティチュードを”組織する”と考えるからである。とはいえ、無限に蔵書の量を増やせるわけがない。知的生活も大事だが生活がなければ人間は死ぬだけなので、生活を優先しないといけない。もちろんある種その生活を犠牲にするレベルの「命がけの跳躍」も必要かもしれない。しかしそれはその時が来たら考えればいいかな。

 

 前の記事でも書いたが、今月は本を買っていない。まあ退職にともなって収入が虚無になったからだが。とはいえ、今後本を買うときは、前みたいにバカスカ買うのではなく、もっと深慮を働かせる必要があるだろう。読んでくれー読んでくれーとわめいている本棚を見てそう思った次第です。以上。

ブログ不定期更新に戻します

 最近のブログを見返していました。酷いですね。

 

 一応、人に見てもらうという意図があったわけですけど、しかしそのレベルに達していないなと評価せざるを得ないと思いました。毎日更新はやっぱりつらい。なので、ちゃんと書きたいこと、書くべきことが舞い降りてきた時のみ書くスタイルに戻します。

アメリカ市民を守りたいオタク

  はい、そろそろね、ちゃんと人生に向き合わないといけないんですけどね、表題の通り、The Division 2を30時間ぐらいやっておるのですよ。ブログの更新もおかげで滞ってしまいましたね。マロタ。

 

 とはいってもそろそろメインミッションもラストなので、ここで打ち止めにしますよ(何かまだ大きなアップデートも来ていないので)。そろそろマジで諸々に取り組まないと本当1年ぐらいプータローをすることになり、しかし我が家の家計的にそれはキビシイことが明らかなので。何とか人生つなげたいですね。はい。

緊縮財政とタイムマネジメントをやる

 ここのところあいまいに呆けていたら、無限に時間が過ぎ去っていくことが捜査関係者への取材でわかってきた。いや捜査関係者に聞くまでもないのだが……。あと、無駄にお金を使ったら無限にお金がなくなることもわかった。これは大発見だ。

 

 そこでいやいやながら、今日から生まれて初めて緊縮財政とタイムマネジメントを導入することにした。緊縮財政をとる理由は簡単で、お金がないからというしごくもっともな理由である。とはいえ、「来月の給料日まで1万円しかない……どうやって暮らそう……毎日味噌を舐めて生きるしか……」的な悲惨さとは程遠く、ただ趣味の多くを制限するというだけである。それとタイムマネジメントについては、このままだとお勉強時間がとれないので、何とかして捻出したいのである。できれば今年の公務員試験には受かりたいなと思っているので(あと転職活動そろそろ始めないといけない。そろそろエントリーシートなるものを書こうと思います)。

 

 ここに、自分用に簡単ながら守るべきことを箇条書きしておく。あえてブログに載せるのは、今後俺のブログでもし「あーDivision2を6時間やっちゃったわ」と書いたら誰かに怒ってほしいからだ。いや別にそういう必要はないんですが、あえて公表することで他人の目線を内面化したいという気持ちがある。

 

 まず、緊縮財政については、

 

 1、3000円以上の外食は原則月2回まで。1000円以上3000円未満の外食は月5回まで。それ以外は適当にすます。ただし、人付き合いは例外とする(交際費は自己自身への投機的な側面もあるので)。

 2、しかし、原則は食事は実家で朝昼晩すますのがベスト。

 3、本。新刊や古本などを買わない。さしあたって6月30日まで墨守する。出版社の方ごめんなさい、でも仕事していた時は毎月10万近く買ってたんです。

 4、映画。映画館で公開されているものは月2本まで。それ以上見るのであれば他の費用削減を検討すること。

 5、その他、必要経費については、家計簿をつける(方法は問わない)。

 

 続いてタイムマネジメントですが、現状固定的に不可避な週4の5時間労働(並びに往復の電車移動2時間)のことを考えた上で、

 

 1、就職活動、あるいは公務員試験の勉強に1日最低3時間は費やせるようにする。この勉強は電車でパラパラと過去問集などををめくることではなく、机に向かってノートを開きながら問題を解くことを指す。最低3時間なので、できれば5時間以上が望ましい。

 2、ゲームや読書などの時間は、合わせても2時間、ないし3時間以内にとどめるべき。通勤中にできる読書ならそこでしてしまう。

 3、週20時間以上勉強ができなかった場合、次の週は勉強できなかった差分の時間×2を勉強時間としてプラスする。

 4、ブログを書く時間は30分以内とする。

 5、1日の最後には次の日のおおまかな予定を作り、書面にする。

 

 こんなもんだろうか。もっといいやり方があるという人は教えてほしい。というわけでお願いします。

20190320

 今日は就労お休みです。その代わり諸々の引っ越し関連のことをやっていました。そういえば明日は祝日で休日なんですね(1週間前まで毎日休日だったマン)。だけど出勤しないといけないっぽいのでなるほどにゃんこねえとなっている。

 

 改めて1日フルで休みだと感情がすごいぴょんぴょんしてしまうということを実感した。なんだろう、適度な労働の後の休みは最高という感じである。前職みたいにぶっ通して深夜まで働いた後アホみたいに酒飲んで迎える休日というのは、もはやただの人間活動の停止である。そういう意味で久しぶりに普通の労働者っぽい休暇を味わった気がする。

 

 しかし、何だって俺はほとんど休みの毎日を送れるはずなのに働いているのか。一瞬だけ「あれ、俺また前職に入った時みたいに向こう見ずにやっちまったか?」と思うことがしばしある。多分実際そうなのだ。年金や住民税が怖いので稼いでおきたいというのはあったが。本当はもっと徹底して休むべきだったんじゃないか。まあそんなことを考えています。

 

 毎夜毎夜人生の不安に駆られている。どうすることもできないので今日もDivision 2をやって銃を持った悪い連中からの人助けに勤しみたいと思う。現実逃避。嗚呼。