死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

本は重い

 1000冊以上の蔵書を引き連れて東京に帰ると決めた時、親が提示したのは実家の俺の部屋の蔵書のほとんどを処分しろという条件だった。2か月ぐらい悩みあぐねた結果、俺はそれを受け入れた。

 

 当然ながら最初は渋っていた。何故って、読んでいない本もたくさんあったし、読み返したい本もそれなりにあった(とはいえ、そういう本は大体買い直したりしていた)。しかし、現実は厳しい。我が家の4畳半の小さい部屋に、ゲーミングパソコンやらテレビやらを入れるだけでも一苦労なのに、ましてや本を新たにぶち込むとなると、明らかにドの四次元超越神力が必要なのである。かつてヴァージニア・ウルフは「女性が小説なり詩なり書こうとするなら年500ポンドの収入とドアに鍵のかかる部屋が必要」 とかぬかしたらしいが、21世紀風にアップデートすると「人間が高度に知的な生活を送ろうとするならば年500万円以上の収入と鍵のかかった完全防音の6畳の部屋が必要(要議論)」である。

 

 昨年10月から辞めるプランは真剣に練っていて、母親にもその話をしていた。すると母親が蔵書の話をブチこんできたので、正味半年ぐらいはその問題について考えたことになる。いや、正確に言うと直前まではもう片隅オブ頭の片隅に置いておいて、いざ引っ越すぞという段になって実家の蔵書を売りさばく結論を導き出した。

 

 理由は大きくわけて2つ。

 

 ①自分の部屋にある本の方が実家の本よりも今の自分の関心を反映している

 ②もし仮に断捨離するならば予め本棚によって整序されている実家の本の方がやりやすそうである

 

 ほんとかよと思う向きもあるかと思うが、まあ概ねこの判断は間違っていなかったと今では思う。

 

 というわけで、まず実家に帰ってきてやったのは蔵書の整理である。本を自分のお小遣いから買うようになったのは中学生からで、本棚もその時買ってもらった。多分初めてちゃんと自分のお金で買ったのは、春日部のリブロで「ひぐらしのなく頃に 鬼隠し編」の漫画版ではなかっただろうか。表紙買いである。

 

 と話題が思い出に逸れてしまったが、その本棚からまず本を抜き取り、大まかに「哲学」「宗教」「歴史」「文学」「政治」「その他」と大書した6つの段ボールにどんどん投げ入れていった。それがある程度たまると「哲学2」とか「政治3」を作り、最終的には「哲学4」「宗教2」「歴史5」「文学3」「政治6」「その他3」という感じになった。それでも本が3割ぐらい残っていたのだが、もう疲れたしブックオフとかで100円で買ったようなもんばかりだし……ということでこちらジャンル問わずひとまとめにして、すぐに宅配便でなんでも鑑定し引き取ってくれるダイソンみたいな買取サービスに送り付けた。8箱ぐらい詰めた本だが、結局合計2万円行くか行かないかだったと記憶している。

 

 それで、残った本たちをさらに選別した。選別の基準は「この先10年以内に再読の機会があるか」である。そうやってみて本を見てみると「ああ、まあこれは読まないかな」と意外にもクリアに判別出来てしまう。そんな自分に驚いていた。

 

 思えば俺はJ・S・ミルがブチ上げた「なんでもそれなりに知っていて、何かひとつはとてもよく知っている」教養人の理想を追い求めた結果、その「何かひとつ」をうまいこと定められずに典型的な器用貧乏になってしまったのだが、積み上げてきた書籍のラインナップはまさにそんな感じだった。大学時代は暇もあったので、何でも読めるだろと思って買っておいた本も、3年働いて人生の自由に使える時間の有限性を身をもって知った上で眺めてみると、なんだかこれ一生読まないだろうなっていう気がするのである。ある程度自分の方向性が定まったというよりも、知的好奇心が減退したとか、自分の生活との折り合いをつける際に、生活を若干優先させる程度の関心になったという方が真実に近いだろう。

 

 ただもうひとつ理由を挙げるとすれば、俺が買っていた本のほとんどは買い直しも容易だったという点である。たとえば古書店価格でも数万するような本だったら絶対に処分しないが、数千円ぐらいなら気合を入れれば買えるのである。これは社会人という身分で自分で稼いだお金で本を買って分かったのだが、どんな時でも月に5000円以上の本一冊ぐらいは何とかなる、気がする(あまり断言はできないが)。俺は労働が一番激しかった時期にそのストレス解消にヤフオクやアマゾン含め1か月で40万ぐらい本を買ったこともあるが、そこまではしなくても、月の収入のうち1割でも本のためにとっておくとしたら、一応本は買えるだろう。だとしたら、別に売ってしまっても問題はないだろうなと考えた次第。

 

 以上のことから、本の選別はスムーズに進んだ。ほぼ8割ぐらいは段ボールに詰めたまま普通の古本屋に送り付け、あるいはどう見ても売れねえだろってぐらいボロボロな本は資源ごみにした。大体1500冊ぐらいは処分したことになる。

 

 残った本は300冊ほど。そこで、新しくやってきた本を本棚に入れて、何とか収めることに成功した。こうしてみると、前よりも本棚が広く感じた。ネックだったのが、これまで本棚に入っていた本がどちらかというと安価な文庫本が半数を占めていたので、全集やハードカバーが入るようにちょっといろいろしなければならなかったというところ。そして、その作業を何とか1日で終えた後「もう本はあまり増やしたくないな」と感じたのである。

 

 引っ越す前までは、本はいくらでも買ってやろうという気持ちであった。しかしそれはまあそこそこ広い部屋に住んでいて1000冊ぐらい本を買っても何とかなっていた時期の話で、改めて4畳半のクソ狭い部屋に本を詰めまくった環境に自分が今後も住むということを考えた場合、よし蔵書これ以上増やしたら死ぬなと考えるのは自然な気もする。そういう自然な思考ができないと「足の踏み場も……」みたいなヤバい蔵書家が誕生するわけだが、あいにく今の俺にはそんな金もなければその蔵書をためてこれから読むであろうという知的エネルギーも多くはない。もちろん、本はこれからも読んでいきたいし、ディビジョン2(UBISOFTさんお金返して!!!!!!)に目途がついたらすぐにでもホメロスから読み始めたい気持ちがある。そういう中で、また買いたいなという本があったら買って(あるいは図書館利用の比重も増やしつつ)、その代わり読んだ本でもう読まないかなっていうものはどんどん売っていくか人にあげようと思う。そういう新陳代謝も必要かなと思ったのだ。

 

 蔵書の量でその人の知的な伸びしろが決まる、と個人的には思っている。なぜならば、その人が頻繁かつ簡単にアクセス可能な知識の集合体が、その人の習慣とアティチュードを”組織する”と考えるからである。とはいえ、無限に蔵書の量を増やせるわけがない。知的生活も大事だが生活がなければ人間は死ぬだけなので、生活を優先しないといけない。もちろんある種その生活を犠牲にするレベルの「命がけの跳躍」も必要かもしれない。しかしそれはその時が来たら考えればいいかな。

 

 前の記事でも書いたが、今月は本を買っていない。まあ退職にともなって収入が虚無になったからだが。とはいえ、今後本を買うときは、前みたいにバカスカ買うのではなく、もっと深慮を働かせる必要があるだろう。読んでくれー読んでくれーとわめいている本棚を見てそう思った次第です。以上。