死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

抜き書きについてのちょっとした覚え書き

 皆さんは本を読む時、ノートをとりますか? 俺はほとんどとらない。昔とってたこともあったが、「読み返さないノートとるくらいなら本読む時間増やすわ!」と気づき、とにかく自分の頭の記憶力に「根拠ねえ自信で俺はこのゲームの賭けに乗った」(VS呂布カルマ戦でのT-Pablow)という勢いでやっていた。

 

 ま、実際それで何とかなっていたのである。10読んだうちの1か2ぐらいは完璧に覚えていたし、3から7ぐらいはあやふやだが適当に「あんな感じで言ってたなあ」とか言いながら乗り切った。完璧に忘れた8から10はまあどうでもいいやろと割り切った。とにかく知識を頭に詰め込み、その整理は寝ている時に任せた(よくあるビジネス本に書いてある数少ない真理のひとつだと思う)。大学時代はそんな感じで友達に話すネタや何かについて意見を交わす時の参考材料にした。サークル誌に載せた学術的とも衒学的とも言える論文もどきのエッセーやこっぱずかしい卒論を書くときは、ノートよりも文献情報をメモして、それをもとに文献を読み返すということを繰り返していた。

 

 ところが、仕事を始めて3年目。今や覚えていたことはすっかり忘れてしまった。人間は1日1日生きるだけで何かを経験し、記憶する。そして記憶は新陳代謝される。労働で流した汗と一緒に、ひたすら得た知識も流れていくような気がした。人間は数年で変わってしまう、ということの怖さを日々感じる。変わりゆく怖さ、変わってしまった後を想像する恐ろしさを。

 

 そんな時に「ああ、抜き書きしておけばよかったなあ」なんてちょっと思ったのは、GWに東京に帰った時、映画「マルクス・エンゲルス」を見たのがきっかけだ。映画の評価はまたどっか別の機会にしたいが(とはいえ、俺は映画を論じるのが絶望的に下手なのでしない。一本の映画としての出来よりも、その映画が映した「現象」の方に興味が行ってしまうからだ)、その中でこんなシーンがある。エンゲルスマルクスの「ヘーゲル法哲学批判序説」についてコメントした際「1点だけ欠点がある。経済学的な基礎がない。経済学を学べ。スミスやリカードウを」みたいなことを言い、知的に血気盛んなマルクスは早速お勉強にとりかかるのだ。図書館で本を読むマルクスは、確かリカードウ(スミスかもしれない)の一節を小さなノート?手帳?に丁寧にメモしていく(ドイツ語だったか英語だったかは忘れた)。このシーンが俺の中では凄く印象的で、考えさせられた。

 

 マルクスがとにかく抜き書きをしまくったのは有名な話だ。『資本論』を書く際には、徹底的に経済学のお勉強をしまくった。それは学位論文『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』の頃から変わらない(マルエン全集にはその覚え書きもちゃんと入っている。思い出してほしいのは、マルクスがこれに取り組んでいた時はまだディールス=クランツもなく、彼は古代の著述に直接あたってデモクリトスエピクロスの言説を抽出していたのである)。資本論の第4巻として構想され、最後は23冊の研究ノートとして残された『剰余価値学説史』もそうした膨大な抜き書きをもとに作られた。

 

 ところで、レーニンも抜き書き大好きマンだった。『哲学ノート』なんてのが岩波文庫で刊行されているように、ヘーゲルクラウゼヴィッツをとにかく抜き書きしてそこに「エモみ深いこと山の如し」だの「ファッキュー!」など感想を付け加えていた。もちろん単純なお気持ちだけでなく、何とかその筆者の文章を噛み砕き自分の血肉にしようとしている痕がある。この『哲学ノート』は大学教授なんかが「これを参考にお勉強すべし!」と言うこともあるぐらい模範的だ(ビザンツ史研究者の井上浩一先生なんかがそうだ)。というか、マルクスもレーニンも、自分のために作ったノートなのに他人が読んでも面白いってどういうことなんだ。すげぇなあ。

 

 偉大な思想家・革命家の2人(マルクスは思想家、レーニンは革命家が先に来るが)がどっちも抜き書きをしていた、というのには考えさせられるものがある。レーニンにはいつ亡命するかわからないため、かさばる本を持てないからこそノートにまとめておいたという実践的な理由がある。マルクスは昔からの習慣だろうが、もしかすると亡命のこともちらっと頭に入れていたかもしれない(何せドイツからフランス、イギリスと移動しているわけだ)。あの誰かが言ったことを徹底的に揚げ足取りをしてけちょんけちょんに批判するのはマルクスもレーニンも得意としていたことだが(曲解も示唆に富む批判もどっちも多い)、それはこの「抜き書き」があったから、なんて空想もできるが、その空想は実情から遠くないと俺は思っている。

 

 なぜ抜き書きをするのか。マルクスは図書館で本を読んでいたから、ではないか。もちろんマルクスにも「蔵書」がそれなりにあった(遺書には蔵書分配についても触れられている)。だが彼は大英図書館通いを続けた。レーニンについても同様のことが伝えられている。2人はあくまで「知の共有財産」、つまりコミュニズムの部分的な達成とさえいえる図書館から知識を「自分の分だけ」汲み取っていた。この知識をもとに、2人は著述や実践に取り組んでいたのであって、彼らにとって「抜き書き」とはその生の根本的な必要であり、かつその思想と矛盾しないやり方だったと言える。

 

 話は一気に飛んで、渡部昇一『知的生活の方法』には本は買え!という主張がある。買わなきゃ覚えねえだろというのは実に説得力がある。要は身銭を切ったらありがたみが増すだろうという論法だ。渡部も例に挙げているが、マルクス主義者で社会党の理論的指導者だった向坂逸郎なんかメチャクチャの蔵書家だったという。倉庫もあったという。亡命したり本を没収されたりする危険性がないからこそできるわけだ。

 

 渡部のこれを筆頭に、読書について論じている本の中には「本は買うべき」という記述が散見される。本を所有することの意義は確かに大きい。いろいろ考えている時にすぐ手に取れる。背表紙を並べておくだけで思考ができるということもある。図書館の本には「書き込み」ができないし、貸し出しの期限だってある。だいたい図書館が閉まってたりしたらどうするということだ。その主張はどれも一理ある。というか俺は別に図書館で本を借りて読むのも、本を所有するのもどっちがいいかなんてのを論じたくない。この不毛な論争に決着があるとするならば「どっちもすればええ」ということぐらいしかないだろう(どっちもいいじゃんなんて、不毛な論争が行きつく不毛な結論でしかない)。

 

 あえて「書き込み」に括弧をつけたのは、「抜き書き」と対置させたいからだ。普通に考えて、図書館の本に書き込みする奴はいないだろう(するとしたら即刻やめてくれ。アンブリッジ先生の懲罰対象だ)。それは図書館の本は「みんなのもの」であり、「書き込める」のは「自分のもの」だからだ。ここに「私有」と「共有」の徹底的な対立が見て取れる(ちなみに、他人から借りた本に書き込めないのは「私有」同士の対立関係である)。

 

 あえてこういう対置の仕方もしてみたい。「書き込み」がその本に即したやり方だとすれば、「抜き書き」はむしろ自身に即したやり方であると。書き込み=注釈するということはあくまで「一次文献」に対する従属的な態度だ。一方、抜き書きはその書く部分の選定を含み主体的な態度と言える。図式的な対置で、例外はたくさんあるだろう。関係のない「書き込み」(中世修道院の写本に書き込まれたホメロス作品など)や間違った「抜き書き」(ハイデッガーの引用はあまり正確でなく自由であること)もあるからだ。

 

 もちろん「書き込み」の意義も大きい。夏目漱石ハンナ・アーレントは本に多く書き込み、その書き込みもまた「思想史的」な考察の対象となっている。書き込むことの「意義」は強調して余りあるが、個人的には抜き書くことに「魅力」を感じる。それは、個人的に自分が所有している本に書き込むことすら躊躇する性分だからだろうが(そうは言っても、書き込みがされた古本を買うことに抵抗はない)。

 

 なので、自分のやりたいようにやればいいじゃんという愚にもつかぬ結論に至ってしまった。もちろん、経済的な限界があるわけで、全ての本を読めるわけでない以上に全ての本を買うことはできない。さらに、自分の性分もあるだろう。そこに合わせていくしかないのではないか。理想はどっちにも移行できる精神だろうか、これはなかなか難しい。

 

 愚論を並べ立てる記事になってしまった。まあ、これは覚え書きだ。これ以上のものにもなるまい。たまにはこういう文章を書く必要が俺にもあるのだ。おしまい。