死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

【読書メモ】長田弘『読書からはじまる』(ちくま文庫、2021)

 

 

 詩人・長田弘の読書エッセイ集。いわゆる「読書論」ではなく、ただ単に読書についてあれこれの思索を平仮名多めの優しい文体で紡ぎだしている。内容それ自体に新味があるわけではないが、やはり詩人というだけあって言葉の錬金術がうまいなと思わされる。言い古されている見解でも、すっと肚に落ちるか、「あーはいはい聞き飽きた聞き飽きた」と流してしまうかは、言葉の選び方次第で変わるもんなんだと再認識させられましたね。

 この本の裏テーマとして、「記憶」があげられると思う。個人の記憶、共通の記憶、そして社会の記憶。記憶を留めている「本」は、忘れっぽい私や貴方への贈り物であり、私と貴方が交わるためのきっかけであり、そして私たちの位置を確認するための目印でもある。あとがきで著者が書くように、その意味において「本」を開く読書は「人のこの世のありようを確かにしてきた」ものと言えるかもしれない。

 個人的には、挿話にセンスがあると感心してしまった。トルストイ『イワンのばか』所収の「鶏の卵ほどの穀物」や、ハワード・オーウェン『リトルジョンの静かな一日』における黒人差別の話、良寛の「耳を洗う」話など。特に2つ目は読んだことがないので気になった。備忘的に書いておきます。あと、俺も虎がぐるぐる回ったらバターになった話を知らない世代です(ちびくろさんぼで育てられなかったオタク)。

 あと、ちょっと笑ってしまったのが「NEWS」の民間語源学(方角英単語頭文字説)を援用して論を展開している部分。まあ論の本筋とはあまり関係がなかったのでよしとしますか(こういうのをけなしても人生に何らいいことがないと知っているタイプのハリネズミ)。

 

 以下、個人的に刺さったなという文言を引用して適宜感想めいたものを付していく。

 本について語られる言葉のおおくには、すくなからぬ嘘があります。誰もが本についてはずいぶんと嘘をつきます。忘れられない本があるというようなことを言います。一度読んだら忘れられない、一生心にのこる、一生ものだ、という褒め言葉をつかいます。こんないんちきな話はありません。人間は忘れます。だれだろうと、読んだ本を片っ端から忘れてゆく。中身をぜんぶ忘れる。(中略)読んでしばらく経ってから、これは読んだっけかなあというような本のほうが、ずっとたくさんあるはずです。

 本の文化を成り立たせてきたのは、じつは、この忘れるちからです。忘れられない本というものはありません。読んだら忘れてしまえるというのが、ほんのもっているもっとも優れたちからです。べつに人間が呆けるからではないのです。読んでも忘れるがゆえにもう一回読むことができる。そのように再読できるというのが、本のもっているちからです。

 ですから、再読することができる、本は読んでも忘れることができる。忘れたらもう一回読めばいいという文化なのです。また忘れたらさらにもう一回読めばいい。本というのは読み終わったら終わりではないのです。図書館という大きな建物があって、図書館には本があるのは、一回読んだらあとは捨てるためにあるわけではありません。読んでも読んでも忘れる人間のために取っておくしかないから、図書館は必要なのです。(pp32-33)

 これは読んだら忘れるを繰り返しまくっている俺からすればとても元気づけられるセンテンスでしたね。教養ひけらかしや面白話のために知識をフルマガジンで装填しておく必要がないのであれば、どんどん忘れてしまっていいわけだ。

 このブログで幾度となくいやこの健忘状態はさすがにまずいだろと思っていた時期もありましたが、何かもうどうでもよくなってきましたね。とはいえ、こうやって引用を最低限書き留めているわけですから、心のどこかで忘れることを恐れているのでしょう。ええそりゃ怖いに決まっている。人生は短く、ありとあらゆるコンテンツが存在する中で、忘れたらそのままそれに費やした時間の損失である。しかし考えてみれば、そうした「損得」で読書をやらなくてもいい身分(やらなきゃいけないのは研究者や書評家などだろう)であるのだから、もう少し肩の力を抜いてもいいのかもしれない。27歳(あと2ヶ月で28歳。そろそろ人生の「方針を固める」時期だろう)にしてようやく気づきを得たわけです。

 本というのは、本を開いて読めばいい、読まないうちは本を読んだことにはならないのだということではないのです。本は読まなくてもいいのです。しかし、自分にとって本を読みたくなるような生活を、自分からたくらんでゆくことが、これからは一人一人にとってたいへん重要になってくるだろうと考えるのです。

 どういう本を、どういうふうに、いつ読むかということは、それぞれがそれぞれに考えることでしょうし、本屋に行っても、どの本にしたらいいかとまどうということもあるかもしれません。椅子を探すといっても、家具屋にゆけばそこにあるというわけではありません。けれども、本屋に寄る時間や、家具屋で椅子をのぞく時間を、自分の一日のなかにつくるだけで、本のある人生の風景が見えてきます。

 とりもどしたいのは、日常の中で本を読むというのはこういうことなのだという、今はともすれば失われがちな実感です。そのためにも、深呼吸として、本は読みたい。わたしはそう思っています。(pp62-63)

 これは読書をする時の椅子選び――椅子はもちろん象徴で、本題は読書する際の環境についてもっと思いを巡らしましょうという趣旨のエッセイから抜き書きした部分である。読書を日常の中に位置づけるためには、それなりに読む本以外のことを考える必要があるというのはごもっともなのではないだろうか。深呼吸として本を読むというのはとてもいい表現ですよね。そういえば今日は通院のために有休をとったのですが、空いた時間で神保町の本屋に訪れましたね。買った本は大したものではないですが、こういう時間で本と自分の関係を取り結ぶことが、少しでも読書に対する時間を確保できるアレになったらいいなと思いました。

 つまり、こういうことです。「年齢によって本を考えることをやめたい」ということです。子どもにはこういう本、大人にはこういう本、老人にはこういう本というような、壁で囲むような考え方は、わたしたちにとっての本の世界をすごく狭く小さなものにしてしまう。とりわけ、壁で囲むような読書のすすめ方をすると、肝心のものを落っことしてしまいかねないのが、子どもの本という本だろうと思うのです。

 そんな閉じた読書のしかたではなく、何を読んでもいいが、心を自由にするために読む。そうして本というものを、おたがいを隔てるのではなく、おたがいが落ちあえるコモンプレイス・ブック(記憶帖)となりうるもののように、ひろびろと考えたいのです。(p98)

 これは子どもの本を大人が読んだっていいじゃないという、言っていることは「はーうるせえ聞き飽きたわボケ」系の話なのですけど、そもそも「壁で囲むような読書」というのはみんな結構しているのではないかと思う。というか、そりゃそうだろというか、自分の関心あるテーマを読み進めることの何がわりぃんだと素朴に思ってしまった。が、子どもの本(長田は「児童書」という括り方をしない。これは賢明だと思われる。)というのは確かにたまに身に染みるものがあるのを否定するわけではない。でも今更絵本とか読むのか???という気がどこかでしているのも事実である。

 (前略)読んでもいいかなと思った本を、とりあえず求める。そして、とりあえず読む。おもしろいと思う本も、つまらないと思う本もある。どんな本とも、結局おなじです。最初から、これがいい本であるという本を読まなくてはと思うと、億劫になる。いいかどうかは自分で読んで決める。すなわち、読書の鉄則は、ただ一つです。最初に良書ありき、ではありません。下手な鉄砲、数撃ちゃ当たる、です。(p112) 

  真理、ですね。ブックリストの功罪について考えさせられました。

 本というのは、もしくは本という文化は、しかし、本の私有、記憶の私有に終わる、そういうものではないのです。それが自分にとってのみ大切な記憶であるというだけでは、本はどうにもならないからです。本をおたがいの共通の大切な記憶のありどころにできる、そういう本のあり方というのを絶えず考えてゆかなければ、あっという間に本は、わたしたちにとって何か特別なものなどではなくなってしまいます。(p138)

 じゃあどうすりゃええねんという答えがない文章ではあるが、問題と敗北は抱きしめるもの。墓まで抱えていきましょう。

 たのしみは 人も訪ひこず 事もなく 心を入れて 書をみるとき

 たのしみは 世に解きがたく する書の 心をひとり  さとり得し時

 たのしみは そぞろ読みゆく 書の内に 我とひとしき 人を見し時

                              (pp215-216)

 これは著者の詠んだものではなく、幕末の橘曙覧によるもの。存在の感覚、存在の痕跡を確かめる「読書」という営みを端的に現した名句という気がしますね。