死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

久しぶりに大学構内を歩くも懐かしさとは別の「完全にもう違う世界だねえ」というエモに襲われて死んでしまった27歳童貞実家住み年収400万男性と読書記録1115~1121

 というわけで表題のとおりでございます。最近これ考えるの結構めんどっちいので多分来週から無味乾燥なタイトルにする予定です。

 

 土曜日は元々人と飲む約束だったのですが先方の都合でリスケとなり、家で飯を食おうにも両親が親戚の集いに行っていなかったので、仕方ねえと思い早稲田のラーメン屋に行きました。おいしかったです。

 

 帰り際にちょっと母校早稲田大学の構内をテクテク歩いていたのですが、若者がやっていってましたね。大隈講堂前でYUIのC.H.E.R.R.Yを弾き語りしている人がいました。大隈講堂、異常者が演説の練習をしているか、もっと異常者が酒を飲んでいるかしかに遭遇したことがないので、弾き語りというのは新鮮でございましたよ。お金投げようかなと思ったぐらいですが請われてもない以上それは侮蔑の位相にも入り込むのではと思ってよくないので辞めておきました。まあ、あとは何か若者が若者的な話をしていましたね。やっていき集団の中に自分がいたのってもう5年も前になるのか……としみじみ思ってしまいました。

 

 もちろん27歳の自分も立派な若者で、会社の課内では2番目か3番目に歳の若い人間で、給料も若者並ということなわけですが、しかし大学生と自身を比較した時に彼らの「若者」性のうちに自分を重ね合わせることができるかというとメチャクチャ微妙ですわね。と同時に自分が大谷翔平と同い年であることも信じがたいものがある。結局、ある種の「世代論」としての括りと自己認識はどこまでも食い違うのだなあという通俗的な結論にしかならないですね。このパラグラフはこれでおしまい。

 

 だからこそ大学構内での懐かしさ以上に、もうここに何らかの「帰属」意識を持つこともないような別世界だなあという感じです。いやしかしこうやって700字もかけて下らぬ駄弁を弄している時点で帰属意識の裏返しなのでは???という人間の疑問に対して俺は沈黙と殺意しか持てません。応答義務はなく、闘争契機があるのみ。

 

 今週の読書を記録いたします。よろしくお願いいたします。しかし今週は割とスイスイ読んだな。多分可処分時間のほとんどを読書に継ぎ込んだからだと思います。

 

 かなり昔(高校生か大学1年生の時)読んだけどそれは岩波文庫版で、今回はみすずの奴で読んでみましたが、ンマァ頭おかしいですね。常軌を逸した文理の教養教育を注入され、異常な親父の顔色を伺いながら「はー俺の頭マジつっかえ」とか言いながら、ベンサムと仕事したり、コントと文通したり、果ては「俺はぽめえら選挙区民には還元せんぞ???」とか言いながら政治家やったりするなどと割とすごいことを平然とこなしていくJ・S・ミル御大、普通にこわひ……。また、ハリエット夫人の影響をしつこいくらいまで強調するあたりで「こいつ多分死人を理想化しすぎる癖があるのでは???」と思ってしまった。何か昔は素朴にすごい人が昔はいたんだなあというフランクリン自伝を読んだ中学生みたいな感想を持ったような記憶があるのだが、今は往時の500倍はひねくれているのでヤバ……以外の感想は持てなかった。いつか哲学的急進主義に関する例の三巻本を読むための準備運動になったかな(あと新訳の『自由論』と『功利主義』もこなしておきてえなと思っている)。なおいつ本番に突入するかは今後の気分次第です。あと個人的にはジョージ・グロートなどといったヴィクトリア時代の知識人との交わりにも関心を持ちました。

 単純な寛容思想の系譜(そういう本を読みたきゃまんまそういうタイトルの本がある)を描くわけではなく、比較衡量的(どちらがより小さな悪か)な寛容論が初期アメリカ史において実践されていたんだよということを示す本。というわけで「この海で一番自由な奴が海賊王だ!」をやったロジャー・ウィリアムズが主人公なわけです。結論から言えば大変面白かったですね。内容的には著者の『アメリカ的理念の身体』と重なる部分が多かったにせよ、語り口の分かりやすさもさることながら、やはりやっていき!の精神と寛容のバイブスがうまい具合にマッチしていて叙述の流れ方が分かりやすかった。何か去年買って詰んだままだったのを今更ながら後悔しております。

 俺たちは結局このおじさんに還るんだよな。労働を抜きにして考えられない生活を送っていながらもそれでも社会のアレコレについて考えるのを諦めたくない現代人は結局ホッファーという①家の近くに図書館があって②そこまで時間拘束がなく適度に頭脳ががっしりやられない労働に従事して③メチャクチャ頭がいい「理想形」を見出すわけですわ。我々が真似すると確実に事故る(というかホッファーの本業自体がなかなか理解が難しい気もする)のですが、こういう人間もいたのやから我々も何かできんのちゃうかという気持ちが大事。

 

 久しぶりに「なんだこれ!わからん!」となった本です。ありがとうございます。訳者あとがきで西山雄二氏が丁寧にまとめていただいているところまでは分かりましたが、本文自体は正直マジで人文スキル80(それなりに現代思想や大陸哲学に耐性のある文系大学院生と同レベル)ねえと太刀打ちできねえなと思いました。高度に抽象的でかつ意味内容を凝縮しているので、一文一文が脳に投げ込まれる火の玉ストレートなわけです。こういう本は読んでいる途中は苦痛で「どうせわかんねえから飛ばすか!」ぐらいの気持ちでページをめくってしまうわけで、正直後半は内容よく覚えてないのですが、「生」と「世界」は分けて考えようねという発想は非常に好感が持てます。簡単に言うと、核時代でどうこう言ってるけど俺らはどうして「世界の終わり」っていう奴を問うぐらいは「世界」って奴に執着するわけ?そもそも「世界」って何よ?っていう疑念を起点に、まずは近代哲学を振り返ってその「世界」なるものの取り扱いを変えたカントとヘーゲルをそれぞれ対置し(ホッブズウェーバーの話はおまけぐらいに思っちゃいました)、ハイデッガーにも目配せをしつつ(個人的には筆者の世界概念はかなり現象学チックだと思いました)、そして世界が終わるっていうことは果たして俺たちの終わりなの???みたいな話を映画表象論やらエコロジー論やらを交えてあーだこーだ言っていたように思います。素直に再読です。

 

 恥ずかしながら読んだことがなかったんですわ。キプリングってジャングル・ブックとか子供向けだと思っていたので。ところが、確か平凡社ライブラリーのアンソロジーもの『疫病短編小説集』に掲載の「モロウビー・ジュークスの奇妙な騾馬紀行」とか「一介の少尉」を読んだ時にこれは書き手として面白い奴なのではと思い、その最高傑作と称されるキムを読んだわけです。まあスパイ小説としても教養小説としても滅法面白いですね。テシュー老師とキムの交わりは、完全にのびドラガチ勢の俺得な奴でしたわ。そしてグレート・ゲーム本当にありがとうという気持ちになった。何か学部生の後半期から小説をあまり読まなくなって、年に数冊読む程度だったのですが、そろそろ本腰入れてまた読んでもいいかもしれないな、と思った次第です。

 このテーマについて、書くべき人が書いた非常によい「新書」ですね。個人的にはこのテーマは本書と高橋哲哉の『歴史/修正主義』を読めばいいのではないかと思ってしまいます。内容については文句なしです。昨今の中世ジャップランドインターネット県では、キモオタ・ネトウヨ・ガイジと同レベルの罵倒表現と化している「歴史修正主義」をまずは丁寧に相対化(歴史は修正されるし、修正されたものが妥当ならそれをもう歴史修正とわざわざレッテル張りせんよねという至極当たり前の話)したうえで、政治的な底意や人種主義的な悪意を持って、ホロコーストのような歴史的な事実を「600万も死んだか?」とか「ガス室とかねえから!」と否定しようとするコテコテの異常者たち(ホロコースト否定論者、歴史修正主義者と呼称すべきでないことに注意)に触れていく。著者も述べているように、「いやそれって本当はどうなの?」っていう疑念を表明するだけとか、「えっ600万人死んだって歴史書に書いてあるだけでしょ。それでホロコーストから生還したって言う連中の証言はそのまま信用できるんですか???」とか言ってしまうのは、それが立証責任すら伴わない「放言」あっても社会に対して「認識のゆらぎ」を与え、社会を下支えしている歴史認識をぐらつかせる程度には効果がある(そしてそれをいちいち反証していくためのコストは大変で、ホロコースト犠牲者にとっても実証史家にとっても辛いことになる)。こういう言説は『ダークナイト』のジョーカーが言うところの「ガソリン」(低コストだが攻撃に使えば広範囲に大打撃を与えられるもの)であって、破壊でしかないので法規制がされるわけだが、著者は法規制がもたらす負の効果についてもちゃんと触れている(『否定と肯定』のリップシュタットが法規制に終始反対しているのは興味深い)。何をもってして「歴史の事実」が定まるのか、そしてそうでない「歴史の真実」を掲げる人々の言説の奥に何が潜んでいるのかというのは、成熟した民主主義社会に生きることを望む人が最低限理解しておかなければならないので、読んだ方がいいのではないでしょうか。