死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

冷めたチキンを温め直す暇があったら一心不乱の大戦争や!と叫ぶ28歳童貞実家住み年収400万円男性と読書記録20210104-0109

 今年も俺はぺこーらと野兎たちの真剣な感情の交錯をウォッチしていくから!

 

 ついこの前の金曜日有休をとったんですよ。仕事始めで無理になった、というわけではなく、私生活上でやらなアカン細々としたタスクを処理するために。でも何かずっと「何か俺仕事忘れてる気がするな……」という思いで今日まで過ごしていたので全然4連休楽しめなかったZE! これ別に忘れてなかったらマジで泣いてしまうねえ。いやでも忘れてたら忘れてたでマジの怒られが発生するのでそれはそれで辛いねえ。

 

 最近本当に積読の限界を感じています。つまり、いよいよもって積むためのスペースがなくなってきたんですよね。俺は草森紳一みたいな博覧狂気を目指しているわけではないので、自分の部屋を蟹歩きじゃなきゃ動けないような空間にしたいわけではないのですよね(そうするためには家を買う必要があって、そして俺は今後生涯にわたって一軒家を買う気がない)。普通に自分の部屋の本棚に収まるくらいにしたいのだが、そうなるとちょっともうどこに本を置けばいいのかわからなくなっている。そろそろ取捨選択が必要なわけだが、2019年3月に実家に帰ってきてから本はかなり整理したのである(このエントリ参照)。しかし、やはりというか何というか、結局本はどんどん増えていくばかりで、いよいよもって地震が発生したら何もかんも終わるっぽい部屋が完成したのである。

 このため、こう考えました。今年はよっぽどのことがない限り図書館から本は借りず極力自分の部屋の書籍を消化することに努めようと。あとなるべく本も増やしたくねえと。しかしそれでいいのか?と即座にもう1人の“““ボク”””が反論するわけです。「もはや「死蔵」している本をむやみやたらに消化するよりも自分が読みてえと思った本を買うべきだし読むべきでは???」と。そしてさらに僕の心のヤバい奴(ちなみに俺たちは一生あの漫画を読み続けなければならない刑罰に処せられている)がこう言うわけです。「いや一番簡単な手法がある。もう蔵書この際捨てて買い直そう。スクラップアンドビルド、破壊と再生、ヤバいのやんで!」。そんなどこぞの京都のラッパーみたいに韻を踏まれても困るんですわ。

 そんなこんなで想念がヴァルハラで終わりなき闘争と乱痴気騒ぎを繰り広げている中、まあまずは何とか積読を消化しようと思い、本棚の本をパラパラ~とめくっているとやっぱどれも面白いんですよね。「うーん何読むか迷うな~」と思いながら何故か読んだはずの本を再読しちゃうんですよね。まあほぼ忘れているのも多いので一読目みたいなもんですね。結論。人類は積読を永遠に消化できない。クソデカ主語ニキだねえ。

 

 今週はそんな再読です。

 

 哲学科の時に読んだのだったと思う。昔読んでも今読んでも「こいつどうかしてるぜ」と思う。どうしたって世の中はクソやけどぽまえは気持ちを強く持て、なんて今ツイッターでそんなこと言おうもんなら死ぬほど叩かれそうな意見だ。ストア派の自然学的な見地(世界の一切は大いなる火によって燃えてまた再生するという奴)からすればまあ当然の帰結なのだろうが。結局のところ世界は大して変わらんわけで、お前はお前の気持ちを高めるために人助けをし、天下国家(いわゆる近代的な意味でのパトリオティズムではなく、広く人間社会を指すようだが)の役にたっていけ、そして他者に期待するんじゃねえと言われたら現代の多くの人間が「えー……」となってしまうだろう。ただ、訳者の神谷も指摘しているように、この自省録自体は哲人に憧れながら戦場に身を置くことを甘んじて受け入れた皇帝が戒め的に書きつけたもの、と解するとそこに人間のままならなさを感じられてよいですね。実は神谷美恵子の著作自体は一冊も読んだことがないのですが、『生きがいについて』ぐらい読んでもいいかなと思いましたね。

 

 

 古びることのなきマスターピースですね。大学3年生の時に読んで「すごいもん読んだな……」と思いました。どういう理路でイングランドにおいて王の自然的身体と政治的身体なる謎観念が生まれたのかを忘れたため一から読み直しました。「近代国家におけるすべての重要概念は世俗化された神学概念にほかならない」とシュミット流に喝破するだけならば「政治神学」のマジックワード化は避けられないわけですが、カントロヴィッチはスコラ学はもちろん、中世教会法学、ローマ法学に目配せしつつ、当時の図像の解釈も織り交ぜて「何で王様だけ身体が2つあるの?ズルくないか?」という問題にがっぷり四つで取り組んでおり、キリスト教政治神学をかなり克明に描き出すことに成功している。一個人たる王がやらかした時とか死んだ時にどうやって「王」の威厳=支配権を担保あるいは弁護し、王国の連続性を証し立てられるかといった政治的=法実務的必要性と、キリストの二重性に関する神学の議論や、抽象的正義の権威を王に負託していたローマ法学の学識、さらにアヴェロエス主義によって明るみになった「創造なき連続」へ対抗するスコラ学的反論などの当時の知的潮流が複雑に絡み合い、最終的に王(king)が王(King)たる擬制が完成するのである。多分このまとめを読んでもよくわからないと思うが、実際問題メチャクチャ難しいので俺もよく分かっていない。許してほしい。