死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

結局今年も転職の機会を逃したなと思いあとはどれだけコスパのいい人生を送るかにしか関心がないはずなんだと自分に言い聞かせようとする28歳童貞実家住み年収400万円男性と読書記録0418~0424

 やりたいなっていう仕事があったんですけど、3年前の転職活動の時に書類で落ちてしまい、その後も募集は断続的にしているのだけど色々思うところがあって応募できない職種があるんですよね。その応募期限が今週の金曜日だったのですが、何もできませんでした。

 

 (睡眠時間を除くと)現役人生の過半を労働時間が占めるので、好きなことを仕事にしたらいいんじゃないかなって思うことがないわけでない。ただ、今のところ好きなことを仕事にすると結局その全てが嫌いになるということだけは前職で得られた数少ない知見だったので、どうしても踏み込めない自分がいる。それを嫌いになるとマジで人生の楽しみがなくなってしまうので。

 

 しかし、である。自分の人生が守りの段階に入ったことのだとそこかしこで言い聞かせまくっているのだが、「それでいいのか、俺まだ28だぞ? 世間的にはギリギリ若者なのでは? 勝手に限界決めてええのか?」と俺の中の若者がずっと俺の最高意識決定機関の議決にプロテストしてくるのだ。それを抑え込んで何とか日々の生活をやっていくのは最適解な気がするが、「最善」の解なのかどうかは自信が持てない。周りの環境等を考慮しながら(時に理想を妥協しつつ)自身の利益を最大化することを「最適」と言うならば、あくまで理想へと近似していく姿勢そのものが「最善」に求められていると思われる。むろんそれが「最善」を保証するわけではなく、あくまでその狭き門を通過するために「列に並ぶ」行為でしかない(そしてそのあとは別にやらなくてもいい一世一代の大博打をやるのだ)。だが、それでも守りに入る前に列に並ぶべきなのでは???と思うことがないでもないのだ。

 

 その理由は2つある。①今の職場で偉くなってそこそこ稼ぐためには自分をかなりの程度犠牲にする必要があるっぽいこと②果たして日々摩耗していく自分の知性をほったからしにしていいのかという点である。

 ①は、2年かけてじっくり観察をしてきたところ、この職場はやはりどう考えても俺向きではないということである(もちろん俺が労働に向いていないということは当然の前提である)。狂ったレベルの多方面への根回しや先例への盲従、最低限の合理性の欠如、お客様第一主義でありながらそのお客様を突き放した上で社内の少数者が専断的な意思決定を行う姿勢、そしてその少数者の防波堤に俺たち一兵卒や下士官が継ぎ込まれているという事実。これは構造的な問題だ。そしてそんな欠陥だらけのシステムの歯車を嬉々として回し続けて幹部への忠誠競争に勤しむ忠良諸氏には毎日呆れてばかりである。忠良諸氏(俺含め)も頭が悪いわけではないので、このバカバカしさは認識しつつもどうしようもないのでイライラしており、しょうもないことで後輩を咎めたり、一部のお局様(この言葉を使うことが時代錯誤なのは重々承知しているが、この言葉が適切だと思う場面をよく目にしており、そしてそれを説明するのはこのブログの匿名性を掘り崩す危険性がある)をよしよししている。俺は後輩のケツを黙って拭くべきだし(そもそも後輩のミスの大半は先輩の指示の不備に帰せられるべきだろう)、ふざけたお局様は閑職に飛ばすべきと思うので、この種のバカバカしさが仕事そのもののバカバカしさと相まって最悪のクソになっている。どう考えてもこれに人生を費やすのはバカげている。が、繁忙期でもなけりゃ定時帰りは保証されているし、給料も緩やかながら上昇が見込める。バカバカしさに耐えていれば比較的コスパのよい未来が開けているはずだ。

 しかし、この手のバカバカしさは知性を摩耗させる。②についてより詳しく言うならば、自身の知性を目の前の不合理に「納得」させることは、最終的に知性の栄養に不可欠な批判的精神そのものを埋没させるおそれがあるというわけだ。「まあ、しょうがないよね」ということで自分の精神を現実に折り合いをつけることは現実でもしばしあることだ。しかし、その「しょうがない」がいつの間にか妥協ではなく思考の習慣となり、いつの間にか妥協そのものが原則になってしまった時、果たしてその人間はよくて互譲悪くて隷従以外の何を期待できるのか? そもそも互譲を期待できるほど世の中はお人よしではないし、いつだって世の中の悪人は自分に「隷従」してくれる善良なアホを求めている。ある人が掛け値なしの善性のために知性を犠牲にしなければならない時、掛け値なしの邪悪が善そのものを凌辱することは容易に想像がつく。善の墓堀人になりたくなければ自分自身の知性を譲らないようにしなければならない。そのためにはできる限りバカバカしさを指弾しつつ、最後には肩をすくめつつそこから離脱するための方策を練らなければならない。

 知性を犠牲に安定した人生と、人から嫌われない程度の善性という最低限の職場内安全保障を手にすることはできるだろう。しかしはっきりと思うのは、そんなもんは俺にとっちゃクソ以下でしかねえということだ。その理由はうまく説明できないのだが、しかしそこを譲らないように何とかしていきたいともがき続けてきたのが大学卒業後の6年だったと思う。今さら「はい、ギブアップします」と言って安定や阿諛追従に走ることだけはしたくない。したいことをすべきで、したくないことはしないという単純明快な行動基準に立ち帰るのであれば、「最適」を捨てて「最善」へ突っ走る必要があるというわけだ。

 

 一体全体自分をどうすべきかという答えはまだ見当たってないのだが、結局のところ自分に納得が行くように人生をやるしかないということだけははっきりしている。そのために何を捨てて何を拾うかを今年は精一杯考える年にしたいと思います。

 

 一応読書記録を残しますね。

 

 これは面白かったですね。最近鎌倉殿の13人を見ているので、その時源頼政というのは何か木村昴以仁王)と一緒に殺されてた人だなあぐらいに思っていたところ、清盛率いる伊勢平氏が源平双立体制を維持する(著者はその理由を平氏単独体制だと諸々の責任が全部平氏に帰するが源平双立だと最終的にはその二者を擁立する上位権力に責任が行くのでいいと言っていたがホンマか?)ために好都合な存在であり、後白河院政派や二条親政派とは異なり比較的政治的抗争から離れていた第三極である八条院の覚えめでたい摂津源氏の当主ということでなかなか面白い人間なのだなとおもみました。そして、義仲についても大河ドラマのイメージしかないのでヤベェ奴だと思ってたけど、普通にこの本を読むとその田舎者イメージを逆手にとって京のイキリ貴族たちに対して交渉を優位に進めようとするなどなかなか強かなところがあったのですね(余談ですが個人的には鎌倉殿の13人では青木崇高演ずる義仲はベストオブ義仲だと思います)。頼政と義仲に共通するのは状況に対して流されるままに平氏打倒の狼煙をあげてしまったという点にあるのだろう(もちろん以仁王の叛乱を諫めるために密使を送ったことを平氏咎められることを予測し結局はその叛乱に呼号した頼政と、以仁王の遺児がたまたま北陸に逃れてきたので担いだ義仲の判断には大きな相違があると思うが)。とはいえ、頼政が加担した叛乱は結果的に全国的な源平闘争の火蓋を切ったわけだし、義仲はその流れの中で平氏を一時的に京から叩き出したわけで源平闘争の中ではそれなりの意味を有していたのだろう。

 著者の前作『河内源氏』同様、非常に重厚な議論(と相変わらずのマルクス主義日本史学?への強い批判)が続いておりましたが、まあ読みやすかったと思います。鎌倉殿の13人を見ていて頼朝に好感を抱く人間はヤベェ奴だと思うけど、この本を読んでも「ああ……かわいそうに……」以上の感情は生まれなかったですね。著者は上総介広常の粛清から義経討伐に至る頼朝の猜疑心に満ち溢れた対応を、何度も死地を逃れた経験に起因するのでは?と言っていたのですが、辛い経験をしたら人に優しくなれよ……っていうクソ平凡一般人みたいな感想を持ってしまった。一方で京の政に明るく、かつ後白河体制と気脈を通じていたことで義仲や義経を出し抜きつつ、東国武士とは単純ともいえぬ関係を築きつつ、平氏奥州藤原氏といった競合勢力を潰して朝廷を護持する全国唯一の武力を組織したという点では、卓抜した「政治家」なのだろうという気がする。

 そして今日の夕方ささっと読了しました。完全に鎌倉殿の13人のネタバレでしたね。まあ別にいいんですが。義時、恐らく史料が少なすぎるせいかこの本でも序盤は周辺事情の解説に重きが置かれている。戦で武功を挙げたかというと微妙な気がするが、ただ頼朝にとっては腹心の部下だったらしい。中盤以後から叙述が盛り上がっていき、頼朝死後から承久の乱に至るまでのイカレ権力闘争を登り詰めて鎌倉公武体制を築き上げた義時というのは、正直先々週までの鎌倉殿の13人では思いも及ばなかったのだが、この本によるとあんなほほえましい坂東武者諸氏が殺し合いを始めるのか……とびっくりしてしまった(そして悪辣な三谷幸喜佐藤浩一演じる上総介広常に悲劇的な死に様を演じさせることでまさにその序曲を披露したわけである)。前2著と比べると用語解説なども丁寧で叙述も比較的分かりやすいので多分これから読んだ方がいいです。権門になりてえ。

 

 その他、英語の勉強がてら定期的に洋書を読んでいます。タブレットで。何故なら分からん単語に遭遇してもすぐ調べられるので。読むスピードは本当にちょっとずつ上がってきたのですが、まだ後ろから訳すジャップしぐさが抜けませんね。ていうか後ろから訳す以外の読み方を知らねえんですよね。伊藤和夫の『英文解釈教室』などでも英語は前から読むんだよと言われてきましたけど、前から読んでも「あーこれはこのカタマリだから、ここからここまでが主語で……」ってなったら「ここからここまで」の段階で戻っちゃうんですよね。無理やろそんなん。頭の構造がおかしいんとちゃいますか。

 これはプロイセン史の本。まだフリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯のところまでですが普通に面白いですね。三十年戦争の残虐拷問の中で、木片をペニスに刺すという表現が出てきてキンタマがヒュンってなっちゃったねえ……。

 これは政治思想史の通史ですね。序文は昔読んだことがあるのですが、今は適当に興味があるところを拾い読みしています。アリストテレスキケロポリュビオスアウグスティヌスを読みました。全般的に抑えるべきところを抑えているなと思いつつ、「政治思想史」ということを意識しているので後代の類似するテーマとの比較などに重点が置かれていて、古代の政治思想を近現代の問題意識に接続しようという結構大変な試みをやっていて偉いなと思いました(成功しているかどうかは微妙なところですね)。個人的にはクラークのよりも英文が難しく感じた。挿入句が多いのと、一文が狂ったドイツ語みたいに長いことがごくまれにあるので。