死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

死に方を考える時だけが救いとなっている27歳童貞実家住み年収400万円男性のわだつみのこえと読書記録1020-1108

 虎杖悠二なんでこだわっちゃうんですよね~~~、正しい死に方って奴に。いやそんなもんあるわけねえだろ。負の感情の弾雨、不完全な死体に過ぎない生者の群れ、そして最も不可解な「自己」という呪い……人間が生を全うするために乗り越えなければならないものがあまりにも多く、そして俺のようなただ世界にとっても社会にとっても仲間にとってもそして自分にとっても「使えねえ何か」(カントが絶叫したにも関わらず人間は人を道具として扱いがちなので)が一日を生き抜くためにはマジで日々努力あるのみなわけで、時折それに疲れちゃうとやっぱり死に方を考えてしまうんですよね。親ガチャ・子ガチャとかそんなことは言いませんけど、でも俺にバフをかけてくれなかった神様マジで許さねえ殺す。

 

 まあ、死に方を考える日々とは打って変わってですね、今日は3連休の最後だったのですが、何をするでもなく1日中ずーっと人生について考えていました。自分がどのような人間になりたいかを今一度真剣に考えたところ、とりあえず今みたいに投げやりになるのを辞めないことにはどうにもならんなと思い始めています。とにかく何か目標を持って生きないとマジで会社の無能な歯車となり、そう遠くないうちにやってくるであろう「孤独」を自嘲的に生きるだけの人間になってしまうっぽい。そうはなりたくないという明確な気持ちはあり、これは今後の人生(40歳ぐらいまで)のメインテーマだと思うので、そのためには俺は今のままではよくないので別の「何か」にならきゃなわけだが、その「何か」がこれまでずっとわからなかった。しかし、ようやく多少なりとも自分の中での整理もついたので、ちょっとずつこれまでの無軌道っぷりを修正していこうと思っているわけです。

 

 必要なことも多少なりともわかってきました。そして成功体験も多少は積み上げてきたので、あとはそれに倣っていくだけだと思います。習慣化・選択と集中・記録を怠らないこと(そのためにできるだけ簡便にすること)・感情をそのまま出さないこと、こうしたことが重要であると考えます。このブログもその一助となればいいなと思っています。はい。

 

 というわけでここのところ怠っていた読書記録を作ります(記録としては10/20~11/8)。メモは作らないです。あれ結構頭使うので。簡便にしていきましょう。なお順不同。

 

 

 面白かった。スパイ小説的なエッセンス(警察の追及を逃れる、情報を盗むために殺した奴が別人だったなど)もありながら、巻末解説で阿刀田高の言うように「あっいつものモームやね」と思わせる感じが巧みですね。作家兼スパイというもうおしまいだよこのオタク(今この人物類型を小説に登場させるのはかなり難しいだろう)みたいなヤバい奴がゴロゴロしているのがイギリスという国なんだなと再認識しました。個人的に好きなのは「英国大使」と「ハミルトンの洗濯」、「ジュリア・ラツァーリ」ですね。掌編では「グスタフ」も味わい深いところ。

 

 これはマジで苦痛な読書体験だった。一応高校の頃読んだのですが、その時の記憶は例のごとくほぼ残っていない。しかしその理由も分かる気がする。ギリシア神話にありがちな異説のアレコレの情報が充実しており(たとえば呉本では言及のないオルペウス教徒の間で語り継がれていた神話など)、それはそれでよいのだが、本筋を話している時に唐突に「ところで異説では」とやり始めるので興が削がれる。それでいきなり本筋に戻るので、本筋の続きなのか異説の続きなのか判断に結構頭を使った。正直言って呉の『ギリシア神話』の方が読み物としては100倍優れていますね。こっちは通読向きではなく、資料的に使う方がいいと思いますね。巻末に掲載の引用文献略号を見れば、どれだけ広範な文献から引っ張っているかは容易にわかるので。

 あと、これケレーニイは語り手として「ギリシアの神話大好き面白おじいさん」を仮構しているのだが、それが明らかになるのが英雄の時代(下巻に相当)の「訳者あとがき」なのもどうなのよと思った。上巻にあたる神々の時代を読んでいると「われらがギリシア語は」とか言い出してきて「あれこいつギリシア人だっけ?」と素朴に思ってしまうなどして混乱した。そういう話が書いてある序論を削ってしまっているので無理もない。

 

 著者の研究書である『征服と自由』の主張を新書サイズにしてお届けしたような感じで、ある程度マキァヴェッリのことが分かっている人向けの本ですね。しかし分かっていれば面白いと思います。あとがきにある著者の大事な主張を引いておきます。

 歴史的著作の魅力の一つは、著者が現代とは異なる時代の思想を抱いているところにある。現代的価値が普遍的であり、著者がその価値に到達しているかという視点から歴史的著作を読んだとしても、それは、自分と同じものを古典の中に探し求めているだけであり、他者の著作に自分の価値や思考を投影しているにすぎないだろう。 自分にとって自明となっている価値や思考を反省的に問い直すためには、自分とは異なる他者が必要であり、歴史的著作は、そうした他者の見解を現代人に忌憚なく主張しているゆえに意義がある。 歴史上の著者をその書かれた時代から理解する重要性は、その理解がひいては自己の従前の理解を修正・改善しうる点に ある。それは、異質な文化に属する他者、あるいは、同じ文化に属しつつも自分とは異なる見解を抱く他者と接する場合に相手の環境で考えてみるという、いささか面倒な試みの重要性と同じである。

(中略)

 古典的地位を占めているほどの作品の場合、その著者は、同時代人には見えていなかったものを見ており、新しい理解のあり方を提供している。そこには、それが見えていない人々にも見せようとする強い意欲があり、優れた政治思想家は、自らの新しい発想を支える強靭な論理力を具えている場合が多い。 古典的著作が長年にわたり読み継がれている一因は、深い探求ゆえにそれが理論的な強さを具えているところにあろう。そのため、たしかに歴史的背景を知ることは重要であるが、まずは古典的作品をじっくりと読むことを本書の読者には勧めたい。 読み終えた結果、もし何が分からないかが分かれば、それは大きな一歩である(pp249-250)

 

 なかなかおもしろかった。もちろんこれ自体はかなり古びているのだが、ここに示されている著者のリベラルな考え方の方向性は今なお傾聴に値するのではないかと思う(そしてそれがまだ実現できていない途上にあるのは残念なことである)。ところで家族法関連って、ちゃんと最新の法改正に対応していて新書ぐらいの入門書ってないんですかね。おとなしく有斐閣をやれということなのか。

 

 これも大変面白かったですね。何で大学時代の時に読まなかったのかなと思ったぐらいです。看護学校向けの哲学のテキストということで、叙述はかなり平易。哲学史の部分も(ややハイデッガー的な理解だが)ソクラテスプラトンアリストテレスデカルト→カント→ヘーゲルニーチェ、そして現代の哲学潮流と無駄がなく、かなり整理されていて、それでいてしっかりと肝心な部分は伝えていて分かりやすい。普通実体とか本質とかそういうあたりでウッとなってしまいがちなところですが、そういうところを逃げずに平易な解説をしているのはすごいなと思いました。最後の滝浦静雄の章だけヘビー級でしたが他は本当に哲学入門としては最適なものかと思いました。

 

 これは重要な本ですね。現代社会のイキリ大学生みんな読んだらええ。自身の特権性にあっけからんとするのも、それを安易に自己批判するのも、大衆侮蔑としては大差ないということで、そういう連中の鼻っ柱が兵営で終わりになるという奴です。ところで現代の兵営というのはあれですか、社会ですか。いつまで総力戦体制なんだ我が国は。