死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20231208-10

 金曜日は酒を飲み、土曜日が腰痛で何もできなかったので、日曜更新っす。

 

【労働】

 8日の労働はひどかった。俺だけ過酷な肉体労働に従事していた。まあ仕事がなかったので自ら志願しただけなんですけどね。

 最近色々なことを諦めているので、もうどうにでもなってくれという気持ちでどんどん仕事から意識的に手を引き始めている。これは10年20年先の人生のことを考えるといいことなのかもしれないが、果たして仕事を失った後に人間には何が残されるのか? これがわからないんだよな。

 こうなった時人間に残されているのは生殖であり、次世代への賭け金をテーブルに乗せることなのだろうが、俺のようなモンスターは何もしたくないんです。何も。

 

【ニュース】

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 銃規制なんかクソくらえという強い気持ちを感じますね。

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 悲しい😢

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 童貞を守れないような人間が何を守れるってんだ理論からすると、自分の隠し事すら守れないような人間に国防を任せざるを得ないシビリアン・コントロールとは……?(狂人)

 これは金曜日に見た記事です。土日は最近新聞を読まないので特に言及はありません。

 が、上の記事にあるとおり、一連の「いただき政治家安倍ちゃん」のエピゴーネンどもを中心に展開されるパー券問題は本当にひどいですね。統一教会もこんな奴らに財産隠しがどうこうとか言われたくないだろうなと思う。そんなに事務所経費やら会食費用が足りないんだったら、テメェらの出来の悪い息子ホストにしてバカ女から金むしり取れって話ですよ。それか奥さんか娘を立ちんぼさせなきゃダメでしょうが。

 ただ、この99%生き残りが厳しそうな状況で、勝負師岸田文雄が覚醒するのかどうかという点にかかっており、仮に岸田が退陣するならいっそ自民党も一回終わりにしたらええんやないかという気がする。普通に金権政治に対する反省のなさというのが「ネオ55年体制」の結果だとしたらただ単に国民総出で政治版「メメント」をやっとるだけやないか。

 

【読書】

 土日は最近本を全然読まないんですよね。漫然とゲームするかYoutube見るかに収斂しちゃう。だから以下の記述は金曜日の読書を思い出しながら書いています。教訓ですが、マジでその日に記録しないと後から思い出すのが辛くなる。

 小野紀明ハイデガーの政治哲学』第1章途中(~p87)まで読みました。今年読んだ本の中ではトップクラスの難関本です。この著者の政治思想史系の本(『精神史としての政治思想史』『フランス・ロマン主義の政治思想』『西洋政治思想史講義』)は結構読んだのですが、『美と政治』とか『現象学と政治』みたいなハイデガーやらドイツ思想の著述は難しくて避けてたんですよね。

 ハイデガーがそもそも「政治」なるものをどこまで主題的に考えていたのか、という問いがある。それに対して、オンティッシュな次元(=いわゆる政治学的な概念としての)の「政治」にフォーカスするとナチがどうこう民族がどうこうみたいな話になってしまうけど、オントロギッシュな次元の「政治」=つまり人間と人間の共同性が現出する秩序、みたいなものとして考えれば、ハイデガーの哲学はそのような「政治」を主題にしてたんや!というのが小野の主張だった。これは俺の極めて荒っぽい要約なので、ちゃんと記述に基づいて敷衍すると、「「政治的なもの」は、ある具体的な状況において、その都度の有意味な人間関係の布置、集合体、つまり「我々」を創出する、より正確に言うならば、「我々」を現れさせる営みであり、しかし状況が変われば、その関係を解体する試みである」(p34)と端的に定義する著者は、伝統的な政治観念を前提にしたハイデガー解釈をうまく避けることで、「生の哲学」や決断主義的な当時のドイツ思想とは違った点からハイデガーの「政治」観念を導出しようと企図している(その取っ掛かりとしているのは、ハイデガーの思考にはある種の「両義性」が認められているという著者の解釈である)。ここまでは読めた。

 例えば、著者によれば、最も政治色の濃い1930年代前半のテクスト群においても、「少なくとも人種概念に基づくフェルキッシュな民族主義者ではなかった」(p82)ハイデガーが考える「民族」とは、「各人が単独者として他の単独者たちと地平を異にすることを肯定的に承認した上で、例外的に地平の共有という稀有な生起の下に結集する集団である」(p83)ということらしい。いわゆるダス・マンとダス・ゼルプストというハイデガー哲学の範疇を超えるものではなく、決してドイツ民族最高!みたいな意図ではないということである(ただし、著者も注意喚起しているが、この時期のハイデガーは極めて危うい言語使用に堕しており、政治的と受け取られても致し方ないということだった。本書あとがきにおいて著者はハイデガーを「政治を論じる者が弁えておくべき最低限の責任倫理が欠落してしまった」(p506)と批判している。)。『黒ノート』問題とかはどう解釈すればいいのかと思ったが、多分その「反ユダヤ主義」にもハイデガー独特の意味があるんですかね……?

 以上のクソデカ話について、近代政治学の薫陶を受けた人間としては「は?」となるのだろうけど、プラトンとかアリストテレスに遡行して考えると、確かに哲学と政治の未分化性みたいなものについてはまあそれなりに納得せざるを得ないところもある。実際、ギリシアの実践哲学復権の端緒となったアーレントなりシュトラウスなりはそういった「前=政治」的なところから思索を展開していて、2人が1920年代のハイデガー講義を受けていたという点も考え合わせると、こういう「政治」の捉え方もそれなりにあるのかなと思いました。

 ちなみにこの本は注を読み飛ばしてもいいのだが、注がかなり濃く書いてあって勉強になる(当時の時代の思潮に読者の注意を向けるために、ムージルとかホフマンスタール、あるいは表現主義芸術の文献などを紹介するといった点に、著者の精神史的徹底を見た)。

 

【雑感】

 ブログ、不定期でも書き続けて習慣化していかないといけない。書いていて思うのは紋切り型の表現に逃げがちだなということであり、つまり思考が平板になっているということだ。とはいえ忘年会シーズンなのでそこそこ飲酒する機会もあるので、無理のない範囲で書けたらと思います。