死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

女の子に声をかけて撮った写真を展示すると怒られる時代は複製技術時代なのか?そうです

 昔話をしよう。ヴァイマル共和国初代大統領のエーベルトが閣僚とパンイチでバルト海に立っている写真が、当時の週刊誌に掲載された。夏休みのちょっとしたプライベート写真で、週刊誌側にエーベルトをこき下ろす意図はなかった。だが、初出し水着で写真集を爆発的に売る乃木坂みたいな手法をきたねえおっさんがやっても受けるわけがなく大顰蹙を買った。共和制を快く思わない人たちがメタクソにこき下ろし、一部は「過去と現在」なんていう題名のポストカードでエーベルトのパンイチ画像をヴィルヘルム2世とヒンデンブルクの軍装写真と対比するという悪辣なコラ画像を作っていた(この辺のことはBernhard Fulda Press and Politics in the Weimar Republic,2009に詳しい)。だが、このような悪辣さを全く笑えない時代に生きていることは、トランプがCNNをぶん殴るアレを思い出さなくても皆さん重々承知の助だろう。

 

 全く笑えないとタイプした指先が収まらぬ(何という陳腐な表現!)うちに恐縮だが、実は結構笑えることもある。個人的には、反社会勢力と政治家のツーショットが問題になることにある種のバカバカしさを感じる(少し考えればわかるが、政治家は誰とでも写真を撮るタイプのアホだし、そうじゃなきゃ政治家なんかやらんのである)。別に政治家に限らず、アイドルと妻子持ち編集者の路上ベロチューとか、広域指定暴力団NHK組員のカーセックスとか、闇営業芸人と金塊強盗のやっていき写真とか、どうしても笑ってしまう。下劣な人間性を隠しもしないタイプのクズなので。しかし、この手のクズにとっての嬉しい時代である、複製技術時代という奴は。

 

 もうベンヤミンがどっかで言っているのかもしれないが(というのも大学1年生の時に『複製技術時代の芸術』を読んで以来この優れた思想家にほとんど触れあっていない)、複製とは、とどのつまり「無際限の公開性」と「秘密の再現性」の合わせ技である。本来であれば居合わせなければ遭遇しない(つまり、それこそ大多数の第三者にとって秘密の)いま・ここの事象を媒介的に捉え、それがダビングやらコピペやらで「無限に」拡散する。リングの恐怖は、髪の長い女がテレビからワーッと出てくることにあるのではない。本来なら遭遇の必要すらない超自然的現象が、人間の胸三寸で無限に拡大する可能性を秘めていることである。複製技術時代の不安をうまく描きだした作品であるが、その後「呪いのビデオシリーズ」という大量のエピゴーネンを生み出して陳腐化したあたり、「模倣」というよりも機械的な「複製」の運命を作品自体も逃れられなかったのかなと思った。これは根拠薄弱の人文漫談です。まあいつもやってることなのでお目汚し失礼します。

 

 話をどんどん変えていくが、声かけ写真展はよくないという論調がある。まあそれはそうかなと思わなくもない。リベラルなので。だが、じゃあ声かけ写真そのものはよくないのか?となると、それはどうだろうかと一回立ち止まってみたくなる。とはいえ、ググってみると、声かけ写真展がジャップオスの異常性と気持ち悪さを含有しているので何もかも無理という人が世の中にはたくさんいるらしく、問題を腑分けしたことがなさそうだし池袋のバンザイプリウス事故で厳罰の署名とか書いてそうという率直な気持ちを抱いてしまった。もちろん、子どもの合意を得たということの法的な評価や、声をかけた子どもがエーベルトよろしく水着であってその写真を売ったら児ポに引っかかるだろうという論点もあるかと思うが、女の子に声かけて写真撮るのが一律にダメということに強い根拠は見出せるのだろうか。

 

 声かけ写真展への嫌悪感を複製技術時代の文脈に置き直すと、きっと女児を「展示的価値」を帯びたものとして見ることに起因するのかもしれない。それはまさに無際限に秘密を覗かれることを意味するからだ。でも、芸能人や政治家は許可なく写真を撮って週刊誌にあげるのはよくて、女児に許可とって撮った写真を展示するのはダメらしい。あまり比較としてはよくないが、このあたりの線引きはバカバカしくも愛おしい時代を読み解く鍵な気がする。ちなみにハゲワシが近くにいた場合の女の子の写真はとりあえず撮ってNYTに送ろう。

 

 先述した通り品性下劣なウクライナ21系男子なので、実際の死体画像とか「welcome to underground」って呟きながら見ることもある。30年前なら見ることはなかっただろう、ゾッとする光景が今やインターネットにバラまかれている。複製技術時代だ。ベンヤミンはここまでのことを予想していたのだろうか。していたのだと思う。彼の叙述を読むと分かるが、芸術を庶民に開くという観点から彼は複製技術に肯定的な側面を見ている(それをディスり倒したのがぼくらのアドルノである)。しかし、庶民でも所有可能な絵画写真だけが開かれたわけではない。ありとあらゆる秘密が公然と、無際限に暴露される可能性。「鉄の檻」の柵の内側に取り付けられた無数の監視カメラのレンズが世界を覆っている。ベンヤミンの肯定は、きっと乾いた笑いとともになされたに違いない。