死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

緊急事態宣言下のTolle,lege

 ※今日も前置きが長いですがもはやそれを楽しむぐらいの強い読者になってください。本題は第3段落から始まります。

 

 緊急事態宣言を全国規模で発令することを首相が検討しているようですね。今さらかよという気もする。東高円寺の政策シンクタンク「オーブリヒカイト」国家理性部門シニアアドバイザー・竈屋仁徳として毎日e-govのパブコメ怪文書を投稿している俺としては、早いところ日本の大通りをサラエボ化すべきである。つまり、50口径の対物ライフルで武装したスナイパーを高層ビルや奈良の大仏などにたくさん配置して動くもの全てを射撃の的にしたり、自民党ネットサポーターズのアホどもをパソコンから引き離して自動小銃を持たせて市街地を「No Russian」するべきである。銃だけが遵法精神を作るので。それか物忌みを復古させよう。

 

 俺は仕事がないので毎日暇している。暇すぎてアサシンクリードオデッセイで何回でも繰り返せる汎用型クエストを20回ぐらいやってふと虚しくなったり、アマプラでドラえもんの大長編やブレンド・S、まち̚カドまぞくを無限に流したり、日向坂46のまとめ動画を寝る前に見たりするなどした。最後の暇潰しについては、三次元女性絶対拒否セクマイ陰キャとしては「アイドル動画に手を出したのはシャミ子が悪いんだよ……」と言いたいところだが、いつの日か武装勢力に捕まった際に「坂道グループのアイドルの名前を全部言えたら助けてやる」と言われて「アッ!ナチ坂、じゃなかった欅坂と乃木坂は全部言えるけど日向坂わかんねえ終わった……」とならないようにするためだ(大義名分)。まあ正直に言うと彼女たちはかなり面白いですね。個人的には野性爆弾のワールドチャネリングの千鳥バーベキュー回と、カリギュラの誘拐企画と同じぐらい笑った気がする。あとひらがなけやきの頃から凄い頑張っているので、そこに関しては純粋に「この子たち偉いな……。それに比べて俺は大卒であること以外勝ってるところがねえな……」という気持ちになった。中途半端な学歴に縋るしかねぇので。

 

 ただ、そうした生活を1週間ぐらいやっていると、流石にどれもこれも飽き始めてきた。仕方がないので、俺の精神のセーフティーネットであるところの読書に手を出し始めた。トゥキュディデスを読み終えたので次何しようかなと思っていたところ、カミュの『ペスト』にしようと思った。現下の状況が手伝ってかメチャクチャ売れているらしい。しかし、俺は26歳になっても現在進行形の中二病患者なので『ペスト』ぐらい読んだことあるかなと思ったが、どう記憶のプールをグチャグチャ探し回っても読んだ記憶が全くなく、よし読もうと思った次第である。

 

 早速Amazonで注文しようとした。ところが800円ぐらいの新潮文庫版がAmazonでは最低価格1800円で売っていた。本体価格は650円で送料が1000円みたいな、月のナチス前線基地から送ってくるんか???というような出品もなされていて、マスクじゃあるまいし……と思い買うのを辞めた。ここで考え得る次善の策は、日本の古本屋なので、調べてみたがここでも新潮文庫版はヒットしなかった。恐らく普段は100円コーナーで売るような代物なので、ネット通販で出していないのかもしれない。緊急事態宣言下のため、地元の図書館も使えない(そもそももし空いていても誰かが借りていただろう)。神保町や池袋、新宿などの大きい本屋に行けばあるとは思うが、このご時世に30分以上電車に揺られるのはなるたけ避けたい。こうして、俺は初めて緊急事態宣言下で書物を手に入れることに若干の不便さを覚えたのである。この経験を通じて気づいたことを若干覚え書き程度に残しておきたい。

 

  まず、図書館について。このブログではちょこちょこ言及しているが、俺は図書館ヘビーユーザーである。普段なら土日のどっちかで、ほぼ必ずと言っていいほど地元の一番大きい図書館に自転車で30分かけて行っていたし、東京都の他区の図書館にも足を運んでいた。昼休みは大体図書館にこもって本棚を眺めたり、持ってきた本を読んでいた。昼休みが始まるとすぐスゥ……といなくなるので、自分の机で食べながら仕事(!!!!!)をしがちな奴隷道徳ガチ勢の職場の人からはよく「どこでご飯食べているんですか?」と聞かれるのだが、まさか本を読んでいますとは言えずに適当に外でコンビニのイートイン使ってますわとか言っている。辛いねえ。

 

 ところが、3月ぐらいからいくつかの図書館が資料の閲覧スペースを封鎖する措置をとった。要は資料を予約することでしか本を手に入れられない状態だ。そうなってくると、図書館に行って本を借りるというムーブに結構面倒な手続きが介在する。たとえばインターネットで予め借りたい本を予約するなど……。確かにお目当ての本にリーチすること自体はできるのだが、しかし本棚を眺めるのも図書館の重要な機能だと俺は言いたい。お目当ての本を探しながら、隣の本の背表紙を手に取ってみることは大事だと声を大にして言いたい。そこで少し本を開いて、ちょっと読んで棚に戻すみたいなことをやっているだけで、俺なんかは一日が終わる時もある。しかし、そういう機会に手に入れた知識が意外なところで役立っているし、「嗚呼何かそういうことがあの本に書いてあったような……」みたいなとっかかりを持つことも大事だ。

 

 そういった機会を3月半ばから奪われてしまったわけで、まあコロナも凄いから仕方ないねと思っていたのだが、そして緊急事態宣言が出てほとんどの図書館が閉館してしまった。図書館は換気がよくないし、割と近い距離でみんな勉強机に固まっているし、本にウイルスがついているということも考えられなくはないので、結局このような状況では閉館以外の選択肢はなかったのかなと思ってしまう(恐らく東京都もそうした事情を踏まえて休業を要請したのだろう)。ただ、図書館というのが俺にとってスゲェ大事な知的インフラだったことは間違いなく、図書館で読んだ本を全部買っていたら100万は軽くいっていたことを考えると、この期間中の知的活動のダメージはかなりデカいなと思う。割と興味のウィングが広いので、あれもこれもと本を買っているとすぐに破産してヘンリー・ライクロフト化しかねないのだが、そこをうまく皆々様の税金で補ってくれたのが図書館である。個人的には本は身銭を切った方がいいとは思うのだが、しかし人生は本だけで構成されているわけではない。池袋のスパ・レスタ、鳥貴族の知多ハイボールオープンワールドゲーム、ネトフリやHuluの月額支払い、同人音楽……お金はたくさんかかるし、俺の収入は同世代平均的には中の下ぐらいまで下がったので、本に全振りするわけにはいかないのである。そういう中で、5000円以上する本を地域の民のために購入し、俺のような人間に貸してくれる図書館は本当に大事である。再開したらまたお世話になります。

 

 もちろん、図書館がなくても俺には自前の蔵書がある。積読がメチャクチャ多いので、そこから読めばええやんか!というツッコミは当然想定される。しかし何だろう、気軽に使える図書館を想定した上で自分の知的な枠組みを作っていたというか、たとえば「あー、あの研究書参照したいな……。俺の地元の図書館にもないけど東京都立図書館にあるのか。じゃあ今すぐ必要ってわけじゃないし相互貸借でお願いするか……」とか「あー、この本品切れで中古もメチャ高いな……。仕方ない、早稲田の中央図書館行ってコピーしよう……」とかそういうような感じで普段から生きてきたので、ここに来て自分の蔵書だけというのがかなり心細く感じるのである。蔵書が減ったわけではないが、アクセス可能な本が一気に制限されたとでも言うべきか。多分人文系の学生とか研究者は似たような不安を覚えているのではないか。そして、そもそも積読というのは、「読むものがなくなったから仕方なく読む用の本」では決してなく、「いつか読まれるべく時を待っている本」なので、図書館の本を借りられなくなったから読むか……みたいな気持ちになるわけでもないことを分かってほしい。まあこれは甘えと言えば甘えなのですが。

 

 建前上、日本で出版された書籍であれば、Amazonや日本の古本屋を駆使すればインターネットでも買えるし、神保町や東大あたりの古本屋をdigれば見つかるかもしれないし、最悪国会図書館に行けば読むことができるのが平時だと想定すると、今はまさに本へのアクセシビリティの観点からも「緊急事態」だ。上述のように図書館はほとんど機能していない。買うにしても、神保町の古本屋も休業を余儀なくされているし、土日には閉めてしまう大型書店もあるという。Amazonや日本の古本屋は今のところ普通に来ているように思うが、『ペスト』のような事例もある(特にAmazonは一度品切れになると狂ったような価格の吊り上げが発生する)。そもそも本を買いに行くのは「不要不急の外出」にあたる可能性がある……などなど。あまり想像したくはないが、もし世の中の流通が完全に死に絶えた時、換言すれば「配られたカードで勝負するっきゃないのさ」状態に置かれた時、我々が取りて読むのは自分の部屋の本棚からである。

 

 今回のことを契機に改めて自分の蔵書というものを考えた。上述のように図書館に頼ってしまうのは、恐らく俺の関心がそこかしこに飛んでしまうため、蔵書全体のテーマが統一されておらず、「何かこの分野なら俺の蔵書だけでも行けるかな?」という自信がないことに起因しているのかもしれない。もちろん一通りの古典は揃っているし、研究書とかもないことはないのだが、やはり「あーあれも足りねえこれも足りねえ」となってしまうことがしばしある。たとえばこの前陶片追放の記事を書いた時には橋場先生と佐藤先生の本を買う羽目になってしまった(本来なら図書館で済ませようと思っていたのだが)。

 

 とはいえ、一律給付10万円全部を書籍代に特攻の拓するほど俺も生活を捨てていないので、結局は俺の知的好奇心を別の方向性に向けるしか今のところ解決策はないわけだ。こういう時こそ、やはり昔読んで感銘を受けた本とかを読み直すいい機会かもしれない。この状況について何かヒントにならないかなと、たまにブログで言及するニコ・ロスト『ダッハウ収容所のゲーテ』(林功三訳、未来社)をパラパラとめくっている。俺が言葉を空費するよりもよっぽど有意義なので、いくつかの印象的な個所を紹介したい。

 

 たとえば、フランス人の囚人がドイツ語を読めないためゲーテの戯曲『エグモント』を持ってくる(著者はオランダ人)。一日中『エグモント』を読み耽った著者はドイツの古典文学を研究することを決意する。「読んだり書いたりすることができるようになって、わたしは以前よりもはるかに落ち着くことができるようになっている」(pp27-28)。さらに、収容所の図書室からたまたまジャン・パウルの選集を手にして読み耽った著者が「家へ帰ったら、もう一度かならずジャン・パウルの『ジーベンケース』を呼んでみよう、また『巨人』と『彗星』を読んでみよう、と堅く決心した。なによりもベルネのジャン・パウル回想を読みたいのだが、これはむろんこの収容所にはない」(p114)と息巻く。絶望的な状況下にあっても、一冊の本が救いとなったり、また次の本を読もうという意欲として生につながるという事例である。

 

 また、強制収容所の状況下では、読書の尺度にも影響を与える。ルソーの『告白』を読んで著者はその偽善と自己崇拝を嫌い、「生理的に不愉快な感情を惹き起こす」(p36)と断ずる。その理由について「このわたしの判断が状況によってきわめて一面的な影響をうけていることを、完全に意識している。しかし、わたしたちがたえず死を目の前にしているここのこの雰囲気のなかでは、率直さが必要である。この要素を欠いている、というよりそれが背後に退いてしまっている文学は――ルソーのような世界的な文学でも――わたしにとってこのダッハウでは読むに堪えない。このような文学評価の尺度をわたしは以前けっして用いたことがないが、ここではそれがいわば強要されるのだ。」(同)。何度読んでも、読書は常に一回きりの出来事となる。状況の転変は、尺度すら変更することを「強要」する。その意味で、新型コロナウイルスが猛威を振るう社会における読書というのは、逆説的ではあるが貴重な経験となるかもしれない。

 

 そして、パンの配給が削減され、オランダ赤十字からも支援が来ない状況下で、著者はこう決意する。「K博士は今朝――わたしたちの部屋だけで――新たに三例の発疹チフスの患者を確認した。ドゥハルスキーは、わたしたちが皆これに感染し――栄養失調のため――皆これで死ぬだろう、と言っている。わたしもそれを恐れているが、そういう考えをできるだけ遠ざけていようと思う。もっと読書すること、もっとたくさん、もっと集中的に研究すること、自由な時間を一分でもそのために利用することだ! 赤十字の小包の代わりに――古典文学だ。」(p228)。これだけ見るとかなり勇ましい文学青年だねえと思ってしまうが、その直後に著者はポロっとこんな不安も書き洩らしている(最初読んだ時はあまり気にしなかったのだが)。「とはいえ、発疹チフスに対してはゲーテもけっきょくはわたしを守ってくれないのではないか、とわたしは恐れている……」(同)。当たり前である。読書も筋トレもウイルスの感染を防ぐことはないだろう。実際、ダッハウチフスによる死者が急増し、著者の知己もどんどん亡くなっていく。彼らの思い出や最期の記述が増え始めるが、本や読書に関する記述は急激に減少し始める。

 

 感染(それはこの日本社会においてはある意味社会的死に近くなっているが)と肺炎による死は誰にでも訪れる。感染して重症化したら読書とか言っている場合ではないだろう。まず健康なのが大前提である。しかし、健康なだけでは人間は満足しない。精神の果実を求める者にこそ、書物は開かれているのだろう。

 

 余談だが、結局カミュの『ペスト』は近所の本屋で手に入れた。短縮営業で18時までしかやっていないのだが、このご時世なので開いてくれるだけでもうれしいもんだ。この本屋は嫌韓反中本が大量にあるが、一方でまともな本の品揃えが乏しく、正直普段なら絶対に行かないところである。しかし『ペスト』はちゃんと入荷されていた(何と最新の版は今月15日に発行とあるので、よほど注文が殺到していると見える)ので定価で買い求めることができたし、一応新書2冊と中央公論の今月号を買い求めた。緊急事態宣言とやらの重みをひしひしと感じつつも、まあやっていくしかないのかと思った次第です。おしまい。