死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20171031

 遅くに帰ってもブログだけはちゃんと更新する。そういう気持ちが俺を強くするんだよな。俺はいつかこのブログが300年後、異常な文献大好きオタクに発見されることを待ち望んでいるので……。

 

 起床は7時。今日の仕事は死ぬほど忙しく、ああそういえば俺ブラック企業に勤めてたんだよなということを思い出すに至った。労働基準法とかいうのはシェーンのように地平線の果てに去ってしまったらしい。

 

 ツイッターで呟くほどの元気もなく、今日はタスクの濁流に身を任せた。ポロポロとミスが出て人々に迷惑をかけたが、人々の方もポロポロとミスが出て俺が迷惑を被った。日本人は助け合いよりも足の引っ張り合いがうまいことがわかった。俺は社会に馴致されてたまるかと本気で思っているので、1時間に10回は聞こえる舌打ちを打つことにしている。それがせめてものロックじゃないか。

 

 こうも仕事ばかりしていたらブログで書くことすらなくなってしまった。しょうがないので社会さんの力を借りようと思う。今日、神奈川県のどっかで9人の遺体が見つかったらしい。猟奇的な事件だと思う。それを神奈川県警が捜査することの方がもっと猟奇的だとは思うが。普段は新聞やメディアをバカにしている賢しらなツイッタラーもこの日は新聞紙面に食いつき、テレビを見る。人は新聞の政治面や経済面を嘲笑し、社会面にはめでたく奴隷となる。可哀想な連中だ。

 

 新聞は思考を細切りにする。たった1日で世界の変化の大枠を把持し、大衆的な文体でそれを情報グールたちに食わせる。情報グールが新聞を熟読しその立場を支持しようが、あるいはざっと見て嘲笑まじりに反対しようが、彼らは全く思惟を持たない。かといって、新聞すら読まない連中よりはマシだろうと言う人もいる。それはその通りだ。この世には新聞にすらたどり着けない被差別階級が一定数いる。彼らは活字を見ると「眠く」なってしまうらしい。それは活字の呪いである。中島敦の『文字禍』は知識階級に対する文字の呪いを記したものだが、底辺階級にも文字は呪う(というか、文字とはそもそも世界に対する呪詛であり、真ん中の階級はそれに気づかない)。だがそれは新聞に安住する言い訳にはならない。新聞は決定的に乗り越えられるべきものである。

 

 帰宅は22時55分。今日もたくさんの異常な本が届いた。そろそろ本格的に裁断自炊の方法を考えないと本で床が抜けるかもしれない。床が抜けたら今度こそ破産するだろう。今俺は、ギリギリの命をどこかで楽しんでいるのかもしれない。楽しいのか? 一体いつになったら読んでくれるんだ?と本たちの悲鳴が聞こえてくる。俺はただ――今日は疲れた、また今度にしようねと言って、シャワーを浴びることにした。

 

ごはん

 朝:ブルゴーニュ風無

 昼:ラーメンとチャーハンセット

 夜:ファビュラスな中華