死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

Contemptus mundi

 久しぶりにカトリックみの深い表現をタイトルに冠しました。死者の如き従順なので。

 

 ここ最近は毎日平穏無事に過ごしています。だからブログを書かなかったんですね。平穏な毎日ほど他人を憎悪させるものはないので。人間はいつだって京王線で燃え盛る車両から全力で逃げる人々を見て気持ち良くなるというのが俺の持論です。病気がやっと多少は落ち着いてきたのですが、やはり無理をするとちょっと厳しいとなります。ただ、おかげで痩せることの意識が芽生えたので、ほぼ毎日有酸素運動しています。

 これまではエアロバイクとウォーキングを交互にやっていたのですが、最近はようやくジョギングに移行しました。中学校の頃テニス部に入部し、学校の外周を5周するクソウォーミングアップに1周もできずに耐えかねてオタク数人と集団退部したぐらいの俺ですが、2週間ぐらい続けているとそこそこの距離(といっても運動時間を忙しい朝の時間にしているので30分4キロぐらいですが)を走れるようになるんですね。そういう細かいことの成長は自分の人生を耕すことにおいて大事ですね。

 これらの運動のメリットは痩せる以上に心肺機能が向上するので、生活におけるキャパシティがでかくなることにあると思います。たとえば、前までの俺は階段をメチャクチャ忌避していたのですが、今はカロリー消費も兼ねて5階ぐらいまでならエレベーターなしでてくてくのぼります。また、自転車も母親のお古の電動自転車を使っており、バッテリーがないとペダルがメチャクチャ重いので満充電(しかもお古なので消費がメチャ早い)にしないとちょっとした遠出ができないという状況でしたが、今はペダルを何とか継続的に漕げるぐらいの筋力が足腰についたおかげで格段に行動範囲が向上しました。ちょっと遠出すればカロリーも消費できるので、心置きなくマックやケンタッキーが食えるのもいいですね。

 

 あと、食事にも多少気を遣うかと思い始め、カロリー計算アプリを入れているのですが、意外に俺はこれまで食っていなかったんだなと思いました。何か無駄に炭水化物を断って痩せた時期があったのですが、ある時期から急激に痩せなくなり、腹も減っていいこともなく、そして白米が食いてえという素朴な気持ちに勝てずにご飯をちょっとずつ食べています。それでも設定された摂取カロリー(俺は運動で360キロカロリー消費することを前提に2300キロカロリーまで食べていいことになっているようです)を守っていれば、体重は変わらないかちょっと減るぐらいになっているので、これなら何となく続けられそうだなと考えています。あと、これ以上痩せると服を全部変える必要が出てくるのでそれはそれで出費も痛いし面倒だなというところで、今のところは体重がゆっくり減っていくことを想定していろいろものを食ってみようと思っています。

 

 身体はまあこんな感じで、精神の栄養はというと、最近は割と本を読んでいます。小説も読めば、新書もそこそこ読み、時には割かし面倒な本も読んでいます。最近読書メモを細々とブログに綴っていますが、だんだんめんどくさくなってきて(そりゃそう)読み捨てにしたままの本が多くなっています。許してください。でももうどうせ何やっても一週間フレンズだし今更本の内容を覚えてもそれを他人に披歴するだけの虚栄心すらないわけで、その意味では覚えることに拘泥していた自分がちょっとバカみたいですね。今日の午前中までにモームの『アシェンデン』を読んでいたのですが、シベリア鉄道で諜報員アシェンデンが同席するアメリカ人ハミルトンの読書姿勢がちょっと滑稽だったのですが、あれはよくよく考えると一部分俺に当てはまるところもあったので、これを踏まえて自分の読書に関する行論を少し相対化してみようと思った次第です。

 論文も書かない、引用を交えた気の利いた話をどこかでする必要もないとなれば、読書は果たしてどのような意味があるのでしょうか。自分の頭の中に本を再構築するぐらい何度も何度も繰り返し読んだとして、ファリア神父のように5000冊も読んだ挙句に人間の全てが書かれている150冊を脳内に暗記しても仕方ないじゃないですか。そもそも、結局ファリア神父のような超人でも97%の本は別に忘れたって構わないわけです。そう考えたら俺のような凡人は読んですぐに忘れるぐらいでちょうどいいのかもしれませんね。

 結局大事なのは、読書して得た内容云々よりも、読書を習慣づける意義そのものなのではないかとちょっと思い始めています(というのは、要は読んだものを覚えられない弱者の僻みなのかもしれませんね。それはそれでいいと思います)。読書はやはり自分がひたむきに邁進している労働や、生活のアレコレ(病気などの深刻なこともある)を一瞬でも脇に追いやって、他者同然のテクストに向き合う時間を与えてくれる。それは自分のご機嫌と周りの人間のことしか考えない半径2メートル(これはもちろん麻生太郎の綽名にヒントを得ています。まさに彼は典型的にそういう人なので)の「普通」の想像力や感性では辿り着くことのない何かを感じ取るために不可欠な営みなわけです。こうやって書くと何だカノンの話をしているのか?と思われますが、古典文学でも通俗小説でもエッセイでも新書でも学術書でも優れたものには必ずそういうものがあります。それを読んでハッとする体験は本当に大事なわけです。知性を磨くということは、できる限りそういった機会を作るよう努力することではないでしょうか。

 もちろんこれは別に読書以外の趣味でも得られるわけですが、俺はたまたま読書をしているというだけです。映画を見てもいいし、ゲームをやってもいいし、音楽を聴いてもいいし、散歩してもいいし、セックスしまくってもいい。人それぞれが自分の好きな様々な習慣から、思いもがけない何かを取り出せることがあると思います。大事なのはそれを続けることによって、自分が普段の人生とは異なるチャネルから何かを引き出すための努力を怠らないことだと思います。

 

 労働についてです。労働はここ最近は本当に楽になりました。残業している日よりも定時で帰る日が格段に多くなりました。よかったです。こうなったらとことん楽をして、何とか自分のための時間を確保したいなと、そう思っている次第です。残業しないとお金を稼げないのですが、もうお金についてはいろいろと諦めがついています。

 というのも、俺は前職では同世代ではそこそこの高給取りでしたが、一時の快楽で金はどんどこ消えていきました。悲しいかな、今のような職場でそこそこの時間で貰う低めの賃金の方がよっぽど口座にお金貯まるんですよね。

 とはいえ、これは実家に住んでいるという点が大いに作用(とはいえ家に少なからずのお金を納めていますが)しているのかもしれません。一人暮らしをしたら生活がカツカツになりまた残業ブーストしてお金を手に入れなきゃと思うようになるかもしれません。いずれにせよ、どう逆立ちしてもお金が手に入らないのであれば生活をダウンサイジングするだけです。頑張ろう、もっと稼ごうという気が根本的に起きなくなりました。それでどうにもならない不具合が生じれば3日3晩死ぬほど遊んだ挙句樹海で首吊るだけのお金は持っているので、そこをキープしていけばいいかなと思っている次第です。はい。

 

 最後に。世界は大変ですね。兎にも角にも世界と関わりたくない。俺は衆院選日文研も選択的夫婦別姓も異常殺人テロルも諸々全てに目を背けたい。自分が選択した時以外は半径2メートルだけに閉じこもりたい。世界に対しての真剣な忌避感情。最近はそれだけが俺の生きる意味ではないかと思い始めています。よろしくお願いいたします。