死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20231218

 寒くなってまいりましたね。あったけぇ記事をお届けします。

 

【労働】

 テレワークで、せっせといろいろと書いたり対応したりしていたのですが誰からも返信をもらいませんでした。本格的に窓際社員になってきたのでワロてしまった。マジで「是非社を担う管理職に……」みたいな話なんだったんだ。やっぱ大人は信じちゃいけねえよって3日後に30になる男が言うの気持ち悪いなワハハ。

 

【ニュース】

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 尾崎豊の兄ちゃんが弁護士というのはじめて知ったわ。普通に面白かった。裁判所の書記官→学習塾→弁護士という紆余曲折っぷりがいいね。盗んだバイクで走り出す子どもたちのために「子どもの権利」に力を入れてるのいい話だったわ。

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 外国籍で男でやれちゃう奴、その欲情をアムネスティとかで活かした方がええんちゃうか? マイノリティに興奮する性質じゃん。

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 重要な記事です。これについてはさしものあてくしも不謹慎ジョークを言うことはできません。

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 店じまい内閣よりも閉経内閣の方が語感いいだろうが! 自民党議員のくせして何でそんな反時代センスも持ち合わせてねえのかなァ?

 

【読書】

 パスカル『小品と手紙』(岩波文庫、塩川徹也・望月ゆか訳)を読了しました。昨日のエントリにも書いたとおり読み始めはまあつまらんかったけど、だんだんと面白くなってきたので一気に読んでしまいました。訳者が言うとおり、「隠れたる神」への祈念を重視したパスカルにおける信仰実践の観点、言い換えると「真理の証言(結果の如何にかかわらず、人はただひたすらに真理の為に証言をしなければならないという態度)」と「出来事への服従(神の意向の働いている出来事について、人間が軽々に個々の精神で判断してはならないということ)」という観点がだんだんと濃くなっていく感じがして面白かったですね。『パンセ』も単なる人間論を超えて読まないとダメなのかもなと思った次第。

 個人的には「サシ氏との対話」と「幾何学的精神について」がやはり読んでて面白かったですね。前者はポール・ロワイヤルの指導者であるサシ氏とパスカルが対話を行い、パスカルエピクテトスモンテーニュのようなキリスト教チックでない著者に基づいてあーだこーだ駄弁を繰り広げるのを、サシ氏がアウグスティヌスパンチラインを繰り広げて感服させるという対話体のテクスト。このテクスト自体はサシ氏の秘書フォンテーヌによって書き留められたものだが、パスカルの語りの部分はパスカルの原稿に依るものだろうということになっているらしい。

 この対話テクストは、単なる護教論を超えた意義を有していると思う。サシ氏は対話の冒頭から、パスカルの偉大なところを「それ以前に聖アウグスティヌスのうちに見いだしていた」(p157)と考えているぐらいの聖書大好きマンだ(申し訳ないが、この時点で「もうこいつ話聞く気ないんか?」という感じで笑ってしまった。)。サシ氏はパスカルが読んだ本について話せと水を向けると、パスカルエピクテトスモンテーニュを持ち出し、前者は人間の意志の能力を高く持ち上げすぎ、後者は人間の理性を懐疑によって動物レベルに貶めすぎ、結局福音の真理が一番やねという話をまわりまわってするのだが、サシ氏はパスカルがたまたま天才だったからそれらの読書によって福音の真理に気づけたわけで、「たいていの人の精神の働きはいささか緩慢で、あのような著者たちを目利きとして読み、堆肥の中から真珠――ある教父の言い方では、「テルトゥリアヌスの堆肥から黄金」――を取り出すのに十分な洞察力を備えているわけではない」のでそういう哲学者たちの著述はあんま読まん方がええよと、こうした哲学者たちの読書の害悪を結論する。こう言われてもなおパスカルは両者の読書の効用を弁ずる。モンテーニュエピクテトスにはそれぞれいいところがある。キリスト教神学的観点からすれば欠点もあるのは確かだが、両者を一緒に読むことで片っぽだけ読むよりかはマシになるという、消極的ではありながらも、パスカルなりにエピクテトスモンテーニュの意義を認めているとは思う。

 しかし、このパスカルの主張の後、対話劇はいささか強引な形で締めくくられる。「こうして、この二人の優れた才気の持ち主は、これらの哲学者たちの読書についてついに一致し、同じ終着点で出会った。とはいえ、その到着の仕方はいささか異なっていた。サシ氏はキリスト教の原理を洞察することによって一挙にそこに到達したが、パスカル氏はこれらの哲学者の原理にこだわることによって多くの回り道をした後にはじめてたどり着いたのであった。」(p185)訳者も訳注で指摘するとおり、こいつら全然分かりあっていないと思いますが……。サシ氏のような義人があくまで聖書やアウグスティヌスを繰り返し読んでりゃ惑わされるもんでもないよという一方で、パスカルにとってはこうした哲学者の読書には「善用」の可能性があるという留保をつけていると思う。

 『幾何学的精神について』は、あえて説得術が考察の対象に入っているという点は興味深いと思いました。訳者解題を引用すると、「パスカルにとって、論証と推論は、それを理解して受容する対話者の存在を、少なくとも潜在的に前提している。その意味で、彼の方法論は説得を目標とし、説得と切り離すことができない。論証術は否応なしに〔断章2〕の主題となる「説得術」に通じている」(p301)とのこと。実際パスカルは説得術は「論破する技法ばかりでなく、それと同じくらい、気に入られる技法から成りたっている。」(p270)と言う古代レトリックみたいな話もしていて、幾何学的精神とは……と思ってしまった。あと、幾何学ガチ勢すぎてメチャクチャ論理学をディスってて面白かったです。

 他の小品や手紙でよかったところは以下に引用しておきます。

 「けっして過去に囚われてはなりません。自分の罪を悔い改めるだけでよいのですから。しかしそれにもまして、未来に影響されてはなりません。未来は私たちにとってまったく存在せず、そこにたどり着くことは決してないからです。本当に私たちのものである時間は現在だけですし、神の御心に従って私たちが用いるべきなのも現在だけです。何よりもそこにおいてこそ、私たちの思いを吟味しなければなりません。それなのにこの世の人びとは一時も落ち着いていられないので、現在の生と自分が現に生きている瞬間のことはほとんど考えず、ただこれから生きるはずの瞬間のことばかり考えています。こうしてひとはつねに未来を生きる態勢にあり、けっして今を生きる態勢にはありません。主イエスは、私たちの予見が、今日の日を越えて先に広がることをお望みになりませんでした。これは、私たちの救いにとっても、私たちの心の平安にとっても、守らなければならない限界なのです。本当に、キリストの教えは最も多くの慰めに満ちています。たしかにこの世の道徳律以上に、そうなのです。」(pp343-4 「12 ロアネーズ嬢宛ての手紙」より)

 「さらに夫というものは、現世的には裕福で賢明であっても、本当のところ、神の前ではあけすけな異教徒である」(p400、「16 ペリエ夫人宛の手紙の断片」より。ちなみに、パスカルの親戚の娘が結婚したらええかどうかという話をポール・ロワイヤルに持っていったところアカンやろと返されたという文脈。結婚dis最高!)

 

【動画】

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 完全に令和のオルフェウスやったし感動しちゃったよね。

youtu.be

 うまトマチキンを年内に食いに行くか。いやでも松屋行く機会がないんだよな……。

【雑感】

 なす。