死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

SNSをこんまりする

 内省の結果、ツイッターのアカウントを消しました。少なくともインターネットでまで知り合いとつながりたくないという己の真剣な気持ちを確認できた。

 

 仮に今後ツイッターを再開するのであれば、それは一切友人をフォローしないものになるだろう。まあ、しばらくは作るつもりもないが。

 

 たまに酒を飲んでバカ話したり、温泉とかいってほっこりしたり、飯食ったりできる友人だけでちょうどいい。ツイッターアカウントはその友人に付随する「現象」に過ぎないのに、それを見てうーんってなるのもバカバカしい。そしてバカばっかのツイッターをいちいち見てどうこう言うのにもうんざりした。俺はせめてそういう自分の気持ちには正直でいたい。ファックSNS、俺はもうお前なんかで二度と消耗したくないよ。

 

 グループラインは最近ちょっと見るようになった。まあ連絡ツールとしては使うぐらいかな。

 

 目標ができた。俺はこの人生に勝ちに行く。今までの無気力な撤退戦はやめだ。失うものはねえ。

11月を振り返る

 はい、やってまいりました。1か月の振り返りコーナーです。しかし寒いですね。俺も中二病みたいに真っ黒なコートで風を切って出社したら隣の席の人に「夜闇に紛れてそう……」と言われました。褒め言葉かな?

 

〈苦役〉

 まだまだ新人気分で働きたいという気持ちでいるのに割とエグい案件の担当となってしまい、普通に残業などしている。まあ遅くて8時半なので全然へいちゃらなのだが、前職と似ていて割とコミュニケーションが重視される感じがしてそれはちょっと嫌だなと感じる。あと前職以上に報連相が重要だし(言ってしまえば前職では結果さえ出せばコミュニケーションは最低限で済んだ)、共同作業に重きをおいているなと感じた。俺が1人でいろいろと仕事していたら、よく先輩から「もっと相談して!」とか「全然これみんなでやるからね!」と言われてしまう。俺は俺なりに全体最適を考えているつもりだが、しかし俺だけが突出して1人で仕事していると変に悪目立ちするのだろう。

 とはいえ、俺にも言い分がある。基本的に健常者さんの会話には全く加わる気がないので、正直あんまりみんなで作業している時の雑談が好きではないのだ。なので1人で仕事をしたい。それかみんな共同でも黙々と作業してほしい。俺たちは内に秘めたる孤独をもっと大切にしなきゃいけないんじゃないだろうか。そんなことを思い悩んでいるうちに、もう年の瀬である。年末年始のお休み以外の楽しみは特にありません。

 

〈社交〉

 11月上旬、「バグダディを偲ぶ会」を主催した。機密情報垂れ流しあーうー社会福祉法人ことガイジ……外事三課さん、私はイスラム過激派ではありません。戦闘的ジェスイットです。だから絶対に監視しないでほしい。個人情報が第三者に漏洩するので。

 ローマ教皇フランシスコが日本に来て、イワオ・ハカマーダ(アンチキリストである中世ジャップランド司法の迫害を受けて殉教するはずが、寸止めされてしまった人)含め多くの人に霊感とか少年のケツ掘りたい気持ちとかを与えたように、やはり偉大な霊的指導者の行動には感銘を覚えざるを得ないのであって、ところで領域国民国家(と書いてカルタゴと読む)は滅ぼされなければならない。

 そういう気持ちで、非ユークリッド空間でデルタフォースに囲まれてあなまろ家族と化したバグダディを偲んだら、まあ割と昔のフレンズたちと楽しく飲むことができた。バグダディを偲ぶというのは口実で、普通に昔なじみと会えたのはうれしかったですね。職場では絶対にできない不謹慎トークというか、その臨界点を探る試みがよかった。ところで俺はその場で人々に計7800円を貸しているのですが……。

 あと、久しぶりに俺の前職と同じ苦役をしている後輩に会った。辞めるらしい。自然の摂理だねえ、という感想しかなかった。まあみんなそれぞれ自分の人生をやっていこうという話に尽きる。

 前のエントリでも言及したが高校の同級生とも飲んだ。奴らは普通に気持ち悪いオタクって感じだった。顔面dアニメストアにはなりたくないものです……。ちなみに俺はそいつらから「何かどんどん体毛濃くなって顔もだらしないし性犯罪者一直線みたいな見た目してるよな」とバカにされたわけだが、俺はその見た目のおかげで満員電車で女からちょっと距離を取られるので快適に生きています。ありがとう!

 

〈読書〉

 今月は冊数は多くなかった。難しい本に挑んだので。以下の記述は例によって本を全く見ないで書いているので正確性については期待しないでください。大学のレポートに使える代物ではありません。

 

 H・G・ベック『ビザンツ世界論』(知泉書館)。大学生の時に一回だけ読んだことがあるが、例に漏れず忘れたし通読したわけではなかったので一から読み直した。俺の中のビザンツブームがこの本を手に取らせてくれたわけだが、まあムチャクチャ難しかった。恐らくビザンツレベル80ぐらいの人がようやくこれについて「あーなるほどね、つまりお前はこういうことが言いたいわけね」となる感じの本であり、ビザンツレベル30の俺には歯が立たなかったというのが正直なところだ。ビザンツの捉え方として皇帝教皇主義(つまり皇帝が正統信仰における教義決定権を持っていた)から政治的オルトドクシー(皇帝と教会はむしろ相補的な関係で支配的構造を作り上げていた)という転換の提言は面白いと思ったし、修道制や静寂主義、ボゴミル派パウロ派のような異端やビザンツ人の民間信仰を厚めに叙述して政治史や社会史にとどまらない「ビザンツ人の生きた世界、あるいは世界観」を粗描しているんだろうなとは思ったが、いかんせん一行一行に込められたインプリケーションを理解するのに骨が折れた(というかほとんど理解できなかった)。なので、またレベル上げして戻ってきたいと思います。

 

 ゲオルグ・オストロゴルスキー『ビザンツ帝国史』(恒文社)。言わずと知れた古典。毎朝毎夕電車に揺られながらこのクソデカ本を読んでいたのはいい思い出だ。叙述はわかりやすいが、大事な情報は細大漏らさず書いてあるという意味で、本当にビザンツ研究者になりたい人が手に取るべき珠玉の一冊という感じがある。政治史が叙述の中心なので古めかしいといえば古めかしいが、逆に言えばビザンツ帝国の全体の流れを分かりやすく理解するという意味ではいいのかもしれない(その意味でベックの叙述はテーマ別だったので、ビザンツに不慣れな俺としては混乱が生じた)。ブルガリアセルビアといった東欧との絡みに叙述が割かれているのもいい。テマ制の起源とか今では諸々どうなの?となっている論点もあるが、これが絶版で死ぬほど手に入りにくいというのは文化的喪失であると感じる。いい本です。一生に一度は読むべき。

 

 井上浩一『生き残った帝国 ビザンティン』(講談社)。これは一般書なので、最初に読むべきだったかもしれない。しかし叙述は整理されている印象。所々に「非宗教人である私は~」みたいなアッピルがあるが、人は生きている限り「生存の持続」というとんでもない迷信に囚われているんやで(ニッコロ・ニッコリ)。

 

 井上浩一『ビザンツ帝国』(岩波書店)。こちらは研究書的なスタイルだと思う。オストロゴルスキーによる「防衛のために国家が決めた」というテマの起源説を批判し、テマが国家権力を簒奪する形で生まれてそれを国家が追認したというのは説得力があるように思えた。術語に所々マルクス主義を感じる(叙述は全くそうではないが)。

 

 上野修デカルトホッブズスピノザ』(講談社)。何か文庫本だから簡単なもんなのかなーと思ってページを開いてみたら割と高度な論文がひしめいていてびっくりしちゃったの巻。しかし、たとえばホッブズの社会契約のパラドックス(自然状態を抜け出すために社会契約をするとしても、そもそもその契約の効力を担保する強い力が自然状態にはなく、この契約は無理なのでは?という奴)を、スピノザでは契約当事者である自分以外の「残りの者」(この言葉はホッブズにも出てくる)の強圧性を想像し恐れを抱くことで契約を行い、その恐れを自ら現実化していく……という解釈の示し方は鮮やかだし、ほーなるほどと思った。他にも、スピノザの聖書解釈や神学政治論を言語ゲーム的な観点から読み解いたり(ウィトゲンシュタインの逆輸入という感じだ)、『エチカ』の第一部ならびに第三部のスリリングな読解は今後の参考になる気がした。しかし、やはり難しいので、『エチカ』とか読んでから出直したいですね。はい。

 

 あと、最近興味が出てきて会社法の勉強してます。終わり。

 

〈文化活動〉

 無。マジであんまり何もできなかった。映画も見てないので。漫然と生きていますね。はい。

 

〈よもやま話〉

 新しい職場では温厚で寡黙な人間を演じている。こうやっているうちは俺もギリギリ健常者の崖っぷちに掴まっていられるのだろう。しかし、心が泣いている。今日新聞を読んだら例の新幹線殺傷の公判の記事が載っていて、殺人を「やりきった」とか未遂を「損ねた」、押収されたナイフを見て「もし出所したらまた新しいナイフを買ってやる」とか言っているのを見て正直胸がすく思いがした。やはり、俺はそちら側の人間に強い共感を覚えるし、逆にそうでない人々には興味が持続しない。高校時代の友人に乃木坂46を薦められた話は前のエントリでも触れたが、はっきり言って俺は乃木坂46よりウクライナ21の方が好きなのだ。これは一生治らない気がする。

 

 さて、今月は感情が四分五裂した。某クソッタレにガチギレしてしまって以来、俺は他人を気にしすぎるのだと反省した。もっと向き合わなければいけないのは上述したようなねじれにねじれ曲がった自分の性根なのだ。そこを忘れないようにしたい。

 

 来月で26歳になる。もう引き返せない。残りの人生をどう使うか。真剣に考えて年の瀬を過ごすこととしたい。

 

 

おめめパッチギ部

 前の記事でも言ってたが最近はビザンツにハマっている。なので関連書籍を通勤電車の中で読んでいる。吊り革を左手に掴みながらオストロゴルスキーの『ビザンツ帝国史』(練馬区図書館から相互貸借しています。ありがとうございます)を右手で持ち上げていると筋トレになることもわかってきた。

 

 ビザンツ関連の本を読んでいて思うのは、残虐な身体刑が多すぎるということだ。たとえばユスティニアノス2世は鼻を削がれた(が、その後鼻をつけ直して帝位に復活した。安倍ちゃんも人工胃腸にしたのかな……)。女帝エイレーネーは、息子が生まれた場所で当の息子の両眼を刳り抜いた。この両眼を刳り抜くというのは後々までビザンツ人の推し刑らしく、オストロゴルスキーを読んでいると何例も出会う。

 

 もう言い古されているが、ビザンツ皇帝(あるいは対立皇帝も含んだ皇帝に反旗を翻した高位の実力者たち)は大体暗殺されるか、両眼を刳り抜かれるか、修道院に押し込められているような気がする。殺害は言うまでもないが、後2者は帝位に復帰できないような社会的抹殺を目論んでいるのだろう(と多くの識者も指摘している)。ビザンツ人は国連に先駆けて障害を社会モデルだと思っていたんだね(違う)。実際、風呂場で殺したとか寝込みを襲ったという事例もあれど、大体は両眼を刳り抜く、鼻を削ぐみたいなところに落ち着いていた。最近は手あたり次第ビザンツと名をつくものを記録もとらずに読んでいるのでどの研究者だったか忘れたが、死刑よりマシじゃね?みたいなことを言っている奴もいた。地獄の前戯の如き現世から魂を解き放つご褒美でつが……。

 

 オストロゴルスキーによると、ビザンツにおける残虐な身体切断刑を最初に確認できるのは7世紀、ヘラクレイオスの姪っ子にして後妻のマルティナ(fanzaで100円セールしてそうなエロCG集かな?)とその息子ヘラクロナスに対する処断である(『ビザンツ帝国史』p152)。マルティナは舌を抜かれ、ヘラクロナスは鼻を削がれた。そして上にあげたような事例もある。こうした身体刑について、オストロゴルスキーはユスティニアノス治下で編纂された『ローマ法大全』にはみられず、8世紀のレオン3世下で編纂された慣習法の集成『エクロゲー法典』に刑罰として記載されていることに注目している。オストロゴルスキーも「風俗習慣がオリエントの影響下で粗野になった結果」(同p216)としていて、割といろんな研究者が似たようなことを言っていた気がするが、果たしてどうなのか。

 

 個人的に一番エグいなというか是非紹介しておきたいと思ったエピソードを1つ。マンジケルトの戦いに敗れたロマノス4世が這う這うの体で帰ってきたらコンスタンティノープルでは既に副帝らの陰謀によって廃位が宣言されており、降伏したにもかかわらず「両眼を焼き鏝で焼かれた」そうだ。はんだごてフィギュアキチガイの先駆けである。そして当代随一の知識人にして政治的カメレオンのミカエル・プセロスはロマノス4世にこんな書簡を送った。「神はあなたの両眼を奪われたが、それは、神があなたにはより高貴な光が相応しいと思し召されたからである」(同p445)だそうだ。それ線路に転落した人にも同じこと言えんの? オストロゴルスキーは割とプセロスを褒めているが俺はサイコ野郎以外の感想を持てなくなってしまった。

 

 興味深いのは、ユスティニアノス2世やイサキオス2世のような数少ない例外を除けば、身体刑を受けた人の多くはその後ひっそり歴史から消えてしまうことだ。つまり、安倍ちゃんと違って再登板が厳しかったということで、まさに「当事者が職務を遂行することは不可能であるという烙印を捺された」(同p152)ことになる。ビザンツの帝位が自然的身体の「完全性」に結びついていることは突っ込んだ考察がなされてもいい気がする(逆に宦官のノーチンチンが肉体的な束縛を離れた天使とのアナロジーになっていたという井上浩一の『ビザンツ』での指摘は興味深い)。

 

 こんなしょうもない話を長々と記述したのは、日弁連が死刑の代替刑として終身刑を導入すべきでは?という意見を出したのと、裁判員裁判が始まった新潟の女児殺害で遺族が「極刑になっても許せない」と言っていたのを同時に思い出したからだ。死刑に匹敵する刑罰、超えるような刑罰はありうるのだろうか。個人的には、死刑とは応報主義的刑罰の極北であり、それゆえに他のいかなる刑罰とも比較不能な刑罰であるように感じる。なので、代替もなければ、それを超えるような刑罰もないと思う。だが、それ自体とても現代的な価値観かもしれなくて、ビザンツ人は少なくとも死刑よりもおめめバチ斬りに意味を見出していたようである。廃止か存置かを考える前に、まず日本人が「死刑」に見出す意味を探ること、そのために過去を参照項として呼び出すのは決して無駄なことではないかもしれない。

 

 

 

全てのコンテンツは終わる

 ツイッターとグループラインを見るのを辞めて感情に落ち着きを取り戻す営みを始めた。ブログもちょっとお休みしようかと一時期閉鎖したが、考えてみればブログはただひたすらキモ自我こじらせインセル丸が無限にブツブツ呟くソリロキアスタイルだから閉鎖する必要なくない?と思い再開することにした。

 

 ツイッターもラインも辞めて、友人たちの羨ましい近況とかインターネットの不毛な争いとか二次元の女の画像共有とか諸々見ないとやはりある程度落ち着くことがわかってきた。こうやって考えると如何にSNSに呪われていたことか。ツイッターとかはやはり未来永劫やらないのが正解な気がしてきた。

 

 しかし、それでも生活は普通にしているわけで、土曜に職場出勤して仕事をしたり、日曜は久しぶりに高校の同期3人と酒を飲んでいた。まあみんなそれなりに普通の暮らしをしているようだったので特筆すべきことはなかったと思う。

 

 いや、ひとつあった。きったねえデブ(なお俺も同族)のアイドルオタクの同級生がいて、そいつは高校の頃からAKBが好きすぎていた。ちなみに脱線するが、AKBオタみたいなのは同級生に結構いて、しかも医学部進学のための特待コースの連中が多く、そいつらだけが使える勉強用の教室でAKBのDVDとか見て怒られたりしていた。握手会とか総選挙のためにCDを買いまくる行いに対して、今も昔もニヒル気取りの俺はバカだなこいつらとしか思わなかった。

 

 ともかく、そんなオタクの中で横山由依単推しだったそのデブが、最近というかだいぶ前に乃木坂46に鞍替えしたと聞いてメチャクチャ驚いたのである。以下、その時の会話である。

 

 俺「エーッ、昔乃木坂ができた時は断然AKBの側に立って唾吐いてた側ですよね? 顔面以外アバズレとか言ってたやんけ!」

 デブ「いやそうなんだけどさ……人の好みって変わるじゃん?」

 俺「誰推し?」

 デブ「箱推し!でも強いて言うならあしゅとか与田かな……」 

 俺「齋藤飛鳥与田祐希?お前マウスコンピューターのCMから入ったんか?」

 友人A「何でお前詳しいねんwお前が三次元の女に関心持ってるのキモすぎるわw」

 俺「いやまあ前職で知り合った人がファンやってん話合わせるために多少は知識拾ってんのよ……いやしかし何故乃木坂?」

 デブ「何かグループの雰囲気が和気藹々としてて、SHOWROOMとかでの絡みとか見てて微笑ましくて俺パパになってるような気分に……(ここから先は愚論を並べ立てているだけだったので割愛)」

 

 まあ、本当に気持ち悪い会話をしていた。周りの客には申し訳ないと思っている。まだバビヤールの虐殺の話とかしてた方がよかったね。

 

 それで、帰りの電車の中でYoutubeで乃木坂の動画を見させられた。最近は二次元の女画像ですら出来る限り避けている俺が、三次元の女の絡みを見せられても当然「ウェ」としか思わないわけだが、そのデブはとても楽しそうにしていた。が、動画が終わった後に一転して悲しそうな表情で「アイドルオタクはいつか迎える『終わり』に怯えながら生きてるという意味で、他の人間と比べて人生の重さが違う」とか言っててやっぱこいつ殺した方がいいなと思ったわけだが。

 

 別にアイドルに限らず、どんなコンテンツも終わりが来る。この当たり前のことが極度に早いサイクルで行われているのがアイドルなだけでは???と思うわけだが、かといって「終わり」に備えられる人間というのは存外少ないのではないか。頭では理解しても受け入れられない、受け入れたくないという気持ちがあるというのは一定程度わかる。しかしアイドルだって人間だし、辞めたいと思うこともあれば自由に生きたいという気持ちもあるわけで、それをオタクの感情を慮って続けさせるのは人道的にどうなのというリベラルな感想が頭の中をよぎる。今の議論には全てのコンテンツが代入可能だ。そういう意味で、過ぎた感情で傷つくのはいやだなーと思った次第である。

 

 しかし、他人がドン引くレベルでコンテンツに対して「好き」を覚えた経験を最近しただろうか。多分してないし、今後もしない気がする。人生の砂漠化はとっくの昔に始まっているし、もはや止める術はないのだ。まとまりのない独白をこれ以上続けても詮ないことなので、不定期に適当に更新しますと約束だけして今回はここで終わりにする。

 

 

 

 

 

 

飢餓感と劣等感

 もうそろそろ寝る時間だ。今日は本当に時間を無駄にしたなと思う。せめてもの償いということで、ささっとお気持ちエントリを書いておく。ちょうどそんな気持ちになったので。

 

 さっきまであることに怒っていた。怒っているといえば、先週土曜日から別件で割と怒っていた。直近の怒りはその他者の愚かさに対して、土曜日の怒りは自身がないがしろにされていると感じたからだ。詳細は重要ではない。重要なのはその経験によって惹起された俺の感情なので。

 

 仕事を辞めて、それなりに楽な仕事について精神的にも肉体的にも楽になったし、東京に帰ったことで昔からの友人との付き合いも増えて楽しいことが増えた。求めていたことがそれなりに手に入ったのに、何故か最近カリカリしているように思う。

 

 これは仕事以外のことに理由があるのではないか。そう考えて思い当たるのは大学時代からの自らの行状だ。

 

 俺は常に劣等感を抱えて生きている。まあそんなこと反省するまでもなく、このブログを見れば一目瞭然なのだが。劣等感については多言を要しないが、”””俺”””の劣等感については一言云々しておくべきだろう。やはり大学時代にいろいろ勉強ができる人との交流していた時にも少なからずあったし、仕事している時に俺がくすぶっている間に友人たちがどんどん新しい趣味や人生の局面を切り開いている時にも感じていた。そういうことを俺はあまり隠さずにいた。隠さないで俺は「あなたより下にいますよ」とアピールすることで、同時に自分を守っていたのではないか。そもそも勝負などとうについているという体で勝負そのものを避けてきて、いたずらに劣等感は肥大していった。本当は彼我の差なんてものあるかどうかもわからない。学問を例にとれば、俺はある分野に詳しくて、向こうが詳しくない。人間である以上逆もあるし、定量的にどうこう言えるような話ではない。にもかかわらず、俺は他人の方が詳しいと思うと劣等感を表明し、負け戦を戦わずに負けを認める。こうした人間の行き着く先がこのクソブログだと思うと泣けてきますわね。

 

 しかし、これは取り立てて特別な感情ではない。その抱え方に問題があった。それは常にある種の「飢餓感」と結合していたからだ。飢餓感とは、心理学的に言うところの「承認欲求」的な要素もあるが、完全には一致しない。それは「認められる」という他者承認を契機とするよりも、俺が自分であるべきだと思う位置(ここが厄介なのだが、この位置関係において他者が絶妙に関与する)に収まっているべきという自己承認的な要素が強いからだ。そう言い繕ってはみるものの、その自己承認の前提には、そもそも他者が俺のことをそれなりに扱うべきだという「他者承認」の厳然たるプロセスがあることも認めなくてはいけない(飢餓感というワーディングチョイス自体が、俺は承認欲求なんて持っていないという一種の自己欺瞞的な隘路に陥っている気がする)。だが、あくまで俺にとって大事なのは、他人にどう認められているかよりも、自分がどの位置にいるかなので、あくまで自己承認の範疇ではないかと押し通す。じゃないと「俺は承認欲求あんまり感じなかったな」とか言っていた大学時代の自分が恥ずかしくなるので。

 

 さて、劣等感と飢餓感が結合すると何が起こるのか。俺は「他者」より劣等であるのに、その「他者」が自分を顧慮しない、よって自分があるべき位置を占めていないという、一見するとそりゃそうだろという状況に対して非常にムカムカすることがある。俺は負け犬であることに慣れ過ぎてしまった一方で、負け犬のくせになまじっか他者からいいように思われたいという気持ちが矛盾を起こしたまま同居し、自分で自分を追い込みすぎていた。大学時代は余裕もあったから何かそれを適当に笑ってごまかしていたが、社会人になって地獄を見て、そして負け犬根性がもはや取り返しのつかない負け犬となってしまったこと、やはりそれにイライラしているのであろう。

 

 解決策は限られている。もはや一切、少なくともネット上のあれやこれやを見ることをやめるべきなのだろう。今必要なのは自己に向き合うことである。幸い、俺はねじれにねじれまくった(という自己演出に事欠かない)単純な人間なので、自己分析に飽きることはないはずだ。腰も痛くなったので擱筆とします。

 

 

 

10月を振り返る

 本当に1か月に1回ぐらいの更新頻度で、しかもそれが振り返り記事だと流石にブログに対する向き合い方としてよくないというか、まあ諸々反省している。11月からはちょっとだけ頑張ろうと思います。目標は5本。いや3本。3本にしよう。今月は労働馴致期間だったということで許してちょ(キモ過ぎて女子が憤死する男が使う語尾4位)。

 〈苦役〉

 やあ、ついに始まりました。10月から新しい職場ですよ。まあ、職場に対する判断は3か月経ってからと思っている。それほどまでの判断を猶予できるというのは、ヤバすぎて1日で辞めるとかそういう次元の会社ではないということだ。何かそういう人もいるらしいですね、こわっ。

 ぶっちゃけて言うと、個人的にはまあまあいい会社を引き当てたなと思っている。事務仕事が主だが、割と総合職的な裁量もあるみたいで、頑張りどころも所々あるみたいだ。給料も思ってたより高かった(しかし普通に同世代と比べるとやや低いだろうが、昭和生まれのおじさん曰く事務仕事は女の仕事なので仕方ないね)。上司や先輩も優しい(と思う。壁があるのは、多分俺も黙々と仕事をしているし、向こうは向こうでこいつヤベェと思う理由があるのかもしれない。思い当たる節がないわけではない)。何より定時帰りができる。これはうれしい。前の仕事ではお天道様は天照大御神よろしく引っ込みニュクスが「やあ、そろそろ僕も寝ようかな」と言うようなクレイジーな時間帯に帰っていたので、ビルを出た途端に日の光が眩しすぎて完全にとなりの吸血鬼さんになってしまった。

 てなわけで、前職と比べればほとんどのことがマシだ。唯一不満なのは、職場で面白不謹慎ジョークを絶対に喋れないということ。前職では「Yo 俺は野蛮な白人 お前のヘッズごと殺戮 するためにぶち込むガス室 様子はさながらアウシュヴィッツ」という謎ライムをブツブツ呟いたり、クソ案件が降ってきたら普通に「ファックすぎますやんけ!」「何だこのクソ野郎マジで登記とって住所特定して車突っ込ますぞ」とか言っていたので。まあでも定時帰りできるなら、全然トレードオフ可能な不満ですけどね。

 前職でも俺は孤立していて、研修期間中はほぼ一人で昼飯を食うとかいう「汚泥まみれの孤立」をやらかしていたわけだが、見事前例を踏襲しました。コンサバお嬢様かな?今日同時期に入社した同期と昼休みたまたまトイレの前で鉢合わせして「生きてるってみんな心配してたよ~」って言われた。たよりがないのは元気な証拠っていうグランマ・ファッキン・ウィズダムをご存じない世代のようだ。ちなみに同期と話したのは13日ぶり?ぐらいです。

 まあ孤立を勝ち得た(としておこう。ハブられてるわけじゃないと信じているので)昼休みは大体読書している。これは大きな変化だが、通勤と帰り、昼休みは大体本を読んでいる。1日3時間も読書にあてている期間が1か月ぐらい続いているのは割と進歩かもしれない。うれしい変化である。加えて定時で帰っているので夜も時間があるし、スカイリムに飽きると本を読む。

 ただ、やはり行き帰りの満員電車と、慣れない職場での気疲れ(それは上述の不謹慎話ができないことが大きい)もあってか、一息つこうと思ってパソコンから離れてベッドに寝転がるとその瞬間寝落ちする。そして午前4時とか5時に起きるという独居老人プレイをかましてしまう。多分このまま両親も死に、俺も一人で死んで、布団にでっけえ消えねえシミを残して腐臭を漂わせながら、たまりにたまった朝日新聞を不審に思った近所の有象無象に「案件」として通報されるという死にざまを迎えるのだろう。バグダディの方が100倍マシやんけ。

 

 〈社交・レジャー〉

 今月はそんなに飲み会行かなかった。多分2回、ないし3回ぐらいである。うち1回は職場の歓迎会、2回はよく考えたら同じ人だわ。1人でもほとんど飲みに行ってない。飯もだいたい家で食べている。こう書くと何か一気につまらない人生になってしまったっぽいな。まあそもそもお金がないので自由度は高くないのですが……。

 たまに行くようになったのがサウナだ。ツイッターで後輩がよく行って気持ちよくなっているし、俺も地方勤務してた頃はスーパー銭湯に週1で行ってたのでどれ東京のサウナはどんなもんじゃいと思い、池袋のスパレスタや水道橋のスパラクーアに訪れるようになったが、これが割といい。レスタは水風呂がすごく、蒸されてコミンテルンみたく真っ赤っ赤になってからあのデケェ水風呂に入ると瞬間でてっぺんからつまさきが冷やされ、肉体が天国と地獄を中国人卓球のラリーの如く高速で行き来する。経済学者に必要なのは冷たい頭脳とあったかい肉体ができあがり、外気浴で落ち着いて繰り返す。最高のセットができる。ラクーアはサウナの種類が多いし、温泉も気持ちいい。あそこの温泉に行ってから痛かった腰がちょっとよくなった気がする。サウナは今後も開拓していきたいと思っている。

 〈読書〉

 上述の通り、割と読書はしたと思う。読んだ本を思い出せる限りで言うと、7冊ぐらいだろうか。

 

 ポール・カートリッジ『古代ギリシア人』(白水社)。よかった。古代ギリシア人の自己認識を、対立図式(市民と奴隷、自国民と外国人、男と女など……)の中で一方を優位付けるために他方をとことん貶める「階層的二項対立」と位置づけ、そのためにヘロドトスやトゥキュディデス、クセノポンなど主に歴史書(と若干アリストテレスプラトン)を繙き、鮮やかに紹介していく感じ。

 一般書っぽいが、史料の読み方も面白いと思った。ヘロドトスが残しているキチガイよもやま話は割と面白いが、そのヘロドトスがどういう意図でもって歴史叙述をしていたかというのを、ヴィダル=ナケ(もしかしたらアルトーグだったかも)の研究に添って〈鏡〉のメタファーとしたのはなるほどと思った。要は、異常面白話でもそれを書き留めていたのは、現実のギリシアの読者に批判的な意図を伝えるためだとかなんとか(上旬に読んだので結構忘れている)。普通にヘロドトスとかトゥキュディデス、あるいは古代ギリシアのヒストリオグラフィーに興味のある向きはオヌヌメ

 

 桑原俊介『シュライアマハーの解釈学』(お茶の水書房)。面白かった。シュライアマハーの一般解釈学を、「霊感によって作者が行けなかったところまで行くんや」とか「作者を理解できるのは同じレベルの天才だけや」と理解する「ロマン主義的解釈学」像(ディルタイ=ガダマーに由来)を退け、シュライアマハーがあくまで技術的な解釈学を構想していたことを、シュライアマハー以前の解釈学者(クラデニウスとかマイアーとかそのあたり)や同時代の研究(古典学や聖書の歴史的研究)の視野に位置づけつつ論証していく「概念史」的な本だった。概念史って言われてもようわからんよっていう人にはこの本を投げつければいいのだろうね。麻生健『解釈学』がこの分野のスタンダードだと思うが、それより先に行きたい人向けという感じか。

 

 若松英輔『本を読めなくなった人のための読書論』(亜紀書房)。何かたまに本とかどうでもいいわどうせ死ぬんやからねって思うことがあって、読書しない時期が続くのは大学生の頃からあったけど、この本の著者は別に無理して読まなくてええんやでということを優しく言ってくれる。確かに無理して冊数をこなすとか、難しい本に体当たりするとか、必要な時があるとは思うが、たいがいの人間は別にそんな肩ひじ張る必要はない。学術をやるサークルにいたせいか俺も変な強迫観念がこびりついているところがあって、そういう状態の人間は本書を読むといいかもしれない。

 一節の優れた文との出会いを「待つ」こととか、どうしても読めない時はむしろ「書く」べきだとか、割と示唆に富んだ指摘が随所にあると思う。読後感はヤノーホの『カフカとの対話』に近いかもしれない。そういえばカフカもヤノーホに「書くべきことだけを書け」と言ったり、ゲーテも成功にはやるエッカーマンに似たようなことを言っていた(と思う。昔は割と正確に記憶から引用できたが今は無理です。また読み直す機会を与えてもらったと神に感謝したい)。人間は年下にイキリがち、というだけではない一片の真理みたいなものがあるのかもしれない。

 

 ハインツ・ハイムゼート『近代哲学の精神』(法政大学出版)。ハイムゼートナチ野郎有名なカントの研究者で、『純粋理性批判』の超越論的弁証論注釈(4巻)とか書いた人です。ヴィンデルバント哲学史の教科書を補訂し、今もなお読み継がれるに値するものにしたことも知られている。

 そのハイムゼート戦間期(?)ぐらいに書いたのが本書で、近代哲学がどう古代や中世の伝統と連続しているか、あるいはしていないのかを問題史的、つまりテーマごと(たとえば神と世界、有限と無限、魂と外的世界、静態的な存在概念と動的な生動性ないし連続性の概念みたいな)に明らかにした本。題名を裏切り、叙述は割と古代・中世に寄っていて、ハイムゼートはその中でもエックハルトとクザーヌスの先見性みたいなのをつとに指摘している。序文でも言っているが、哲学史っつーのは古代中世といったらルネサンスで人間解放されてそれがデカルト以来の近代哲学を用意したって説明ばっかりだけど、イタ公のルネサンスよりドイツの果たした役割の方が大きいやろという哲学史お国自慢みたいな感じだ。

 そこらへんはまあ時代だねという感じではあるが、普通に基本的な概念を整理するという意味ではメチャクチャお役立ちな本だった。ライプニッツの勉強会をしている時、ライプニッツが依拠しているであろう哲学の伝統がよくわからなかったのだが、この本では個体概念や連続性について割と理路を追って説明してくれていて、その点からもよかった。ただいかんせん難しい(翻訳が悪いというより、クソデカいおにぎりを握りまくってちっちゃく込めたみたいなレベルの文章が延々続く感じ)。一読したが、普通にあと2回は読まなきゃ無理なのではという感じ。同著者の『近代の形而上学』にも挑みましたが、これは翻訳もどうなのって感じで100頁ぐらいで挫折しました。また会いましょうね。

 

 國分功一郎原子力時代における哲学』(晶文社)。2013年の講演をまとめた本。著者はもちろん反原発派。とはいえ、子どもの甲状腺がんがーとか、福島の野菜なんか死んでも食べないとか、原発村の連中は、みたいな反原発クリシェで埋まっているわけではなく、著者の反原発を支えるロジックは「普通に核のゴミとかヤバいし、絶対いらんでしょ」という感じ。ただそこでとどまるのではなく、もっとこの原子力という問題を哲学的に考えてみましょうよっていうのが本書の意図だ。

 参照項は、1950年代という圧倒的に早い時期から「核の平和利用」(著者はこの言葉を欺瞞的な用法だと絶えず主張する。俺もそれはわからないでもないが、ちょっと消化不良感がある)に警鐘を鳴らしていたハイデッガーが特権的に多くのページを割かれており(というか半分ぐらいはハイデッガー読解である)、アーレントやアンダースなどの哲学に目配せしつつ、最後は中沢新一の文明論や斉藤環精神分析お茶を濁すという感じ。

 うろ覚えだが、脱原発に向けての政治的な活動は「原発は絶対ダメ」と言うだけでいいが、それはクリシェに陥って思考を欠如させることにもなる。だからこそ哲学的に、原子力を考えなくてはいけないという問題意識そのものには共感するし、その手がかりとなっているハイデッガー解釈はまあまあ面白いと思う。

 『放下(Gelassenheit)』という単行本として出版されたテクスト(前半は音楽家のための記念講演だがハイデッガーは音楽家のための話を全くせず技術論を展開する。後半は『野の道の会話』の対話の3分の1を採録している)などを読み解き、原子力時代における「思考の欠如」を指摘し、そして必要な思考とは何かを志向する形ではなく、「待ち(期待ではない)」「受け入れる」ことでしかありえないと析出している。これについてはなるほどなと思った。ブラック・ラグーンにかぶれていたので、高校生の時にハイデッガーを読むということをしていて『放下』もその時読んだが何が何だかさっぱりだった。今回そのさっぱり感が少しだけ「はあこういうことを言おうとしてたのかね」と納得感に変わった気がする。

 ただ、正直最後の方は個人的には全く賛同できなかった。原子力発電は初めて太陽を媒介しないエネルギー(これは中沢が『日本の大転換』で言っているらしいが、火力は100歩譲って水力発電はどうなのという某友人の指摘は全くそうだなと思う。水も太陽を媒介していると考えるんですか?)で、その無媒介性が、自立自足して生きたいという原発推進派のナルシシズムの現われではないかという。謎文明論と精神分析のごった煮がいいのかは措いておくとして、原発推進派といわれる人々の言説を具体的にもっと分析するなどの「傍証」が欲しかった気がする。いきなりそんなこと言われてもなあという唐突感があった。本書は著者も出すことを迷っていたそうで、もうちょっと時間かけていろいろ論点を補強するなどがあってもよかったと思うが……。

 一応、個人的には原発なしで将来的にも電力が賄えるのであれば、原発はなくてもいいと思っている。高浜のあのヤベェフィクサー気取りジジイの報道を見て、原発なんて最初から碌なもんじゃなかったとも思うようになった(調べればわかるが、柏崎刈羽とかもその創設期はあの手の山師、森山とか籠池とか山根会長みたいな連中が跋扈している)。それに、結局のところ日本の「核の平和利用」が裏面で安全保障とつながっているのは明々白々なので、そのためにこの災害大国に原発を置いておくのも割に合わないと思う。もし仮に原発をそれでもとどめおきたいというなら、それはやはり核武装という見果てぬロマン(悪夢と呼ぶ人もいるだろう)があることは念頭に置くべきではないのか。ちなみにこのブログは海で一番自由なブログなので、原発推進派も反原発派も核武装論者も核廃絶論者も等しく同じ人間として扱っていきたい。

 

 井上浩一『ビザンツ 文明の継承と変容』(京都大学出版会)。最近ビザンツがアツい。理由は後述するが、とにかく最近はビザンツものを読んでいる。

 トインビーの文明論を改変しつつ借用して「ビザンツ文明」なるものを分析の基礎概念とし、古代ローマキリスト教との連続性、そしてビザンツの独自性(即ち非連続性)を都市・皇帝・宦官・戦争というトピックから明らかにしていこうという本。やはりビザンツ学の大ベテランが書いた本なので滅法面白いというか、史料の博捜ぶりが半端ない。久しぶりに歴史書を読んだが、ページが止まらない感覚があった。

 都市においては、アテナイ以来の民主政が階級格差の拡大や異民族の侵入など様々な要因で腐り果て、「パンとサーカス」(今で言ったらエロ絵師のシコい絵とFGOか?)を求める組織されざる大衆の個人主義が台頭する。そこに伝統主義と権威主義が重なり、都市の自治を明け渡してビザンツの皇帝専制が始まる(だから、ビザンツにとっては東方の専制などの方が近親的であった。ビザンツ年代記天地開闢から記されているが、アテナイの民主政や共和政ローマは無視されるかサラッと流され、アレクサンドロスに至るという。ウェイバー君かよ)。

 その皇帝専制は神の代理者としての権威を儀式的に演出し、かつ「パンとサーカス」を提供し続けることで人々を喜んで「皇帝の奴隷」にした。その専制を支えたのは、キリスト教の理念であり、正教の布教によってビザンツは影響力を不断に東方へと拡大していった。その専制を支えたのは高度な統治機構で、とりわけ宦官は、家族を持てないがために、その忠誠心を皇帝に向けるという意味でも重宝され、ローマ的な伝統の強い西欧では東方の因習だと憎悪されたが、一方キリスト教では宦官を広く認める余地があり、その点キリスト教的な性格を色濃く受け継いだビザンツにこそ居場所があった。戦争では、西欧はアウグスティヌス以来の「正戦」から十字軍に至る「聖戦」、イスラームも「ジハード」で強力に拡大したが、ビザンツは「厭戦」あるいは「防衛戦争」のみを是とする観念から、ゲリラ戦の展開や友好的な捕虜交換制度を促進していった。

 このようにビザンツの特徴を古代ローマキリスト教の理念と詳しく比較しているのでイメージが掴みやすく、なおかつ文章もこなれていて読みやすかった。オススメです。

 

 そして今途中まで読んでいるのがジュディス・ヘリン『ビザンツ 驚くべき中世帝国』(白水社)。上述の井上先生が訳の監修をされている。井上ビザンツとの違いは、叙述のジェンダーバランスに配慮がある点や、美術史にも割とページを割いているところだろうか。こちらはどちらかというとテーマ別にいろいろ書いているので井上先生の本ほどまとまりはなく、トピック的ではあるが、それでもギリシアの火や「緋色室の生まれ」などビザンツの面白い部分をそれなりに拾った上で、ビザンツの対外政策や皇統の発展というような大きな話につなげてくれるので、まあ読ませる本というところ。

 

 読書についてはこのような感じです。今、本も見ずに記憶だけで書いている(何故なら大体図書館で借りた本なので)。そのため、誤りもあると思うし、記憶が微妙なところもある。やはり記録をとらないと忘れてしまうのだけど、最近は何かそれでもいいかなと思うようになってきた。もし本当に思い出したいのであればもう一回読むかという感じ。研究者とかだとそれでは絶対ダメなんだろうけど、研究者ではないし、人生は死ぬまでの暇潰しでしかないので、それでいいのかなと。変な余裕が出てきてしまった。来月はちょっと小説とか古典も少しずつかじりたいですね。今はビザンツ熱がアツいけど。

 

 〈その他の文化活動〉

 読書が長くなり過ぎたので別項にしました。映画。実は1本しか見ることができなかった。理由は腰痛である。10月の中旬あたりから立っているのも座っているのもできなくなるという人間失格みたいなダメージが襲ってきた。経験則で、だいたい1週間か2週間我慢してりゃ何とかなるだろと思っていたが、仕事がずっと座っているためか、ひどくなるばかりだった。そこで土日は静養する、温泉に行くなどの対策をとり、今やっと多少座れるぐらいになってきたところだ。なので、映画はほとんど見られなかった。

 

 見た映画は『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』。セルジオ・レオーネの名作ですね。新宿ピカデリーで見ました。ハーモニカふいてる異常者が子どもを殺すサイコ野郎を殺す話、とまとめるとマジでつまらない感じがするが、中身は真っ当な西部劇というか、「西部」そのものを描いた映画だと思う。陰影に突然光や人を登場させてビックリさせる感じとか、劇伴音楽の完璧なタイミングとか、映像そのもので語るべきところが結構あると思うが(俺にはそれをうまいこと言語化する能力がない)、個人的にはRDRとかブラッド・メリディアンが大好きな人間なので、フィクションとしての西部に決定的な影響を与えた重要な水脈だなと感じました。おっきいスクリーンで見る価値のある映画ですね。

 

 本当は他に見たい映画がたくさんあった。一応備忘的に書いておく。『ジョーカー』『ガリーボーイ』『ホテル・ムンバイ』『HELLO WORLD』。書いた順に見たかった。『ジョーカー』は来月もやってたら真剣に見たいですね。

 

 他の文化活動といえば、大学の公開講座に出た。慶應の言語文化研究所の「ビザンツの文化的伝統の形成」と題したものだ。最後の講義は腰が痛くて出られなかったが、リバニオス書簡集という古代後期の重要テクストを訳された田中創先生、『帝国と慈善』や『ヨーロッパ』で今時稀有な文明論を云々できる大月康弘先生の講義には出た。2人とも歴史学者なので、史料を面白がって読んでいる人ってこういう語り方をするんだなという率直な感動があったので、たまには本だけでなく耳学問もしてみるもんだなと思った次第。田中先生の講座はカルケドン公会議における司教座の椅子取りライアーゲームに見る初期ビザンツ社会の様相(いわゆるエヴェルジェティズムをキリスト教化と見るブラウンの解釈には慎重なようだった)が面白く伝わってきたし、大月先生のはビザンツの世界認識であったり、ビザンツを中心とした国際秩序の構造を理念的な部分まで掘り下げてお話いただいたと思う。前者がガッツリ史料の分析で、後者が若干概説的という意味でメリハリもあったのではないか。今度からもこういう興味のある講座は出てみたいと思う。

 

 〈よもやま話〉

 先月、スイッチを買ったという話をしました。あれは嘘です。じゃないです本当です。と、その存在を疑うレベルでスイッチに触れてない。何故かというと、最近またスカイリムをやり始めたからです。

 

 経緯をざっくり説明すると、「FEの主人公かっこいいなー、黒騎士っぽいなー⇒こういうキャラクターを自分で動かせたら面白いんだろうなあ⇒スカイリムでMOD入れればできるんじゃね?」と思ってスカイリムをやったらまあ沼から抜け出せなくなったよねという話。ここからはこのブログの読者に一切興味のない話を展開していくが、俺は輪入道と一緒で行けるところまで行くタイプの奇人だ。まあ、その時自分が何をどう感じたのかを書くのは大切よね。

 

 スカイリム、6月にもやってはいたのだが、原因不明(多分MODの入れすぎというか、オーバーロードの魔法を再現するみたいなMODを入れてからおかしくなった気がする)のDドライブの消失でSE版が消えてなくなり、Cドライブの方でLE版を入れていたのだが、CTDが頻発するので放置していた。多分テクスチャがcorruptしていたのだろうなと思い、fixするMODを入れたら直ったので、やるしかないと思った。しかし意外にスカイリムに黒騎士っぽいかっこいい黒アーマーMODがなく(おまんこ向けのエチエチ衣装MODはたくさんあるのに!!!)、SAOのキリトの衣装を再現するMODも何かスカイリムのごついキャラクターには合わない。仕方ないので隠者風のローブに近い衣装MODを導入し、おおこれよこれと思いながら適当に追加魔法MODとかダンジョンMODで遊んでいたら大体一か月ぶっ通しで遊ぶ羽目になった。メインクエストとかDLCのクエストは大体やったのかな。セラーナさん(となりの吸血鬼さんみたいなキャラ)を美化するMODとか入れて連れ回したり、20秒に1回は敵がランダムにエンカウントするMODを入れて無限に戦闘してたらまあ飽きることがない。今日もこのブログ書いたらやるつもりですよぼかぁ。

 

 本当はゴーストリコンワイルドランズとか、コールオブデューティーとかやりたいゲームがないわけではない。しかし、今はあまりお金がないので我慢しているという状況だ。いやそもそもファイアーエムブレムやれよって話ですが……。

 

 さて、こうやってシコシコと書きつつ己の行状を振り返っていたら、10月はまあ割と充実しているのではないかという結論に至った。やはり仕事を変えたのはデカい。東京に帰ってきたがゆえに、それなりに文化的活動にアクセス可能になったし、余暇が増えて読書する時間も得られた。実家の飯はなんだかんだうまい。そして仕事場で上司に詰められたり、先輩が後輩を怒鳴っているのを見ることもない。頭のおかしい取引先と殺し合いみたいなことをしなくてもいい。何だこれは。俺はもう死んじゃったのかな。

 

 だが、かのソロンの言うように、人生は終わりまでわからない。先に職場のことを褒めそやしたが、それはまだ俺が「お客さん」に過ぎないことの証拠だ。そこの「一員」になって初めてわかる苦労があるし、俺はそれを先輩たちから観察し、自らの運命に備えなければならない。それに、この世界を天国だと錯覚するほど愚かな行為はない。現世は堕落に満ちている。男女は未だに生殖している。来たるべき終末のために、自らの身を律していく。そして、異常労働を今なお送り続けている後輩たちに顔向けできるように、俺は少なくとも職場では異常者で居続けたい。ヨルシカの「だから僕は音楽を辞めた」が永遠に刺さり続ける、ガキの心を持った大人でありたい。小骨のようにとれない痛みを抱えたまま、もうすぐ26になろうとしている。

 

 

9月を振り返る

 例の如く振り返り記事です。しかし今月はマジで更新しなかった。更新しなかったのでリアルの友人から「更新してませんね」とか言われたが、俺は好きにやるんや。

 

 〈就職活動〉

 もちろん何もしてねえ。一応、10月から働く職場の内定者説明会に出て、初任給やら配属先が明らかになった。初任給はもちろん前の職場よりは大幅ダウンだ。しかし、人権はお金にかえられない。これだけはみんな覚えておいてほしい。

 配属先はまあ割と忙しそうな部署だが、それでも100時間残業とかしないらしい。それで立派な海兵になれるのか?いやまあ別に海兵になる必要はないのですが……。

 新しい職場への不安はただ1つ。人間関係大丈夫かなというものだ。まあ前職でもそれなりの仲の同期とか後輩はいたから何とかやれそうな気もするが、前の職場は狂っている人間が多かったと思うので、変な意味でウマがあったと考えれば新しい職場でうまくいくかと即断はできまい。職場の椅子に画びょうとかしかけられたりしないかな、女子から陰口叩かれないかなとか、マジで小学校のクラス替えレベルの心配しかしていない。精神年齢が低いので。とはいえ、それ以外のことを心配したってしょうがない。職業に関する根本的な問題というのはやってみなきゃわからないのだ。

 

 〈社交・レジャー〉

 今月は割と遊んだと思う。ほぼ毎日酒を飲んだし、旅行も2か所いった。都道府県HとKでした。どっちも友人のあたたかいもてなしと最高の海に癒された。クセノポンの『アナバシス』で終盤、傭兵諸氏が逃避行の果てに海を見て「タラッサ!タラッサ!」と叫んだ気持ちがよくわかる。定期的に海を見に行くのはやりたいところですね。東京でも臨海公園いけばいいのですが……。

 昔なじみの友人とも会う機会があり、よかった。みんな普通に社会やってる奴もいれば、頑張って研究している奴とか、まあいろいろだ。生きていりゃそれでええ。死んだら葬式しかねえ。

 印象に残った出来事だけ記しておく。3年ぶりぐらいに集まった昔なじみの人たちが、熱心に「この年で付き合うなら結婚を考えるべきなのか」とか「普通に結婚して落ち着きたい」とか人間関係の極致の話でワイワイしていて、それをどこか遠い目で眺めていた。普段集まる精神異常者とか発達障害者とか社畜とかの知るかバカうどん的なタッチで描かれるゴミクズどものグループセラピーではそんなアカルイミライの話などしたことがなかったからだ。まさに異文化間コミュニケーションという感じなのだが、しかしそれはそれでよかった。もう俺も20も後半になって他人の生きざまについてどうこう言いたくない。何かみっともないし、アホみたいだからだ。生殖は悪であるとか、男と女は殺し合いをすべきだとか、俺には言う権利があるのだけど、それを行使するほど若くなくなった気がする。ただそれだけのことだが。

 

 〈文化〉

 今月はまあ遊び中心だったので、文化は控えめ。漫然と新書とか研究書を暇潰しというか、酒の酔い覚ましに読み流していた。明日使えるムダ知識というか、こういう面白いインプリケーションがあるんだねえと思ったが、何かどうにも琴線に触れねえなあと思って記録せずにそのまま過ごしてたら見事に忘れましたね。酉年だから。

 

 よかったこともある。ライプニッツモナドジー』読書会をを無事終了した。この読書会は今後も続いていくので、このために頑張らなきゃという目標ができた。人は外部から刺激を与えられないとやらないので。

 

 映画は今月は割と見た。『ONE PIECE STAMPEDE』2回目。やっぱ最高でしたね。感想は書いたので、まあ好きなところを箇条書きで書くと、

 

 ・オープニングでアニオリ回のマイナーキャラとか空島のコニスとかはっちゃんとか見つけられた(こういうのが2回目を見る醍醐味って感じだろう)

 ・ルッチの嵐脚“凱鳥”が見られた(飛ぶ斬撃蹴りバージョンってかっこいい)

 ・ダグラス・バレットの絶対的な強さ(そういえば今週のワンピースで四皇が軒並み40億越え賞金首であることが発覚したが、バレットは多分シャンクス以上白ひげ未満ぐらいはあるだろうなと勝手に妄想した)

 ・ウソップがマジでいい味出している(余談だが、ウソップが活躍する回は大体面白い。ウォーターセブン編でフランキー一家にしめられた時とか、アラバスタのMr.4戦とかでウソップが仲間のために泣くシーンとうまい具合に重なってきて、ファンの感動を誘導する。こういうケーキのクリームを重層的に塗るような演出がワンピースはとてもうまい)

 ・ローがハンコックのこと「女帝屋」って呼ぶところ

 

 などなどである。先週、今週と連載の方でも大きな進展を見せているワンピースに今後も注目したい。23区最下層マイルドヤンキーなので。

 

 他に見たのはジョージア映画(ポリティカルコレクトネス)の『聖なる泉の少女』、『サタンタンゴ』、『今さら言えない小さな秘密』の3本です。聖なる泉の少女はポエジーって感じで、サタンタンゴはクソ長すぎて腰が死んだけど優れた終末と解放の紙一重感を味わえる傑作、今さら言えない小さな秘密はほっこりする佳作という感じでしたね。いや割と見たな、自分でもびっくりしている。

 というのも、前職はブラック企業かつ客対応のしんどい職場だったので、休日でも何か案件対応が生じれば平然と電話がかかってきて、まず映画を観るのが怖かった。実際、映画の途中で3回ぐらい連続で電話かけられて見損ねた映画は多い(『ペンギン・ハイウェイ』など)。なので途中から映画なんか死んでも観るかという気持ちがあって遠ざかっていたのだが、改めてそういう必要性がなくなると映画は面白いなと素直に思えましたね。まる。

 

 〈よもやま話〉

 そういえばスイッチライトを買いました。ソフトはファイアーエムブレムの新作。ですがやっていません。何故なら買って満足したので。

 物事にはそういうことが結構ある。あれ買おうかなこれ買おうかなとずーっと悩んでいたものを買ってしまえばその事実に満足して肝心要の買って何がしたいんだっけ?を忘れてしまうというアレ。皆さんもやったことあるでしょう。ファイアーエムブレムはやりたいし、何ならドラえもんのび太牧場物語もさっきAmazonで注文したのだが、さてやるのはいつになることやら……。

 このスイッチライトを買うために、トマス・アクィナス『真理論』上下巻(中世思想原典集成第II期)を先輩に1万5千円(3万円で買ったのかな?)で売り飛ばした。何故ならトマスよりもゲームの方が絶対に面白いので。異論反論歓迎しますが、トマスの方が面白いと考える人がいるとしたらそういう人とは話し合いを持ちたくないですね……。(なお買った経緯については下記の記事を書いています。この頃の俺に教えてあげたいですね、俺は底抜けのバカで間抜けになったんだよーと)

 

perindeaccadaver.hatenablog.com

 

 さて、明日からついに社会に復帰する。復帰するわけだがとても不安である。最近、そうした不安から逃げるようにツイッターを観なくなった。ツイッターは社会人の不安や鬱屈、諦念といった三種の死eeds牛丼特盛でできている。それを見てたら死にそうになるからだ(あと、憎い人間のアカウントとか見ると精神衛生上よくないというのがある。フォロワーではない。文脈が分かる人には分かる)。

 どうせ碌なことはないだろうと腹をくくっているが、それでも明日でけえ核ミサイルとかでけえオとかが降ってきて東京がエラいことにならないかなと思っている自分もいる。何故なら俺はちょうど半年前、社会に殴られボロボロにされ、逃げるように実家の子供部屋おじさんになったからだ。そんな俺に社会がまたやっていきましょうと手を差し延べている。俺は弱いのでその手を握り返してしまった。子供部屋から出てしまった。人生賭けて無職をやるほどの意志が足りなかった。どこまでも続く凡庸の人生行路がどうなるかはわからないが、とにかく俺は窒息しそうな4畳半の子供部屋から「空気をもとめて」仄暗い未来に向かって水面に顔を出そうと思う。暖かく見守ってくれたら幸いだ。俺も皆さんの人生を暖かく見守りたい。ところでカルタゴパパ活は滅ぼされなければならない。