死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

飢餓感と劣等感

 もうそろそろ寝る時間だ。今日は本当に時間を無駄にしたなと思う。せめてもの償いということで、ささっとお気持ちエントリを書いておく。ちょうどそんな気持ちになったので。

 

 さっきまであることに怒っていた。怒っているといえば、先週土曜日から別件で割と怒っていた。直近の怒りはその他者の愚かさに対して、土曜日の怒りは自身がないがしろにされていると感じたからだ。詳細は重要ではない。重要なのはその経験によって惹起された俺の感情なので。

 

 仕事を辞めて、それなりに楽な仕事について精神的にも肉体的にも楽になったし、東京に帰ったことで昔からの友人との付き合いも増えて楽しいことが増えた。求めていたことがそれなりに手に入ったのに、何故か最近カリカリしているように思う。

 

 これは仕事以外のことに理由があるのではないか。そう考えて思い当たるのは大学時代からの自らの行状だ。

 

 俺は常に劣等感を抱えて生きている。まあそんなこと反省するまでもなく、このブログを見れば一目瞭然なのだが。劣等感については多言を要しないが、”””俺”””の劣等感については一言云々しておくべきだろう。やはり大学時代にいろいろ勉強ができる人との交流していた時にも少なからずあったし、仕事している時に俺がくすぶっている間に友人たちがどんどん新しい趣味や人生の局面を切り開いている時にも感じていた。そういうことを俺はあまり隠さずにいた。隠さないで俺は「あなたより下にいますよ」とアピールすることで、同時に自分を守っていたのではないか。そもそも勝負などとうについているという体で勝負そのものを避けてきて、いたずらに劣等感は肥大していった。本当は彼我の差なんてものあるかどうかもわからない。学問を例にとれば、俺はある分野に詳しくて、向こうが詳しくない。人間である以上逆もあるし、定量的にどうこう言えるような話ではない。にもかかわらず、俺は他人の方が詳しいと思うと劣等感を表明し、負け戦を戦わずに負けを認める。こうした人間の行き着く先がこのクソブログだと思うと泣けてきますわね。

 

 しかし、これは取り立てて特別な感情ではない。その抱え方に問題があった。それは常にある種の「飢餓感」と結合していたからだ。飢餓感とは、心理学的に言うところの「承認欲求」的な要素もあるが、完全には一致しない。それは「認められる」という他者承認を契機とするよりも、俺が自分であるべきだと思う位置(ここが厄介なのだが、この位置関係において他者が絶妙に関与する)に収まっているべきという自己承認的な要素が強いからだ。そう言い繕ってはみるものの、その自己承認の前提には、そもそも他者が俺のことをそれなりに扱うべきだという「他者承認」の厳然たるプロセスがあることも認めなくてはいけない(飢餓感というワーディングチョイス自体が、俺は承認欲求なんて持っていないという一種の自己欺瞞的な隘路に陥っている気がする)。だが、あくまで俺にとって大事なのは、他人にどう認められているかよりも、自分がどの位置にいるかなので、あくまで自己承認の範疇ではないかと押し通す。じゃないと「俺は承認欲求あんまり感じなかったな」とか言っていた大学時代の自分が恥ずかしくなるので。

 

 さて、劣等感と飢餓感が結合すると何が起こるのか。俺は「他者」より劣等であるのに、その「他者」が自分を顧慮しない、よって自分があるべき位置を占めていないという、一見するとそりゃそうだろという状況に対して非常にムカムカすることがある。俺は負け犬であることに慣れ過ぎてしまった一方で、負け犬のくせになまじっか他者からいいように思われたいという気持ちが矛盾を起こしたまま同居し、自分で自分を追い込みすぎていた。大学時代は余裕もあったから何かそれを適当に笑ってごまかしていたが、社会人になって地獄を見て、そして負け犬根性がもはや取り返しのつかない負け犬となってしまったこと、やはりそれにイライラしているのであろう。

 

 解決策は限られている。もはや一切、少なくともネット上のあれやこれやを見ることをやめるべきなのだろう。今必要なのは自己に向き合うことである。幸い、俺はねじれにねじれまくった(という自己演出に事欠かない)単純な人間なので、自己分析に飽きることはないはずだ。腰も痛くなったので擱筆とします。