死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20240312

 日本よ、私は帰ってきた! これわかる人間が令和6年にどれだけいるんだっていうハナシ。

 

【雑感】

 この一週間はひたすら本を「資料」として扱って拾い読みだったり飛ばし読みだったりしながら30冊ぐらい「処理」し、強制的に自分にインプットした(多分一週間後には完全に忘れているが、別に漫談のネタ拾いに過ぎないので、その時を乗り切ればいいだけのエフェメラルな知識に過ぎない。)。また、完全別件で職場内のデリケートな調整案件のために色々と工作活動に従事していたため、ブログを書く暇がございませんでした。あと普通にLINE等も未読無視で、不義理で申し訳ございません@関係各位。

 ところで、忙しくなったとはいえ、実は本務の方では相も変わらず虚無だったのでメンタルの持ちようは特に変わりませんでした。最近出勤すると咳き込むし、頭が痛いのであと1ヶ月が限界だと思います。休職というハードランディングで組織側に理解ってもらうしかないかも……。

 しっかし思ったのは、俺はとことん研究者とかそういうのには向いてねえなということである。研究者あるいは思想家、その他種々の頭のいい人たちにとって、本はあくまで資料であり、そこからデータを読み取って頭の中で咀嚼した上で自分の考えなり判断なりを作っていくのだと思うが、俺はそういう本の読み方への心理的抵抗が凄いのである。どちらかというと時間をかけて端から端まで読みたという気持ちが強くあるのだなと再確認した。正直言ってそんな読み方では大量のデータを扱えるはずもないが、とはいえ俺は俺の気持ちを尊重したいので、今回やらざるを得なかった無意味な多読はできれば最後にしたいなと思った次第。だが、またやらなきゃいけないことになるかもしれないのだろうな。そのトピックに強い関心があれば頑張れるような気もするが、関心がないと死ぬほど辛いのですわ。

 また、一週間ブログを書かなくてよいということの開放感はすんばらしいものだった。このブログにニュースやら動画やらを貼り付けて短文の論評を加える程度であれば、長くても30分ぐらいで完成する。しかし読書の成果のインプットについてはメチャクチャ時間がかかる。今日以下に記した『サラ金の歴史』については、内容も豊富だったので2時間かかった。恐らくどの本も大体1時間~2時間程度かかっている。

 俺のやり方はこうだ。これは抜き書きをしようor要約に使える文章だと思ったものについてはページに線を引く(図書館の本は該当箇所をスマホで写真撮る)。読み終えた後に内容を目次に沿って思い出す作業をしつつ、簡単なまとめやアウトラインを頭の中で作る(これが短評的なまとめになる。)。その後、帰宅後や昼休みの時間中にまとめに着手する(帰宅後は可処分時間がガリガリ削られる意識で辛くなるのでなるべく昼休みにできるところまでやろうとする。)。そこで改めて線を引いたページや撮った画像を見返してブログに転記したり要約したりする部分を取捨選択するのだが、ここで一度読み直しが発生し、「あやっぱこれいらねえな」とか「このページの数ページ先にあった奴のが重要っぽい……あダメだ線引いてねえどこだっけ」みたいな粗相も多く、結構まとめるのに難渋している。大学時代読書会でたくさんレジュメを切りまくってレジュメマシーンになった経験がなかったら普通に挫折していたと思いますわ。

 とはいえ、読み返して「ああこんな感じの話だったな」と思い出せる粒度のエントリを書かないと意味がないのは事実だ。実際、数年前のエントリにも簡単な読書感想を書いてはいたのだが、もうどんな内容なのか全く思い出せない。多分また端から再読しても初読の喜びに浸れることだろう。今ぐらいの記述粒度を維持できれば、10年経っても少なくとも書いたレベルの話はできると思うという意味では、未来の自身に向けた有意義な時間投資ということで受け入れてはいるのだが、それでも書くのがめんどくさいんだよ!!!!!ボケナス!!!!早く思考を!!!!全部文字にしやがれ!!!!!ブレイン・マシン・インターフェースニキ!!!!!

 とはいえ、ブログを全く書かないと完全に生活が無軌道にだれていくので、やはり定期的に書き続けないとダメだと思いました。これから頑張ってまいります。最近はずっとフォニィを聴いて元気を出しています。この世で造花より綺麗な花はないってはっきりわかんだね。

 

【ニュース】

 この間のニュースについてもポチポチと切り抜きを作っていたが、批評めいたことは言えないのですっ飛ばします。すいません。

 

親子の食費は週1万円 生活保護の引き下げ「苦しみわかりますか」 [秋田県]:朝日新聞デジタル

 悲しい話だよ。DVや事故の後遺症でダメになってしまうなんて誰にでも起こりうることなのに……。弱者を虐げる行政や政治を扶ける無関心に負けないようにしたい。

 

国立西洋美術館でパレスチナ侵攻などに抗議 企画展の出品作家ら:朝日新聞デジタル

 政治的なものからの退隠が極めて困難になってしまった時代という感じがしますね。とはいえ、関心を持ち続ける人の取組は重要ですね。

 

裏金問題「処分が遅い」 河野太郎氏が2人の元首相に語ったわけ [自民]:朝日新聞デジタル

 「河野氏の周辺は、処分をめぐる河野氏の発言について、世論などへのアピールと党内への気遣いを強く意識したと説明する。「派閥解消よりも処分が先だということで、麻生さんにも配慮ができる。閣僚として言えるぎりぎりのラインだ」。これ以降、河野氏は踏み込んだ発信は控えた。」

 ↑「政治」を覚えたということか。しかしこの手の観測記事は有益ではあるにしても、自民党政治を徹頭徹尾終わらせなければこの国の近代は始まらないのではないかという素朴な信念を持っている身としては、もはや「安倍の葬式を上げるぞ!」と気炎を吐いていた朝日新聞の狂気には出会えないってワケ。ちなみに自民党政治が終わった後どうすればいいかって? 俺の差し当たっての答えは軍事政権です(キチガイスマイル)。

 

工藤会トップに一部「無罪」、専門家「推認の死刑判決に無理あった」 [福岡県]:朝日新聞デジタル

「証拠の評価に誤り」一審の死刑判決を破棄 工藤会トップの控訴審:朝日新聞デジタル

 難しいところではあるが、「推認」の積み重ねはやはりどこかで無理をきたすのだなと。今回の判決では漁業組合の人を射殺した時点での野村の関与の度合いについて、二次団体の親分であったことを理由に工藤会本体のような強固な上意下達の機構を認めるに足る証拠がないとして退けたようだ。また、田上が野村の関与がないと証言してしまった以上は、どうしても最高幹部の関与の推認に対する「合理的な疑い」が残るということなのかなと思いました。ただ、記事中にあるとおり、結局野村を無期刑でブチ込めれば実社会には出せないという指摘はそのとおりなので、事実上の死刑という気もする。そうなってくると、あえて死刑を狙うというのはそもそも何なんだという感もなくはない。例のルフィやらキムの事件の時、強殺で俺らも死刑になるのが怖いみたいなことをのたまったという記事を読んだ記憶があるのだが、暴力団員や犯罪者にとっては誰かに殺されるより、国家に殺される方が怖いのだろうか……?

 

本無料配送禁止の反アマゾン法、経産相「研究価値ある」 書店振興で:朝日新聞デジタル

 へえこういう動きがあるのかと知り勉強になりました。ただ、最近本についてはなるべく書店で買うようにしているのであんま関係ないのだが……。書店に通うという経験を大事にしたいお年頃なので。

 

【読書】

 この間の狂った多読生活の中で、おっこれはと思って腰を据えて一冊読んだのが小島庸平『サラ金の歴史』(中公新書、2021)です。こんな名著を3年もほったからしてたなんてびっくりだが、まあ致し方ない。俺は人生で一度もサラ金から金を借りたこともなければ、銀行カードローンすら使ったことがない。唯一例外と言えるのは、前の仕事を退職して6ヶ月プー太郎になりながら退職金やら何やらを崩して旅行三昧に明け暮れていた時に資金繰りが追いつかなくなり、リボ払いをしたことだろうか(その後人生で一度もやっていない。)。積立NISAすら始めていない。俺は金融プレーヤーとしては大多数の日本人と同様ただの家畜同然である。そんな人間なのでサラ金とは全く縁がなく、そもそも個人的に金融とか銀行とかに一切興味がなく(なので半沢直樹も見ていない)、正直読む気が起きなかったのだが、必要に駆られて読むに至った。しかし、資本主義経済に生きる我々が多かれ少なかれ関与しているこの巨大で複雑な金融システムとサラ金は単純ではいかない関係を有しているという本書の指摘に蒙を開かれ、認識を改めなければならないと思うに至った次第。

 本書は、親類友人への利子付きの金の貸し借りに端を発しての「素人高利貸」から、戦後経済を支えた団地住まいの人々の消費に当て込んだ「団地金融」、そしてサラリーマンへの無担保融資に舵を切る「サラ金」、果ては激ヤバCMで知られる武富士アイフルなどの巨大消費者金融の勃興と、改正貸金業法成立によってその繁栄に終止符を打つまでの歴史を描く。あまり類書のない本であるが、それに加えて本書の重層的・多面的なアプローチもその独創性を際立たせている。著者は、「金融技術の洗練」(著者はこの言葉を情報の非対称性の縮小化や貸し借りを効率化した様々な技術革新と広義で捉えており、金融システムとITの不可避的な結びつきであるいわゆる「フィンテック」もその延長線にあると考えている)の側面、個性的な消費者金融の創業者の生涯やサラ金で貸す人・取り立てる人・借りる人の心性などを分析する「人」の側面、最後に借りる側の家計に内在しているジェンダー意識などに着目した「ジェンダー」の側面から分析を試みている。こうした多面的な分析が、本書を単なるサラ金擁護論やサラ金絶対悪論に傾かせずに、我が国の独特な戦後経済体制とサラ金の微妙な関係に光を当てることに成功していると言えよう。

 本書の問題意識は次のとおりである。すなわち、酷薄な取り立てや過剰な利子が注目されている「サラ金」であるが、しかし資金繰りに困った普通の人たちが最後に頼ったのは不真面目な行政のセーフティネットではなく、サラ金という「奇妙な事態」がある。この奇妙な事態はどのように生起するに至ったのか。サラ金の歴史を上述の分析視角から読み解くことで著者はこの問いに答えようとする。

 以下、少し分量を多めに割いて本書をまとめておきたい。

 第1章「「素人高利貸」の時代ーー戦前期」では、戦前における金の貸し借りにフォーカスされる。戦前では利子付きの金の貸し借りが親類友人間でも珍しくなかった。これはそもそも銀行が信用の低い個人に対してお金を貸すことがなく、個人はお金の都合をつけるには親類友人に頼み込むしかなかったことが背景にあった。このような中で、賀川豊彦の貧民窟レポートにあるように、貧民窟の日雇い土木工事に従事する人たちに金を貸す同業者が現れた。同業者はそのうち素人高利貸として成り上がり、取り立て役や借り手の仲介役としての「使い」や「走り」を動かしながら同業者からの返済利子で儲けていた。同業者を対象とした貸し借りであれば、毎日少額ずつ返させる日掛金融のおかげで、踏み倒しの懸念が少ないことが利点として挙げられる(また、こうした貧民窟では、当時の勤倹節約を尊んだ「通俗道徳」とは乖離した「男らしさの価値体系(民衆史研究の藤野裕子による分析概念)」に起因するしばしば自身を大きく見せようとする過剰な消費行動が見られ、この点でもお金を貸し借りする動機があったと著者は見ている。)。戦前期にも銀行の個人向け金融などはあるにはあったが、当時サラリーマンは信用度が低くあまり貸してもらえなかったことなどが背景に、こうした小口の個人間レベルの金融が発達したというのが著者の見方だ。

 第2章「質屋・月賦から団地金融へーー1950〜60年代」。上述のような素人高利貸とは別の金融形態として、質屋があったことを著者は指摘する。質屋は家計の管理責任を押し付けられていた妻にとっては、夫には言えない内緒の資金繰りとして重宝されていた。しかし、質屋は団地金融の勃興とともに急速に減退し、むしろ古物商としての性格を強めるようになる。当時は家電の月賦販売などが隆盛を極めており、ここに「団地金融」という新しい業態が生ずることになる。団地は当時は入居の審査も厳しく、それなりにきちんとしている人たちが入っており、彼らは戦後経済復興のフロントランナーとしてしばしば最先端の消費を行っていた。最新鋭の家電を購入することもそのひとつであり、団地内での消費競争に煽られて我も我も皆が月賦購入を決めていった。そういった消費過熱を見込んで現金を「月賦」のように貸し付ける団地金融モデルを引っ提げて登場したのが、「団地金融」の案出した田辺金融や森田クレジットセンターである。「家計管理に責任を持ち、購買競争の中でやりくりに苦労する主婦の存在」と、「団地には一定以上の支払い能力を持ち、貸し倒れリスクの低い人びとが集住していること」(いずれもp73)がこの無謀とも言えるビジネスモデルを成功させたのである。後者については、金の貸し借りで常に問題となる情報の非対称性を縮減するには審査が不可欠だが、団地の入居審査でもって貸し手のとしての審査コストを軽減するという革新的な手法で、これまでの素人高利貸の限界であった知人間のネットワーク内での金の貸し借りを乗り越えることに成功したのである。しかし、団地金融は貸す団地を奪い合うという競争過熱を招き、高コスト・高リスク体質から脱却することができず、結局姿を消すことになる。

 なお、本章の指摘で1点興味深いものを以下にとどめて置く。

 「1960年代前半までの金融政策では、マクロレベルの貯蓄不足から、電力・海運・鉄鋼・石炭の四重点産業に対する資金配分が優先されていた。まずは主要産業の成長が優先され、消費者金融は一貫して後回しとされていたのである。

 のちにサラ金が社会問題化した際、その原因は銀行が個人向け融資に消極的で「怠慢」だったからだと指摘されたことがある。しかし、銀行の「怠慢」は、基本的には右のような金融政策の方針に従った結果であり、行政もまた責任の一半を負っていた。」(p62、本文中の引用文献略記は省略、以下同様)

 第3章「サラリーマン金融と「前向き」の資金需要ーー高度経済成長期」でようやく、サラ金の勃興が語られる。元々呉服屋・質屋といった経歴を有するアコム創業者の木下は、「勤め人信用貸し」という極めてリスクテイクな手法に踏み切る。つまり、今でいうサラ金だが、担保も取らないで貸し倒れたらどうするんだという発想が支配的だった当時においてはかなりの大冒険だったと言える。木下は呉服屋を立ち上げる際に問屋から信用してもらって既存店並みの品揃えを確保したことや、呉服屋時代に反物の柄を決められなかった若い娘に対して、高額な複数の反物を貸して家で決めておいでと言ったというエピソードがあるようだが、このような「信頼」が習慣としてあったからこそできたことなのかもしれない。またプロミス創業者の神内も暴力金融から決別した「人間の顔をした金融」、レイク創業者の浜田も「人を活かす金貸し」ということで、後のサラ金の悪イメージとは似つかわしくない高邁な理念を掲げて金融業に参入した。このような中で、高度経済成長期にあって、「情意考課」という碌でもない評価システムのせいで交際費が嵩み、夜の遊興費(当時はアルバイトサロンなる今のガールズバーやキャバクラのルーツみたいなものがあったらしい)や、接待のゴルフ代を捻出する必要のあった元気なサラリーマン諸氏が融資の対象となった。厳しい大手の入社試験を突破しているのであれば返済能力も期待できるし、元気に遊んで元気に働けるような前向きな人間であれば大丈夫と貸し手側も見込んだのである。また、借り手側のサラリーマンとしても、家計管理を妻に任せていた結果、お小遣い制が導入されその枠内でのやりくりは当然難しかったので、こうしたサラリーマン金融を諸手を挙げて歓迎したのである。そして、様々な金融技術の発展(学生ローンへの踏み切り、番号案内の精緻化と高速化という情報インフラの発展に伴った電話レベルでの融資、信用情報の共有など)や、銀行からの資金調達の容易化や審査基準が緩和されたことなどを梃子に消費者金融業界はどんどん拡大していく。「サラ金企業の資金調達が容易化し、信用審査の基準が大幅に緩和された結果、生活や商売に行き詰まったリスクの高い人びとが、「ワラにもすがる思い」でサラ金を利用するようになっていた。サラ金による生活困窮者の金融的な「包摂」は、銀行の金余りという「ある種の不均衡状態」の下で家計へと本格的に資金が流入するようになった、1970年代に起源を持っていたのである。」(p153)とはいえ、こうした中で特に団体信用生命保険の加入によって借り手が自殺して「返済」するようなモラルハザードも取り沙汰され、大蔵省はいくつかの政策的手当を行う。外資の上陸を認めたり、低利規制を設けたり、果ては銀行からの融資を抑止するような銀行局長通達(「徳田通達」)まで出した。この徳田通達で一時期成長が止まるが、消費者金融は逆に外国銀行から融資を受けるなどして拡大を続けた。

 第5章「サラ金で借りる人・働く人ーーサラ金パニックから冬の時代へ」は興味深いデータを紹介しているので、以下に画像で掲げる。

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 これは1983年前半のサラ金原因の自殺や心中に関する新聞報道を著者が整理してまとめた表(p191)であるが、見ての通り陰惨な事件が多い。こういう中では、家計管理の失敗として寄るべない立場に追いやられ家出する女性と、死んでも返済しなければならないという「男らしさ」を引きずって自殺する男性が対照的に描かれている。またこうした人々へ貸す消費者金融の融資担当者たちが洗練してきた悪辣な回収技術にも言及される(例えば電話で居留守を使う債務者の子どもに対して「僕、アンパンマンだけど」と言って子どもを丸め込むなど)。彼らにとっても夢見の悪い仕事であるが、徐々に「そもそも返さない奴らが悪い」という意識に染まっていく。著者は債権回収の感情労働の重層的展開を以下のとおり整理する。「図式的に言えば、恐怖心や屈辱感を煽られる債務者→債務者に直接対峙することで感情を揺さぶられる末端社員→その末端社員の感情をケアし、コントロールする上位の役員、というように、いくつかの感情労働が重層的に折り重なることで、サラ金の債権回収業務は遂行されていた。」(p205)なお、この点で著者がウシジマくんを引いているのは興味深い。しかし、このような中でサラ金被害者の救済運動も弁護士や被害者レベルで立ち上がるようになっていき、世論のサラ金に対する目は徐々に厳しくなっていく。こうした中で1983年に貸金業規制法が成立し、グレーゾーン金利の残存などいくつかは消費者金融にとっても都合が良かったが、それでも種々の規制をかけられたことによってサラ金業の冬の時代が到来することになる。サラ金はこうした冬の時代の中にあって銀行との関係を深めることで、ついに銀行システムの一環に組み込まれるに至った。

 第6章「長期不況下での成長と挫折ーーバブル期〜2010年代」では、冬の時代を脱した消費者金融業者は90年代に、銀行がバーゼル合意のBIS規制(自己資本比率)を受けて個人向け融資を増大させたことによるイメージアップも手伝って一点ピークを迎えるが、21世紀には凋落の一途を辿る。クレジットカードの普及による多重債務問題やヤミ金問題によって再び消費者金融批判が蒸し返されることになり、こうした中で武富士の相次ぐ不祥事が暴露されるに至る。武富士には創業者武井の独特かつ苛烈な性格にも問題があったが、著者はむしろ武富士内の企業統治が完全に破綻していた点を指摘しており興味深い。そうした中で、弁護士経験があり金融庁に勤務し自身も苛烈な取り立てをされた経験を有する森雅子(元法務大臣)や大森泰人ら金融庁側の貸金業法改正への意欲と、日弁連消費者運動を牽引してきた宇都宮健児らの活動が実を結び、ついにグレーゾーン金利の消滅を含む改正貸金業法が2006年に成立した。この中で過払金の返済や総量規制を余儀なくされた消費者金融大手は揃って赤字に転落し、倒産した武富士や売却されたレイク以外は否応なく銀行システムへと編入されていくことになる。ヤミ金は詐欺のプレーヤーに転職し、そして個人間金融がSNSなどの普及によって拡大する(悪名高い「ひととき融資」もこれに当たると著者は指摘する)。

 終章の著者のまとめを借りたい。「サラ金は、貯蓄超過や金融自由化というマクロな経済環境の変化と深く結びつきながら成長し、現在も日銀・メガバンクを頂点とする重層的な金融構造の中にしっかりと根を下ろしている。個人間金融から生まれたサラ金を肥大させたのは、日本の経済発展を支えていた金融システムと、それを利用する私たち自身だった。その事実を、まずは正面から見定める必要がある。」(p313)「サラ金の歴史は、日本社会に生きる多くの人びとと決して無縁ではなかった。たとえ利用者ではなくとも、預金口座で給与を受け取り、わずかであっても金融機関に金を預けている私たち自身が、究極的にはサラ金の金主だった。現代を生きる私たちには、スマートフォンの画面の向こう側にいる見知らぬ個人に金を貸し、素人高利貸となって一儲けするチャンスさえ開かれている。これまで、日本社会と消費者金融との間の深いつながりは、サラ金への囂々たる非難の声にかき消され、ともすると見えにくくなっていた。しかし、他ならぬこの日本社会が産んだサラ金の歴史を正面から見定めると、思いがけず私たちの暮らし方・働き方に深く関わっていたことが明らかになる。多重債務に陥った人びとを「自己責任」と切り捨てるにはあまりに身近なところで、サラ金は成長してきた。サラ金が引き起こしてきた問題を、他人事ではなく「自分事」として認識することで、初めて将来のあるべき金融や経済のあり方を冷静に議論し、真の意味で人と人とのつながりに支えられた社会を構想できるのではないか。」(pp314−5)

 なお、あとがきに触れられている本書執筆の経緯は興味深い。元々は農業史を専攻していた著者が、大学院生の時にプロミス創業者の神内の名を冠したファームで、出向したプロミスの元社員からバーベキューに誘ってもらいその場で厚遇を受けたことがサラ金に関心を持つきっかけだったという。末尾で書かれている「住宅ローン・自動車ローンとの関連、ポスト「家族の戦後体制」の家計の分担構造、金融リスク負担の歴史的な変化の問題」(pp320-1)などの積み残しを著者も自覚しているとのことで、今後の研究成果を大いに期待したいところである。

 

【動画】

youtu.be

 トランプ政権が復活して国境の壁で全てが終わる前にメキシコ料理が食いてぇ! 食いてぇンゴ!!! それはそれとして、人間のわちゃわちゃをニンマリ気色悪い顔しながら観るのが好きだーッ!!! でも人間は嫌いだ!!!!

 

youtu.be

 完全に現代の耳で聞く断腸亭日乗です。ありがとうございます。

【映画感想】ドラえもん のび太と地区交響楽(シンフォニー)-1.0

 2/30に鑑賞しました。実は平行世界の俺は3/1に別のドラえもん大長編を観て「うーん、ドラえもんでやる必要あったか?w」という不遜な感想を残したらしいのだが、本作は多分次のアカデミー賞になるっぽい。ドラえもんの音楽と言えばやっぱジャイアンよ。

 

【あらすじ】

 いつものように大好きなコミックゼロスを買ってルンルン気分で家路を急ぐのび太。そこにジャイアンが現れる。

 

 ジャイアン「おおのび太、心の友よ! 実はな、折り入って頼みがあるんだ……」

 のび太(アレッ、ノーモーションで掃除朋具先生表紙のコミックゼロスを取り上げない……だと……!? 嫌な予感がするぞ……!)

 ジャイアン「俺は特別なジャイアンリサイタルを開催する。だから、いつもみたいにチケットを配ってほしい!」

 のび太「エーッ……じゃなかった、ワァ、嬉しいなァ……(嫌だい嫌だい! 人権侵害の片棒担がされるの嫌だい!)」

 ジャイアン「今回のチケットノルマは……200万枚だ!」

 のび太「200……万枚!? いやちょっと待ってよジャイアン練馬区の人口の約3倍のノルマなんて捌ききれるわけないよ! 大体いつもの空き地に200万人も入るわけないじゃないか!」

 ジャイアン「ふっ、お前わかってねえな。俺の特別リサイタルはな……ガザ地区でやるんだよ!!!」

 のび太「が、ガザ地区ッ!? あの「世界最大の空き地a.k.aイスラエルの遊び場」と言われているガザ地区!?」

 ジャイアン「そうだ、俺は毎日ニュースでガザの現状に心を痛めている……」

 のび太「そ、そうなんだ……(こいつ、普段はネタニヤフと同じぐらいのいじめっこの癖に何を偉そうに……)」

 ジャイアン「だからこそ! 俺は! 音楽の力で! ガザに平和をもたらしたいんだ! イスラエルとアラブの架け橋になりてえんだよ! なあ、お前ならドラえもんに頼んでガザ地区中に俺の歌声を届けられるはずだ! ガザの人たちの希望にならせてくれ! 心の友よ……一生のお願いだ!」

 のび太「そうなんだ……。うん、わかった、ドラえもんに頼んでみるよ(ッシャァ! とりあえず僕らはこの歌声を聴かなくて済むんだラッキー!!!)」

 

 というわけでのび太ドラえもんに事の次第を報告し助力を請うも……。

 

 ドラえもん「君という人間は! 何てむごいことを! ジャイアンの歌声なんか聞かされたら、万年栄養失調のガザ地区の人たちにはひとたまりもないぞ! そんな大量虐殺に加担するために僕は22世紀から来たわけじゃないぞ!」

 のび太「じゃあドラえもん練馬区月見ヶ丘の子どもたちがジャイアンの歌声で虐待されてもいいっていうのか! 子どもには自分を守る権利があるんだ! それにどうせイスラエル軍が皆殺しにするんだから結果は変わらないじゃないか! そもそももう住民は赤ん坊から老人まで軒並み死んでるし、あちこち瓦礫だらけなんだから今さらジャイアンの歌が一曲流れたところで大して変わるもんか!」

 ドラえもん「このアホのび太! どんなにひどい現在でも、彼らには希望を抱く権利があるし、すべてをイスラエルに奪われた彼らにとってはその希望こそが生きるよすがなんだ! 岡真理でも読み直せ! それに、君たちはあのジャイアンリサイタルを耐える義務がある! 君たちはサザエさん時空のおかげで永遠に歳も取らずに生きていられるからこそ、あのジャイアンの歌声で生きていられるんだ! あんなもんをその時空の外に出したら一巻の終わりだぞ! まともな人間が耐えられるわけがない!」

 のび太「僕たちだって死なないのをいいことに毎週のようにイクシオンの車輪の如き永劫の苦痛に耐えてるんだぞ! 大体ね、国が違えば文化も違うっていうからには、ジャイアンのあの歌声だってガザではKing GnuとかYOASOBIみたいに持てはやされるかもしれないじゃないか!」

 ドラえもん「なわけあるかーっ! あれは壊すことしかできないんだよ! ホロコースト・ナクバ・ジャイアンリサイタルみたいな三題噺を22世紀に伝えるのか!? 君は自分の友達を、ナチとシオニストと同列に置いていいのか!?」

 のび太「わかったわかった! じゃあとりあえずジャイアンリサイタルガザ地区で開くには開いて、ガザの人たちにはうまいことジャイアンの歌を聴かせないようにしよう! 運がよければ現地のイスラエル軍を殲滅することができるかもしれない!」

 ドラえもん「……なるほど!!! のび太君にしては冴えているね! よしわかった、人類の恒久平和のためだ! 僕の道具で何とかしてみせるよ!」

 

 というわけで、ドラえもんのび太ジャイアンリサイタルもとい第二次クリスタルナハトinガザのための計画を練る。

 いつもであれば、ドラえもんの道具を使えば大抵の不可能は可能になるのだが、この時ドラえもんは一部の道具をシン・ビッグモーター社(注:伊藤忠による買収後は日本人の健忘国民性もあってか生き永らえて、再委託でひみつ道具の検査なども手広くやるようになった)に検査を出していたため、いくつかの工程は自分たちの力で何とかするしかなかった。

 まず、リサイタル会場の手配や当日までの準備運営などについてである。これについて、ドラえもんたちは一計を案じ、ある場所へ向かった。

 

 所変わって首相官邸。時の首相・岸田文雄はやけ酒を呷りながら自民党を復活させる起死回生の策を、木原誠二ら側近や首相秘書官たちとともに練っていた。麻生太郎の舌を引っこ抜いて競売にかける、生成AIで安倍晋三を蘇らせて土下座させる、とりあえず森喜朗は憎いので殺す、大谷翔平がシーズン中ホームランを打つたびに裏金を受け取った議員を1人裁判抜きで死刑にするなどの策を練っていると、目の前に突然ピンクのドアが現れ……。

 

 ドラえもん「こんちわ! 僕ドラえもんです! 増税メガネ、じゃなかった岸田さんにお願いがあって来ました!」

 岸田「はっ? な、なんだこいつは……?」

 ドラえもん「日本政府はUNRWA国連パレスチナ難民救済事業機関)への拠出金を停止して金をだぶつかせていると思うんですが、そのお金で僕の友達のリサイタルをガザ地区で開きたいと思ってるんで諸々ご手配ください!」

 岸田「何……? (首相秘書官から回されたメモを見ながら)えーと、UNRWA側において本件に関する調査が行われ、対応策が検討される当面の間、追加的な資金拠出を一時停止せざるを得ないとの判断に至ったもので、あります。UNRWAが本来果たすべき役割をしっかりと果たせるよう、調査が迅速かつ完全な形で実施され、適切な対応がとられることを強く求めていく所存です。」

 ドラえもん「ここに集団懲罰の言い訳を聞きに来たんじゃないの! お金を出さないなら、あんたたちのこれまでの政治活動に関する資金の流れを全部公開するように「ポータブル国会」を使って強制的に法律を定めるけど?」

 岸田「なんだと……!」

 木原「総理、この青狸が言っていることは本当です……。実は先ほどこの青狸が、例の冤罪の件で、協力しなければ文春に「タイムテレビ」なる道具で我々の行動を全て見せると……。実際、確かにそのテレビにはあの日の妻の行動が映されていたのです……監視カメラなどなかったはずなのに! この青狸にかかれば法律の制定なぞ何でもないことなのでしょう……」

 岸田「クソッ、メチャクチャだ……! 安倍のせいで統一教会絡みで足をすくわれ、安倍派のバカどものせいで政治資金問題でさんざんな目にあったというのに、今度はこの変な奴に脅されるのか……ええいわかった、とはいえUNRWAへの金はどうにもできないから、予備費やら官房機密費で対応するぞ!」

 ドラえもん「ありがとうございます~! お礼に「どくさいスイッチ」で誰か消してあげるけど?」

 岸田「いやもう何もかもうんざりだ! 消すなら俺を消せーッ!!!」

 木原「そ、総理……!」

 ドラえもん「あーあ、おかしくなっちゃった。とりあえず目的は果たしたし帰るか」

 

 一方のび太は、タケコプターでガザ地区を飛び回りながら、ジャイアンリサイタルのチケットをバラまいていた。イスラエル軍の無差別な攻撃を避けながら、ガザの人々ははるばる日本から少年が自分たちのために歌声を披露してくれることに感激を受け、是非とも会場に駆け付けたいと思っていた。

 もちろんこのリサイタルについてはイスラエルもすぐさま把握した。モサドが各国情報機関に照会をかけたところ、アメリカのCIAから日本政府がリサイタルを企画し、予算を出しているという情報提供がなされた。日本政府の意図は読めないものの、リサイタルの名を借りたハマスによる決起集会であり、シンワルら幹部が出席する可能性が高いという分析結果(後にイスラエルの極右によって歪められた分析であることが明らかになる)をもとに、イスラエル軍はリサイタル会場への総攻撃を目論んだ。バイデン政権は大量虐殺になりかねない作戦を強く憂慮したが、トランプとの選挙戦もあることから強くは言えなかった。

 

 というわけでリサイタル当日。ガザ地区の野外会場には、多くの住民たちがジャイアンの歌声を聴くために殺到した。会場外ではイスラエル軍が既に包囲しており、今か今かと攻撃命令を待っていた。

 ジャイアンのび太ドラえもん、お前らサンキューな! 俺の音楽を平和の架け橋にしてくれてよ!」 

 のび太「う、うん、ジャイアン、ガザの人たちのために、おもっきし歌ってよ!」

 ドラえもん「最高のステージを用意したからね! みんな楽しみにしているよ!」

 

 ドラえもんのび太の計画は以下のとおりだった。まず、改造した「音消しマイク」を使って、会場内のガザ地区の人々にはジャイアンの破滅の歌声を聴かせないようにする。しかし、会場外に用意した「音消しマイク」と接続させたスピーカーにはその音を何倍にも増幅して伝えるようにしてあるので、包囲しているイスラエル軍ジャイアンの歌声で壊滅させられるというものだった。

 

 ジャイアン「あー、会場の皆さん、僕、剛田武といいます。この度はこんな機会をいただけてうれしいです。精一杯歌います。聞いてください、おれはジャイアンさまだ!」

 

 ジャイアンが声を張り上げた――。しかし、会場内はしーんとしている。ガザの人々は顔を見合わせつつも、会場のジャイアンが極めて熱を込めて歌い上げている様を見て、連日連夜のイスラエル空爆や砲撃で耳がおかしくなっているのだと考えた。せっかく日本から歌い手が来てくれたのに、その歌すら聞けないなんて……。ガザの人たちは悲嘆にくれた。

 会場外。破滅だった。ヨハネの黙示録に描かれた終末のラッパとはこのような音なのか。イスラエル軍は「お~れ~は~ジャイア~ン♪ ガキだ~いしょ~う♪」という音とともに発せられた強力な衝撃波をまともに喰らい、木っ端みじんとなった。世界最強の戦車と謡われたメルカバMk.4の重装甲をもってさえ音を防ぐことはできず、乗員たちは血反吐を吐き倒れた。一切の反撃を試みることさえ許されず、イスラエル軍は一瞬にして壊滅した。この悲劇は後にマサダ要塞の集団自決とともに、イスラエルユダヤ民族の悲劇として語り継がれることになった。

 

 一曲目を歌い終えたジャイアンは、悲しんでいるガザの人たちを見てハッとした。

 

 ジャイアン「そうか……! すまねえお前ら! 俺としたことがこんな簡単なことに気づかなかったなんてな。お前ら、メシ、食ってねえんだろ……。そうだよな、リサイタルの前に腹ごしらえだ! ジャイアンシチュー200万人分を用意してきたぜ!」

 ドラ&のび「ファッ!?」

 

 驚愕した二人だが、UNRWAの職員たち(暇なのでリサイタルの運営を手伝っていた)がジャイアンシチューガザ地区の人々に配ることを止めることはできなかった。ジャイアンシチューは、ひき肉、たくあん、塩辛、ジャム、煮干、大福、セミの抜け殻などを材料とした、ジャイアンの歌声に勝るとも劣らない究極の殺人兵器である。ガザの人々がジャイアンシチューを食べれば死は避けられず、ドラえもんたちはジェノサイドの罪でイスラエルとともにICCに起訴されることになるだろう――。恐るべき事態に、ドラえもんのび太は引き攣った顔を見合わせた。

 ガザの人々は久しぶりの食料に歓喜し、我先にとジャイアンシチューを口に運ぶ。もうダメだ――。ドラえもんたちがそう思ったが、ガザ地区の人たちはまずそうな顔をしながらもスプーンを持った手を止めることはなかった。

 

 のび太「あれ、ドラえもん! みんなあのBC兵器紛いを食べ続けてるよ!」

 ドラえもん「……ハッ! そうか! 君たちがジャイアンの歌声に耐性があるように、ガザの人たちの飢餓に鍛えられた胃袋が、ジャイアンシチューの毒を耐えられるようにして、むしろその栄養をとるように努めているんだ!」

 のび太「なるほど! 毒も栄養も両方を共に美味いと感じ、血肉に変える度量――ガザの人たちは範馬勇次郎ばりのバイタリティを持っているんだ!!!!」

 ジャイアン「おお、こんなにうまそうに食ってくれるなんて……お前ら全員心の友だァ~! よっしゃ、元気になったところでリサイタルを再開するぜ! おい、こんなマイクなんかいらねえ、腹から声出して生歌を伝えるぜ!!!」

 

 そう言ってジャイアンは音消しマイクを叩き壊した。これではジャイアンの歌声でガザ地区の人々を殺すことになってしまう。

 

 のび太「まずい! ドラえもんジャイアンシチューを!」

 ドラえもん「えっ、どうして……いやなるほど、わかった! ジャイアン! 歌う前伊君もガザの人たちと一緒にシチューを食べたらどう?」

 ジャイアン「おっ、気が利くな。そうだな、SEALDsも言ってたけど、同じ釜の飯を食って分かりあわなきゃな……パクッ、ギャ~!」

 

 ドラえもんから受け取ったジャイアンシチューを食ったジャイアンはひっくり返る(筆者注:歌声とは違い、ジャイアンは自身のゲテモノ料理に耐性がない。「恐怖のディナーショー」参照)。のび太ドラえもんは気絶したジャイアンを抱えながら、歌手が感極まってぶっ倒れたのでリサイタルは中止ですと呼びかける。せっかく楽しみにしていたイベントではあるが、期待を裏切られることには慣れっこだったガザの人々は不平不満を呟きながらも大人しく帰っていった。が、会場外に出た途端、イスラエル軍の死屍累々の光景を見て彼らが歓喜したのは言うまでもない。

 

 期せずして人類の平和に貢献したのび太たちは、ガザの人々の生命力の強さに心底感心し、彼らならきっとまた一からやり直せると確信し、映画は幕を閉じるーー。

 

 いやはや、面白かったですね。ちなみに次回作はイスラエルから付け狙われたドラえもんたちがアイヒマン同様に拉致されて裁判にかけられる回だそうです。見応えのある法廷映画になっていることを期待します!

 

※以上記述は壮大な冗談としてお読みください。なお、当ブログは「脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ」なので、当然ながらガザ及びパレスチナの人々に連帯します。イスラエル軍ガザ地区からの即時撤退とハマスに囚われた人質解放に向けて、日本政府含む国際社会の全てのアクターが尽力することを強く希望します。

20240229-20240301(原発銀座弾丸視察始末記及び映画ドラえもんの感想)

【旅行】

 誰しも年に一度は何かを思い立つことがあると思う。かくいう俺もそうで、唐突に有給をとって福井に行くことにした。なんで今? わかんねえ。なんで福井? わかんねえ。だけど、とりあえず今の閉塞感を打ち払うためにも、どこか旅行に行きたかったのだ。

 

 というわけで早速新幹線の切符と泊まるところを当日朝に予約した。そして、もちろん終業後即職場を飛び出して北陸新幹線へライドオンした。この前乗りの感覚がたまんねえのよ。

 昨年から発作的ランダムイベントとして発生する俺の弾丸旅行は、常に業務終了後から次の日までの1泊2日の旅程だ。しかも、行く先では24時間も滞在せず、大体夕方ごろには東京に帰ってしまう。こいつは旅のなんたるかをわかっていないというお叱りを受けること間違いなしだが、最近これには理由があるのではないかと思えるようになった。そう、前乗りが楽しくてやっているのだ。

 前乗りとは、言ってみればボーナスタイムである。つまり、本当だったら明日の朝早く行けばいいのに、あえて前日の夜にビジホとって泊まり込むことで、明日は当地で早い時間から活動できるし、また前日夜には当地の居酒屋などでしっぽりと楽しむことができる。旅行は一般的に開放感をもたらしてくれるが、それをより増幅させるのがこのタイパ抜群のムーブメントである。

 ところで、これは次の日に待っている旅行が本義であって、前乗りは言ってみれば余興に過ぎない。しかし果たせるかな、なんと俺は前乗りの方を旅行の本義と捉えている、かもしれないのだ。とにかく仕事が終わった後の無為になりがちな夜の時間を最大限賦活できるという喜び。ビジネスホテルにチェックインした後はウキウキ気分で夜の街に飛び出し、そこでうまい地酒に出会って顔をほころばせ、美味しい料理に舌鼓を打つ。二軒ぐらい行ったらホテルに帰って大浴場でひとっ風呂を浴び、そのあとは部屋でダラダラ飲みながらYoutubeをみる。明日の旅行に期待を膨らませながら……。これほどまでに楽しい時間は人生にそう何度も訪れるものではないが、前乗りすればそれが簡単に実現するのだ。俺はいつしか旅行の日程は前乗りありきで考えるようになっていた。そして、その後の旅行については、まあ正直1日動き回ると死ぬほど疲れるので後はさっさと帰っておうちで寝よう、そうすればまだ1日休みが残るし……という何とも不真面目なブーメラン旅人と化してしまったのである。

 しかし、前乗りの快楽は何にも替え難い。普通に朝東京を出て1日中色々なところを回って疲れ果てて落ち着く夜と、東京の倦怠感とともに新幹線に揺られた後に当地に着いてから一杯やる夜では、後者の方が打ち払う闇の大きさがでかいので、そのカタルシスも人一倍である。そして、いくら旅行開始当日にあまり重きを置いていないにしても、やはり旅行それ自体の開放感を味わえるということ込みでの前乗りの楽しさなのだ。その意味では東京でビジネスホテルとってアホみたいに飲んだくれても決して前乗りと同じ快楽を得ることはできないのだ。

 

 さて、長くなってしまったが、こんな感じで前乗りファーストな人間なので、正直福井に行くということに目的にも何もなかった。そもそも、実は福井の前に九州とか四国とか行きてえなと思ったのだが、バカなので航空券は当日買うとめちゃくちゃ高いということを知らなかった(福岡行きの航空券が3万かかると知って「は!?」となった)。このため、どこか交通費往復4万以内で行けるところはないかと探していたら、ちょうど福井がヒットしたという顛末である。福井の有名どころは東尋坊しか知らなかったのだが、母親から数年前に行ったじゃんと指摘されたので、じゃあどうすればいいのかを考えあぐねたまま、東京を脱出する時間となったので、行き先も決まらぬまま飛び出したという具合である。

 北陸新幹線で金沢まで行き、サンダーバードで福井まで行くというルートだったのだが、これで計3時間半ぐらいかかる。北陸新幹線が3月に敦賀まで延伸したら最大30分は短くなるらしいが、しかしやはり遠い。この旅路はしんどいものになりそうだと思いながら、とりあえずApple Music Classicでモーツァルトなどを聴きながら、『精選 神学大全 2』を読み進めて凌いだ。もうお外も真っ暗なので車窓から見える景色どころではなかったからだ。

 さて、腰の痛みに耐えながらなんとか福井に到着した。早速恐竜の展示を一枚パシャリ。福井ってそういえば恐竜あったなとこの時気づいたのである。

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 実は、福井をどう回っていけばいいのか全くわからなかったので、福井を「第nの故郷」と愛している大学の先輩に教えを乞うたところ、色々とスポットを教えてくれた。ただ、夜の飲み屋については特に教わっていなかったし、かといってめちゃくちゃ腹も減ったのでそろそろ何か胃にものを入れたいなと思い駅前をウロウロしていた。この日はあいにくの雨模様だったので、さっさと店を見つけないとずぶ濡れになるおそれがあったので、孤独のグルメよろしく吟味する機会はなく、もうなんでもいいからと思って駅前30秒ぐらいの居酒屋に飛び込んだ。結果としてここが当たりだった。天ぷらメインの店だったが、きちんと福井の字のものを取り揃えており、また地酒も数を揃えていたのは嬉しかった。一人だったのに個室に案内してくれたのも大変ありがたい。

 

 以下はここで喫食し、飲んだメニューの写真である。
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 これは永平寺胡麻豆腐。たまには豆腐でも食うかと思って頼んだが、結構うまかった。普通の胡麻豆腐との違いはよくわからないが、俺は胡麻豆腐が意外と好きかのかもしれない。
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 フライドポテトと鶏天。オモコロのマンスーンっていう人が飲み屋で必ずフライドポテトを頼むというので、その顰に倣ってみた。昔大学のサークルの飲み会で焼肉屋でフライドポテトを頼んだ後輩がいて、「リベラル・コミュニタリアン論争」に準えて「焼肉・フライドポテト論争」と面白がっていたのだが、今考えたら酒にフライドポテトが合うのは世の真理なのだからどこにだってあってええんや。そして今は一人旅なので俺の注文の粗相をどうこう言う人間は誰もいない。完全に俺の恣意によってテーブルがメチャクチャになっていくのは気持ちいいものですね。鶏天は美味しかったです。ここの天ぷらは米油を使っているのかあまり重くなくひょいひょい食える。
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 本日のおすすめの福井サーモン。親がサーモン嫌いで食卓にあまり出てこなかったので、自分で進んで頼むこともあまりないのだが、この日はなぜか気まぐれで頼んでみた。めちゃくちゃうまかったっすわ。
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 天ぷら第二陣。海老天、ふぐ、ホタテのいくらのせ、まいたけ。ふぐうまかったっすね。唐揚げもあったのだが1500円なので流石に遠慮しました。これはもうとにかく「ハフッ! ハフッ!」と食ってたので正直そこまで感想は覚えていない。
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 日本酒三種飲み比べとおつまみセット。黒龍大吟醸クリスタルドラゴン、白岳山辛口純米真紅、常山詠花かすみさけの三種。個人的には常山が一番飲みやすかった。なんか飯食う時に飲む酒はどちらかというと辛口チックなものを求めている気がします。他のもうまかったですが。おつまみで特筆すべきなのは富山の名産へしこ。鯖等を米糠で漬けたものなのだが、この塩辛さは明らかに死神じみていた。しかし酒は無限に進む。うまい。うますぎた。これは自分用のお土産に刺身の缶詰を買いました。
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 もう一杯飲みたかったので、白龍の純米吟醸を1合。これで540円って価格崩壊かよ。しかもするすると飲める。へしことこの酒だけでずっと戦っていた。
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 一応名物を、と思いおろしそばを食べました。地元の蕎麦屋にこういうのを出す店があるのであんまり驚きはないのだが、そばが太くて食いごたえがあった。天ぷら付きを頼んで海老被りしたのは痛恨のミスでございました。

 さて、これでだいたい7000円だった。普通にメチャクチャ飲み食いしたのでまあ妥当な金額だと思う。時計は22時前ぐらいだったので、もう1件ぐらい行けるかなと思いながら駅前を彷徨していたら、「焼鳥の秋吉」なる看板が目に入った。なんか聞いたことあるなと思いつつ入ると、ラストオーダー30分前なのに店内はほぼ満席の大盛況だった。活気があっていい店だと思いつつ、まずは生を注文した。
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 結局この店では、生ビール、一刻者のソーダ割り、純けい5本(雌の鶏、らしい)、心臓(豚)5本、漬物でストップした。普通にお腹いっぱいすぎたのである。昔だったらここの焼き鳥20本ぐらいいけたなと思いつつ、歳を実感した次第である。俺はこの間ずっと胃の縮退に抗って、体重がリバウンドするリスクも省みずパンパンに飯を食ってなんとか胃袋を鍛え直そうと努力してきたのだが、やはりどうしても限界があるようだ。こうなったら普通に痩せたほうがいいのかもなと諦めと悲しさを覚えつつ、ここは2000円でチェックした。
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 とぼとぼとホテルへ向かう途上で見つけた恐竜。街中にこんなんあるのすごいな。いつかレーニン像よろしく引き倒そう。いつまでも過去を引きずってはいけない(嘘だよ、ホントのことは過去にしかないよ)
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 歩いていると、あんまり人がいない。えっ、中心部でも過疎ってるのか……?と思っていたら、春風亭昇太が来るという案内を見て安心した。まだここにも人が来るのだ。
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 さて、ホテルである。俺の大好きなホテルであるドーミーインを朝食付きで予約した。禁煙のツインという最高の部屋を割り当ててもらってテンション爆上がりであったよ。最上階の温泉は、壺風呂がメチャクチャ俺に最適の温度で、20分ぐらい浸かってしまった。どういう体勢がいいかなと模索した結果、壺風呂の縁に肘とふくらはぎを乗っけて、上から見ると磔刑のキリストの鳩尾にメイウェザー並の一発を入れたかのような、尻がギリギリ湯船の底に浸かない程度に沈むという体勢が最高だと気づいた。雨に濡れながら入る温泉がいっちゃん気持ちいいのや。その後、風呂上がりにアイスをもらって、ビールを買って部屋で飲みました。アイスモナカ食いながら飲むビールも悪くはない。適当にふっくらすずめクラブとか見ていたらそのまま寝落ちしました。ちなみにこの時点で明日の旅程は全く決まっておりませんでした。

 朝飯は撮り忘れたのですが、ドーミーインにありがちな「ご当地グルメの鬼怒川ワールドスクエア」みたいな構成でした。海鮮丼も食ったし、ソースカツも食ったし、おろしそばも食ったので、とりあえずこれで万一旅行でしくじっても少なくとも飯の面で思い残すことはないなと確信した。あと、こういうビジホの朝飯でしか食わないヨーグルトとかフルーツとかメチャクチャ食べて、偏っていた食の天秤を急速に水平に持っていこうという無駄な努力を試みました。

 朝飯を食いながら、結局東尋坊は行ったしどこ行こうかなと思っていたのだが、そういえば福井に原発あるじゃんと気づいた。原発はやはり見ていて面白いものなので、原発を見に行こうと思い立ち、今日は敦賀に行くことを決めた。

 日本原電とか関西電力のウェブサイトで見ると、原発の近くに資料館みたいなものを置いているとのことなので、その辺りにいければなんか原発も一目見られるだろうと思った。問題はどうやって行くかだが、まあタイムズカーシェアがあるだろうねと高を括っていたら、まさかのどこの車両も予約で埋まっていた。仕方ねえ公共交通機関で行くかと思い、とりあえず福井から敦賀へ向かうことにした。

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 これはホテルから駅までの通り道にあった。「千歳くんはラムネ瓶のなか」というライトノベルの舞台が福井らしいのだが、残念ながら全く知りませんでした。まあこのライトノベルがすごい!を2年連続受賞しているということなので、斯界では有名なのだろうと拝察する。Wikipediaを見るとスクールカースト頂点くんが主人公らしいということであーぜってぇ読みたくねえと思ってしまった。今の若い世代はそういうのに歪んだ感情を持たずに読めるのか。人間の心も進化するんですね(進化心理学並感)。だっる。


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 その隣にあった、福井への新幹線延伸に合わせた駅前のクソデカタワマン建設光景。こうやって世の中はどんどん虚無になる。ラノベ脳とタワマン文学バカが蝟集する場としての福井ーーなんも言えねえっす。

 とまあ駅前の景色にもにょりながらも、福井駅に着く。敦賀原発の資料館へは敦賀駅からでもバスで行けるからええやろと思っていたのだがここで疑念が湧く。あれ、バスって普通に出てるのか? 時刻表を調べてみると、やはり7時のバスの後は12時までしかなく、復路のバスは17時からだという。流石に原発に5時間釘付けはしんどいので、急遽敦賀駅近辺でタイムズカーシェアが借りれないか模索したら、なんとプレミアムクラスの8人乗りのノアが空いていた。1人で8人乗りのクソデカ車を運転するのかよと思いながら、まあいいかと思い予約を入れる。

 とまあ、ここまでお読みの方はお分かりの通り、俺は旅が相当下手くそである。そもそも旅行の計画を全く立てていないので、本当に旅程が運次第になってしまっている。まあ、思い立った旅路なのでしょうがないが、これだと本当に近場の旅しかできないので、誰か旅行計画を立てるコツを教えてください。そういう新書があったら読みたいンゴねえ。

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 これはそんな旅下手30歳童貞ハゲ太郎を見下す恐竜博士。ブチ殺すぞ。

 

 さて、敦賀駅に着いて、普段のカーシェアではコンパクトカーしか運転しないため慣れないノアを駆りながら、敦賀半島を爆走した。やはりシーサイドをドライブするのはとても気持ちよく、昔みたいにタバコをふかしながら運転したいなと思ってしまった。ちなみにほとんど他の車と遭遇しなかった。人がいなくて原発しかないってコト!?

 

 さて、ここからは敦賀原子力館と美浜原発PRセンターを視察した感想を述べる。ちなみにどちらの施設でも写真を結構撮ったのだが、果たして載せていいのかわからなかったので今回は掲載しない。また原発の写真を撮ることはダメっぽかったので、俺の心に留めておく。敦賀(3・4号機の目処が立っていない以上)も美浜も最終的には廃止される原発ということなので、ある種の滅びの郷愁のようなものを感じながら眺めていた。とはいえ、廃止・廃炉プロセスは数十年かかるものなので、まだまだ全然見ることができるのだけど。
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敦賀原子力館>

 丘の先から敦賀原発が見える位置にあった。実は普通にどこが駐車場か分からずに迷っていたら関係者専用みたいなところに入ってしまい、血相変えた警備員に止められた。まあ、金曜の昼間にこんな変人が来たらテロか拡大自殺を疑うわな。ただ、そのぐらい案内やら標識やらに乏しいので、本当に客入れる気あるのか?という感じ。結局たどり着いたはいいが本当に一般用駐車場なのかも分からんところに車を停めました。

 館内では、原子力発電の一般的な説明のほか、敦賀原発の歴史、原発の構造、現在の廃止への取り組みなどが展示されている。個別にはなるほど勉強になるなとは思った。ただ、アトラクションみたいなのがほとんど調整中あるいは中止状態になっていたのが残念だった。

 子ども向けのアトラクションも恥も外聞もなくやってみた。自分でレバーを回しながら電気を発電して新幹線の模型をレールで動かすのは面白かった。あと、全然原発と関係ないUFOキャッチャーとかもあったのだが、なんかドラえもんとかプーさんとかパチモン感の否めないキャラデザで微妙になった(ちいかわがメチャクチャあった。)。

 それと、原発関連の資料ということで本が10冊ぐらい置いてあった。一応全ての本をパラパラとめくって、目次から拾い読みしたのだが、いずれも脱原発政策の批判か、中立的なエネルギーに関する記述だけで、脱原発の論者に関する本は一冊も置いてなかった。ドイツの脱原発政策は日本人には真似できないとか、今後のエネルギーミックスや脱炭素の観点から原発は必要とか、まあそりゃそうなのですが。

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 外のトイレで男女の標識のうち男が死んでいた。多分近い未来を暗示していて怖いが、男が滅びれば人類も滅ぶので良い。逆もまた然り。
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<美浜原子力PRセンター>

 こちらは橋を渡れば美浜原発で、その手前に立っていた。2階からは美浜原発を見渡すことができたので、建屋などをじっくりと見物できた。

 ここはすごく応対がよく、受付の方がパンフレットを渡してくれた。また、展示資料もわりかし整理されており、説明は敦賀とほとんど同じなのだが、割とわかりやすくできていたと思う(というか俺が最初に敦賀で多少なりとも理解を深めていただけかもしれないが。)。個人的には、原子炉内部の構造とかを原寸大の模型等でわかりやすく展示しているのがありがたかった。

 

 どちらの施設にも、地域住民との交流!みたいなのがテーマにあるらしく、地域の品とかをこれみよがしに掲げていたが、あんなに一般市民から隔絶された原発を念頭に「交流」なんてどの面下げて……という気持ちがある。

 それはそれとして、個人的には原発は必要だと思っている。ただ、東京の霞が関を更地にして原発を建てるべきだと思う。海辺に建てなきゃいけないだって? じゃあ敦賀半島霞が関全部移転したらええんや。

 
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 これは敦賀気比神宮というところ。何とこの大鳥居木造なんですって。すごい。原発と同じく人間の頑張りが出ているものには感銘を受けるので。感銘を受けすぎて賽銭で500円入れちゃったよ。500円入れなかったらコインパーキングで1万円しかないから遠くの店でいらんもん買ってお札を崩さずに済んだのですが……。

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 パ軒です。ヨーロッパ軒総本店にてスペシャル三種盛りセット+牛カツトッピングを頼みました(1950円)。これがうますぎた。ソースがメチャクチャご飯と合うし、そもそもこの揚げ物たちのレベルが高い。衣がメチャクチャよく、噛むたびにいいかほりがしますのよ。

 

 とまあ、福井を満喫しまして、あとは帰りました。夕飯は地元でココイチを食いましたs。パリパリチキン+手仕込みとんかつ+ほうれんそう、これが最強や。

 何だこのイカれた旅程は、と思うでしょう。永平寺とか東尋坊とか一乗谷とか鯖江とかもっといろいろ行くところあるでしょうと皆さん言うかもしれません。子答えて曰く、うるせえ! 俺には俺の旅路があるんだよ! 君だけの旅路を作れっていうSuaraの教えがずっと心に刺さったまま生きてんだこちとら。思うまま足滑らせて描く未来へとぶつかっていけ。

 まあ総評ですと、福井はとてもいいところだと思いました。普通にdigり甲斐がありますよね。今度行く時は恐竜とか文化とかそういうのを攻めてみたいと思います。何かラーメンとかも食いてえな。

 それと教訓。マジで旅の計画は事前にしっかり立ててちゃんと準備しよう。特に乗り物類は早めに予約しないと全部詰むわ。運任せにしてたらいつかスゲェ痛い目をみると思います。

 

【映画】

 『映画ドラえもん のび太の地球交響楽(シンフォニー)』を見ました。福井からとんぼ返りしてレイトショーで。これが俺の生き様や!!!!!

 最初に総評を述べると、かなりの意欲作だとは思うので、その心意気は率直に評価したい。そして、近年の映画に比してもそれなりにウェルメイドな出来栄えで、かなり周到に伏線を張っているので、多分大体の子どもたちを置き去りにしながらも大人も楽しめるような作品には仕上がっているとは思う。ただし、(子どもたちを置き去りにしているということと関連するが)これは本当にドラえもんというフォーマットでやる必要があったのかというとかなりの疑問がある。なお、俺の邪推では、誰かが「ドラえもんで音楽映画やりましょうや! ONE PIECE FILM REDみたいな奴!」とかのたまったのではないかと思っている。

 以下、ネタバレガンガンするので注意してください。

 

 あらすじ。のび太たちは学校の音楽会に向けてリコーダーを練習するが、案の定のび太はうまく吹けない。調子っぱずれな音が「のんびりのほほんのび太の「の」」とからかわれる始末。そんなリコーダーに嫌気がさしたのび太は、「あらかじめ日記」という書けばそのとおりの出来事が起きる最強デスノートみたいなひみつ道具を使い、音楽の授業を延期する「音楽がなくなった」とあらかじめ日記に記す。音楽の授業はなくなるが、「音楽」そのものもなくなってしまったことで世界中であらゆる不都合が生じる。ドラえもんがあらかじめ日記のページを破り去ることで何とか元通りに戻し、道具の力でなく自分で練習しないといけないとのび太を諭す。のび太は河原でリコーダーを練習するがまたしても「の」の音を出してしまう。するとその音を気に入った不思議な少女が、のび太にもっとリコーダーを吹くようせがむ。のび太がリコーダーを吹くと、少女も美しい歌声で応じる。歌声に感動したのび太が目を開けると、既に少女はいない。

 翌日ものび太はみんなと一緒に練習するが、なかなかうまく吹けない。そんな時に昨日の少女が合流し、少女の歌に導かれるようにみんなでリコーダーを吹く。そこにドラえもんがロボッター音楽隊とムード盛り上げ楽団を引っ提げて登場し、最高に気持ちいい音楽を奏でることに成功する。またしても少女は消えてしまうが、その夜、のび太たちに「夜学校の音楽室に来てください」という案内状が。言われたとおり音楽室に行くと、そこでのび太たちは宇宙に引き上げられ、そこで先ほどの少女とロボットと会う。少女はミッカ、ロボットはチャペックといい、彼らは惑星ムジカで作られた人工衛星「ファーレの殿堂」で長きにわたるコールドスリープから目覚めたのだという。ファーレとは地球でいう音楽のことで、この殿堂を音楽で満たすことで衛星の中で休止している様々な機能が復活するので、その手伝いをしてほしいと頼まれたのび太たち。チャペックはのび太たちの演奏を聴いて彼らを伝説の「ヴィルトゥオーゾ」だと勘違いしたのだが、事の成り行き上のび太たちは楽器を用いて協力することになる(のび太はリコーダー、しずかちゃんは打楽器(主にマリンバ)、スネ夫はバイオリン、ジャイアンはチューバ)。のび太以外の3人は徐々にうまくなっていくが、のび太は一向にリコーダーが吹けないまま。それでものび太たちは様々なエリアや機能を音楽を使って再起動していく中で、この「ファーレの殿堂」は実は一種の船で、惑星ムジカが滅びた際の生き残りがいたこと、今はミッカ以外は全員亡くなったことなどが明らかになる。

 惑星ムジカの滅んだのは、「ノイズ」という宇宙の怪物が原因だった。ムジカはファーレ=音楽をエネルギーとして栄えていたが、そのエネルギーを独占しようとした勢力が強権的な手法でファーレを抑え込み、ムジカにファーレが鳴らなくなってしまった。この鳴らなくなった瞬間にノイズがムジカに襲い掛かったことが、惑星が滅んだ要因であることが明かされる。ノイズはファーレを嫌うので、ファーレが満ちたムジカには手が出せなかったのだ。そして、ノイズは地球にも迫っていた。というのも、地球もムジカ同様本来であればノイズが手を出せないのだが、のび太があらかじめ日記を使って音楽を短期間ながら消し去ったことによってノイズが手を出せるようになったのである。地球を守るために、ノイズが嫌う音楽を奏でる必要があるが、それにはかつて数万年前に地球へと脱出したミッカの双子の妹が持っていたムジカの縦笛で、ファーレの殿堂を完全に再起動する必要があるという。そのムジカの縦笛をなんやかんやで手に入れたのび太たちは、ノイズの猛攻をしのぎつつ、ミッカがムジカの縦笛を完全に吹くことでファーレの殿堂を再起動させようとしていた。しかし、縦笛は最後の音が欠けており、再起動まであと一歩のところで手詰まりとなる。そこにのび太が偶然「の」の音を奏でた途端、ファーレの殿堂が再起動する。失われた音は、まさにのび太の「の」だったのだ。

 ファーレの殿堂は巨大な楽器としての機能を有しているので、ノイズへの有効な対抗策になりえた。殿堂にいるロボットたちと、のび太たちが力を合わせ、チャペックの作曲になる「地球交響楽(シンフォニー)」を奏でてノイズを撃退しようとする。しかし、ノイズはそれすらも抑え込み、殿堂を破壊しのび太たちを宇宙空間に投げ出す。無音の宇宙空間では音楽を奏でることがままならないためノイズに手も足も出ないのび太たちだったが、ここであること(後述)がきっかけで宇宙空間であるのに音が出て、地球から生じる様々な音も追い風となったことで、のび太たちはノイズとの最終決戦に挑む。地球・ファーレの殿堂・のび太たちのシンフォニーが、最後にはノイズを完全に打ち破り、無事地球は守られた――というのが大筋のところである。

 

 次に評価。先に述べたように、本作は意欲作である。まず、これまでの大長編とは異なり直接的な戦闘描写はほとんどないに等しい。ノイズとの決戦も、実際には音楽を奏でているだけで、直接的に攻撃しているわけではない。これは直近2022の『宇宙小戦争』や2023の『空の理想郷』とはかなり異なった作風である。あえて冒険ものにありがちな悪玉との戦いみたいなものを前景に出さなくても大長編はできるんだということを示した点では、本作はこれまでのドラえもん大長編とは一線を画しており、この点はそれなりに評価してもよい。また、本作はドラえもん+音楽映画なので、劇中音楽が重要なのであるが、これは極めてよいものに仕上がっていると思う。個人的にはミッカがノイズとの最終決戦時に「夢をかなえてドラえもん」をリフレインした時は爆上がりしたことは否めない。マジでそう、そういう描写に俺は弱いので。

 他方、そうした意欲作であるがゆえかもしれないが、全般的に内容がかなり難しい。これ本当に子ども理解できるのかと思う。少なくとも俺が12歳時点だった時は、半分も理解できない消化不良感を抱えたまま映画館を後にすると思う。まず、音楽をあえて「ファーレ」と言い換える意味があったのか。確かに別の宇宙で音楽を指し示す言葉が違うというのは、別にSF的にはよくある設定ではあるが、あえてそれを導入する必要性があるのかというと微妙(それだと、ヴィルトゥオーゾとかの言葉が無批判にムジカ側から使われているのに違和感を覚えるべきだが。)。さらに、敵役であるノイズの意図が明白でないのも気になった。というか、恐らくそういう意図もなく端的に破壊もしくは摂取として惑星を食いつくすマジのバケモンだとしたら、多分歴代のドラえもん大長編の中でも屈指のヤベェ敵だと思う。そういう意味でも従来の「悪玉」という感じがないので、この点も子どもからしたら「?」となるような気がする。そして、何故宇宙空間で音が聞こえるようになったかという点について。これはのび太が中盤、夏休みの宿題をやっている最中に日記の宿題と勘違いして「あらかじめ日記」に「みんなで風呂に入った。楽しかった」と書いたことに起因する。この「みんな」が地球全体、宇宙全体ということを指しているようで、あらかじめ日記が効力を発揮した途端、ノイズのいる宇宙ごとお風呂場に移動したのである(これには時空間チェンジャーというひみつ道具が偶然発動して、宇宙ごとのび太の家の風呂場に移動することで達成された。)。宇宙を囲む風呂場で音が反響し、ノイズへの音楽攻撃が通ったと考えられるのである。時空間チェンジャーという道具の難しさもさることながら、ちょっと伏線が周到過ぎて流石に子どもからしたら「ポカン?」となっているのではないだろうか。

 何で俺が子どもの理解可能性を重視するかというと、結局ドラえもんというのは子どもたちのためにあるべきなので、大人がマスかいてあえて知的負荷のかかる作品にしなくてもいいのである。大人には大人のための作品群が一生には見切れないほどたくさんあるのでそれを見たらええ。そういう意味では、大長編ならではの冒険や戦い、友情などの要素がないとは言わないが、極めて稀薄な印象を受ける。本作が大人にとってそれなりに見応えのある作品に仕上がっているのだとしても、それが子どもにとって消化不良感を残すようであれば、残念ながらその点はマイナス評価とせざるを得ないだろう。もちろん、大人も感心し、子どもも楽しめるような映画を作るのはメチャクチャ難しいのだが、ドラえもん大長編の多くは成功していることを考えると、果たして今作のようなあり方でいいのだろうかというのは疑問なしとはしない。

 個人的には破綻を感じることもあった。別にドラえもんの映画なんてツッコミどころはメチャクチャあるので、そういう細かい部分をあげつらうことはしない。ただ、気になったのが、本作では個々の「音」を出しっぱなしにするのではなくそれを「音楽」として統一していく過程の重要さが何度も強調されている。タキレンという滝廉太郎もどきのロボットが悲しんでいるので喜ばせるためにのび太たちは演奏を始めるが、タキレンは喜びの歌にもっと悲しむ。しかし、調子はずれののび太の音が意外と哀愁ただようものになっており、それにしずかちゃんたちも合わせることによってタキレンは落ち着きを取り戻す。別のシーンでは、ノイズに壊されたドラえもんを治すために演奏するのび太たちだったが、のび太以外の上達しまくった3人は自分の音に固執してうまく演奏できず苛立ち、ジャイアンは依然調子はずれののび太に「もう演奏するな」と八つ当たりに近いことを言うのだが、のび太はそれを押しのけて「僕だって練習したんだ! みんなと演奏したいんだ! ドラえもんを治したいんだ!」と言って演奏を続ける。それに心を打たれた3人が、のび太に合わせる形で演奏を再開することによって、音がうまく重なりあい、ドラえもんにとりついたノイズを除去することができる。このような形で本作は個別の「音」を「音楽」、ファーレにまとめるには皆が気持ちを合わせることが大事というメッセージがあるように思ったのだが、終盤のノイズとの決戦時に地球のすべての音を総動員してのび太たちに加勢させるやり方はそれとはまったく正反対であった。その音とは、普通の音楽やクラップはもちろん、包丁がまな板を叩く音なんかも含まれる。つまり、それは個別の音の総和に過ぎないというか、上のシーンにあったような「合わせる」意識はない。百歩譲ってノイズによって支配される無音の世界を拒む「多様な音の溢れる世界」という突きつけ方だと解することも不可能ではないが、それは流石に唐突過ぎる気がしないでもない。

 いろいろとストーリー的な面では厳しいことを述べたが、大長編ドラえもんに期待しうる「ぬるぬる動くドラえもんたち」(通常アニメ版ドラえもんは30fpsだが、映画版ドラえもんは120fpsみたいな)はしっかりと健在であり、ドラえもんたちが魅力的に描かれている点はやはりよかった。また、今作のさりげない演出(序盤で様々な音を強調するようなシーン)や、織り込まれた多数の伏線をしっかりと無理なく回収していく脚本の洗練など個々の面では評価すべき点は多い。本作が意欲作であることも踏まえ、そうした労を多としたいとは思う。いずれにせよ、一味違ったドラえもん大長編を見たいという人にはオススメだが、毎年のお楽しみを期待していると変に驚く結果になるかもしれないというのは言えるところだと思う。

 最期に、本作について厳しいことを述べた裏の理由を公平を期して記す。俺は学校教育の音楽が大嫌いなんだよバーカ!!!!!!!!

 

 余談。ほぼ毎年俺が見ている「もうひとつ」の大長編については、日を改めてまた。

20240228

【労働】

 無です。本当にいないものとして扱われているので。まあ別にいいんですが。俺にはもう読書とかゲームとかがあればいいんで。人間が恋しくなったらオモコロチャンネルとふっくらすずめクラブ観るし、大学の友達もまだいるから……。

 

【ニュース】

首相「捨て身」の政倫審出席 深まる孤立、党内に渦巻く疑心暗鬼:朝日新聞デジタル

 岸田、時たま意味分からん時に謎のギャンブラー精神を発揮するの本当に面白い。自民党きってのトリックスターだと思う。ただ、残念ながら岸田には麻生同様墓堀人としての役割しか期待し得ないと思うが。

「岸田派の解散表明に続く各派閥の解散表明以降、自民党内は、誰が敵か味方が分からない疑心暗鬼が渦巻く。そして、政権の役職に就く幹部たちはおのおのの役割を果たそうとせず、首相は孤立感を深めている。首相は最近、周囲にこうこぼしたことがあるという。「誰もやってくれないんだ。やるべき人は色々いるはずなのに……」」という記述が悲しさを引き立てますね。

 ところで、各紙読んでても自民党はもう組織として終わっているような感じがすごいのだが、どいつもこいつも何もしないあたり、派閥による疑似政権交代が曲がりなりにもあった昔の時代の活力を取り戻した方がいいんじゃないだろうか。集団レイプする人間は元気があっていいとのたまった奴がいたが、岸田を集団レイプしても一向に元気を取り戻さないというのはどういうわけか。

 

経済安保の身辺調査「法案審議こじれる」 政府の狙いと専門家の懸念:朝日新聞デジタル

 対決法案ですね。俺はわが国の体制で十分な手当てができるのかは極めて疑問に思うところだが、「ある大手素材メーカー幹部は「本来、秘匿性の高い情報は罰則付きの法律ではなく、企業努力で守るものだ」と訴える。」というのも何か素朴な話してんなと思う。お前らの企業努力なんか知らねえよ賃上げでもやってろバカという気持ち。その意味では、経団連の方がよっぽど賢明な態度だろう。

 

米イスラエル大使館前で空軍関係者が焼身自殺 ガザ侵攻への抗議か [イスラエル・パレスチナ問題]:朝日新聞デジタル

 こういう気概を持って生き、死んでいきたいと思った若気の至りを懐かしく思う。俺も職場で抗議の自殺がしたかったけど自殺できねえんだよな。悲しいよ。

 

スウェーデンの加盟、ロシアの「オウンゴール」 鶴岡路人さんの分析 [ウクライナ情勢]:朝日新聞デジタル

 まあグッドニュースではあるが、ウクライナの状況を考えると手放しでは喜べない。国際社会がウクライナを守り切れるのか、といった問いかけが深刻なものになりつつある中で、ウクライナ後を見据えた集団安全保障の深化ともとれる。仮にもしウクライナが不利な状況を覆すことなくロシアとの戦争を終えるということになれば、NATOの圏外の国は事実上ロシアの衛星国にならざるを得ないだろう。ウクライナの血で染め上げたカーテンで再度東西を仕切るのだとしたら、それは何ともまあ悲劇的な歴史の再演だなと思います。

 

【読書】

 『ギボン自伝』(ちくま学芸文庫、1999)を読了しました。最初の記述は「有閑階級の喜びを知りやがって!」と思いながら読んでいたが、だんだんと面白くなってきて、読み終えるのが少し名残惜しかったですね。自伝文学の中の逸品という気がします。

 全体の概観を述べます。ギボンの生涯は、虚弱だったが読書欲は旺盛だった幼少期、オックスフォードへの入学とその脱退(カトリックへの改宗が原因)、そしてスイス・ローザンヌでの寄留での知的覚醒とプロテスタントへの再改宗、故国イギリスへ戻っての軍隊生活、再度の大陸周遊の中でイタリア・ローマのカピトリーノの丘にて『衰亡史』の著述を決心したこと、そしてイギリスに戻って国会議員としても活動しつつさらには『衰亡史』前半三巻を上梓し、最後にまたローザンヌに戻って田舎の貴族暮らしを満喫しながら『衰亡史』後半を完成させる、という流れになっている。ギボンの生活については、あまり働く必要のない程度の余裕はあるが、大貴族ほど大金持ちではなかった(祖父の蓄財を父の浪費でほぼなくしたことが原因)。常に自分の支出(書籍代や階級にふさわしいパーティー代)を賄うほど自身の不労所得が足りるかどうかの心配は常にしなければならないという状況ではあったが、ギボンはこの境遇に満足していた。「思うに私の資産の黄金の中庸こそは、私の精励を発揮させた当の原因であった。実際に重要で立派な作品が屋根裏部屋や宮殿で書かれた例は稀である。余暇と資産に恵まれた紳士だけが、名誉ある報酬を当てにして仕事への意欲に発奮する。」(p263)という文言に代表される見解が繰り返し述べられており、自身の境遇こそが自分を「ローマ帝国の史家」たらしめたのだという確信が随所で披瀝される(なお、貧乏な著作家の作品も貧相であるという見解も同様に繰り返されるが、これはギボンの言い過ぎだと思う。)。

 もうひとつの重要な要因である余暇について言えば、ギボンは昼間の時間はなるべく著述や読書に充てるように努力していたようだ。なお、家庭生活については独身である。ギボンはスイスで後のネッケル夫人となるキュルショ嬢との初恋をするが、父親の反対もあり「恋人として嘆息し、息子として服従」を選んで別れて以降は、結婚については一度も考えなかったという(晩年は仲のよかったスイスの貴族デヴェルダンと、彼が死ぬまで共同生活を送っていた。)。それでも、上流社会の社交については進んで参加していたし、ジョンソンらの文芸クラブにも顔を出していたようだが、他方で父親や母親の話し相手になることや、父親の知り合いに顔を出すみたいなことはなるべく避けたがっていたことが述懐される(ここら辺は俺と似ている。)。軍隊生活においても「時間を盗む」と表現しているが、なるべく隙間時間を見つけては読書や調査、著述のための時間を捻出しようと努力している態度は随所に見受けられるので、やはり彼にとっては学究とそれ以外の活動のバランシングが極めて重要だったのだろう(とはいえ、ギボンは一流の社交人でもあったし、軍隊生活や議会活動においても歴史家に必要な学びが得られたと殊勝なことを述べている。)。現代人にはなかなか難しい生活ではある一方で、自身の知的ノウハウや思考の軌跡もきちんと伝えている点では、参考になるところもあるかもしれないが、端的にいちイギリス貴族の面白生活録として人間の興味をそそると思う。

 なお、訳者解説に詳しいが、本書はもともと7つの草稿に分かれており、ギボンの畏友であるシェフィールド卿が文学的な編集(意図的な加筆や脚色、削除も含む)を行った版が普及していた。このちくま学芸文庫版の底本は、きちんと学術的な批評を経たものとなっているようだが、ギボンの発言にはしばし一貫してなさや繰り返しも見受けられるので、やはり本書はどちらかというと未完成品なのだろう。それでもそれなりに読ませるのはこのイギリスの傑出した史家のなせる業か。

 以下では、前日から続けて第5章以降の気になったあれこれを書いていきたいと思います。

 「第5章 「文学研究論」、国民軍参加」。「私は職業上の規則的な義務を生計の基礎にする必要性をついぞ感じなかった。毎日の時間が快適に充たされる私には、多くの我が同国人が感ずる空虚な生活の退屈さは無縁であった。」(p145)普通に「殺してェ……」と思いました(そう思ったので本にもそう書き込んだ。これをもし古本で売ることになったら次の読者にはすまないと先に謝っておく。)。

 また、以下の著述も書き留めておきたい。「私は今まで自分が単なる虚栄心の動機で書物を購入したことが一回もなく、全ての書巻はそれが私の書棚に収まるに先立って必ず実際に読まれたか充分に点検されたこと、それ故に私は間もなく老プリニウスの寛厚な格言nullum esse librum tammalum ut non ex aliqua parte prodesset.(ドレホドノ悪書モ必ズヤ何ラカノ益ヲ発揮ス)を採用するに至った、と言い添える。ギリシア語の学習について私は、毎日曜に家族と一緒に教会へ行って新約旧約の聖書の詠唱に加わる以外には、まだ再開する閑暇と勇気を持たなかった。私のラテン語著作者の通読も必ずしも熱心に実行された訳ではないが、キケロ、クウィンティリアヌス、リウィウス、タキトゥスオウィディウス等々の最良の版本の相続もしくは購入にもとづく取得の好機会に、私は大抵これらに読み耽った。私は抜粋を作って感想を書付ける有用な方法を常に守った。」(pp151-2)つまり、①積読はしない、②ちゃんと通読する、③抜粋と感想を作るという、メチャクチャ骨の折れる読書行為をしていたわけである。すごいねえ。でもお前前章で抜き書きはあんま意味ないかも~とか言ってなかったっけ?(これが本書の草稿がゆえの不統一である)

 こんな勉学の果てに、ギボンは最初の著作であるフランス語の『文学研究論』を発表するが、その出来栄えは若書きとしてはまあまあよく書けているとはみるが、自伝執筆時の老成した評価は手厳しい。「私の「論考」の最も深刻な欠陥は、常に読者の注意を疲労させて往々はぐらかす傾向の、一種の曖昧かつ唐突な表現である。厳密かつ正当な定義の代わりに、題名である「文学」なる語の意味さえも漫然と多種多様に使用されて、数多くの評言や歴史的批判的哲学的な事例が何ら決った方法も連結もないまま次々に積み重ねられて、一部の導入的な箇所を除けば残りの各章は順序を入れ換えようが場所を移そうが全く変りない有様である。多くの文章はわざと曖昧さを気取っていてbrevis esse laboro, obscurus fio(私ハ簡潔サヲ心掛ケテ晦渋ニ終ル)、ありきたりの観念をわざと勿体ぶった警句的な短かさで表現しようとする欲望でゆがめられている。悲しいかな、モンテスキューの猿真似のが何たる失敗に終ったことか!」(pp159-160)。こんな真摯な自己批判を現代の書き手に期待できるだろうか。

 第6章「大陸周遊、ベリトンとロンドン、父親の死」では、軍隊生活で遅れた大陸ヨーロッパへの漫遊旅行を実施する。フランスではディドロダランベール、百科全書派の知遇を得たり、イタリアではローマなどを観光したりと楽しくやっていたが、父親から思ったより早く呼び戻され、鬱々とした気持ちで過ごすことになる。この時ギボンは30歳弱なのだが、周りと比べて自分が「無位無冠の影の薄い動かぬ存在」であることに焦燥感を抱くようになる。とはいえ、「勉学の尽きぬ喜びには時間がいくらあっても足りない、と感ずる人間には人生の無聊の惨めさは全く無縁だった。」(pp210-1)と嘯くあたりがギボンらしい(俺もこうありたいものだ)。何か歴史を書こうと思い立ち、スイスとフィレンツェの歴史に魅せられていたギボンは、前者の歴史を書くことに着手するも、最終的には草稿を朗読した際に受けた酷評に納得し、その企図を断念するに至る。こうした紆余曲折を経て、ついに「衰亡史」の準備に取り掛かったギボンは、ラテン語とイタリア語の古典を徹底的に精読することに取りかかる。「一定の年齢になると大抵の者には、価値ある新刊物がその唯一の滋養になる。それ故に最も厳格な学徒といえども、時には彼自身の好奇心を満足させるために、社交界でもてはやされる話題を作ろうとして自分の持場を離れたい誘惑にかられる。」(p223)と書かれるように、新刊をたまに読みたくなるという気持ちに触れられているのが、この部分は「止めてくれカカシ その術は俺に効く」となってしまった……。

 第7章「ロンドン生活、議会、「ローマ帝国衰亡史」」では、父の死をきっかけにギボンは自身の邸宅を人に貸して、その収入を当て込んでロンドンに住む。完成させたローマ帝国衰亡史第一巻はヒュームからも激賞されるなどイギリスで大反響を呼び、そのキリスト教批判的な記述が篤信家たちの批判を浴びるものの、概ね好評をもって迎えられた。この第一巻の成功の後、化学を勉強したり、アリウス派論争で頭おかしくなったり、コンスタンティヌス大帝時代の混沌に付き合ったりで少し時間が空いたが、第二巻、第三巻も上梓する。

 そして第8章「ローザンヌ」で、ついにギボンはその終の住処をスイス・ローザンヌに定める。畏友デヴェルダンとともに家を持ち、スイス基準では富裕層という立場で悠々自適な暮らしを送った。ローザンヌで衰亡史を書き終えると、ロンドンに一度舞い戻って衰亡史の後半部分を出版、そしてこの自伝執筆に取りかかる。ここからは自伝以降のシェフィールド卿の記述だが、自伝の出版を模索した最後のイギリス旅行の最中、彼は突然持病が極めて悪化し客死することになる。

 最後に、力の入った中野好之による訳者解説でも触れられていた興味深い事実を1つ。ギボンの『自伝』が辿った運命を克明に記載しつつ、その文学的価値などについても適切に評価していると思う。『自伝』はシェフィールド卿がいくつかの草稿を文学的には優れた編集をするが、死後ギボン関連の文書を公開しないという遺言を残したがために、19世紀のギボン研究はシェフィールド版の自伝をうのみにせざるを得なかった。第2代のシェフィールド卿が厚意で地元の町医者に草稿を見せたり第3代のシェフィールド卿がこの遺言を破棄したりしたことで、ようやく草稿の批判的研究がスタートしたというのは驚いた。

 

【雑感】

 何もなし。ホンマにブログ君さあ、時間どろぼうすぎるぞよ。

20240227

 今日の更新は飲みに行くので薄め。悪しからず(といっても特に読まれているわけでもないのだが。見る限りアクセス数は本当に「場末」っぽいので。)。

 

【労働】

 ちょっとしんどいので珍しく在宅勤務をするなど。在宅勤務の時に食う昼飯が一番うまいんだわさ。風吹きすぎワロタ

 

【ニュース】

 今日はちょっと社会を云々したい気分なので社会厚めにいきます。

ホスト代捻出狙いか 30歳女を強殺容疑で再逮捕へ 名古屋男性遺棄 [愛知県]:朝日新聞デジタル

 「捜査関係者によると、内田容疑者は昨年7月以降に同市内のホストクラブで1千万円超を費消し、売掛金(ツケ)もあった。」

 ↑ムチャクチャすぎるだろ。統一教会・ホスト・納税は日本三大頭の悪い財産処分という感じがある。

桐島容疑者の逃走半世紀、なぜ見つからなかったか 「公安部の負け」:朝日新聞デジタル

 「公安部幹部の1人は「そのまま静かに死んでしまえばよかったのを、最後に名乗ったのは自己顕示欲だ。言いたいことがあるなら逃げ隠れせずに主張すればよかった」と言う。

 ↑やいざまあみろ公安めという気持ち。それはそれとして、追っている犯人が静かに死んじまえって警察としての役割を普通に放棄していてワロタ。恥ずかしいと思わんのかねこいつらは。

覚醒剤密売容疑で55歳組員逮捕、81歳の母「かわいい息子のため」:朝日新聞デジタル

 「覚醒剤を売るのは悪いことだと知っていたが、信裕はそれで生活していた。ダメだとわかっていたが、かわいい信裕のためにやりました」

 ↑これが母親の供述らしいが、そのためには他の人の人生を終わらせてもいいらしい。人間社会に子どもを送り出すなよ、森に帰れ。多分森サイドも迷惑だろうが……。

膨らむTSMCへの補助額 「防波堤も必要」財務省が突きつけた条件:朝日新聞デジタル

 「財務省主計局は、近年の経産省の手法を苦々しく思っていた。「彼らは国土交通省農林水産省と違って、私たちとまじめに予算の議論をしないんです。官邸など、上にあげて『もう決まったから予算を出せ』とおろしてくる。まるでATMの扱いですよ」。財務省を疎んじ経産省を重用した第二次安倍政権以降、そうした傾向が強まった。」

 「「経産官僚は優秀だけど、短期集中突破で持続性がないんです」。まるで高校の文化祭の実行委員のようだと感じた。「短時間でワーッとやるけど文化祭が終わったら、あとは関係ナシなんです」。経産官僚は「弾を込める」「仕掛ける」という言葉をよく使う。前任者の仕事を引き継ぐよりも、新しい政策を打ち出したがる。」(引用者注:2つ目の引用部分のカッコ内は萩生田発言)

 ↑ワロタ。彼女の財布からパチの金を抜いて咎められたら殴りかかるし、セックスする時はゴムせずに無責任中出しする最低のDV彼氏みたいな官庁が霞が関にあるらしいね……。こんな奴と共依存する彼女=国もどうかしてるぞ。

 

【読書】

 朝読書をサボったので現時点ではなし。

 

【雑感】

 何か俺の政治的主張ってどこにあるんだろうなと思っている。絶対にリベラルと同一視されたくないという強い気持ちがある一方で、この間のエントリでの社会への評言はだいぶリベラル左派と重なるところがある。でもリベラル左派ではないんだよな。

 大学の知己と夕飯。こういう時間を大事にしたいわね。本当に幸せな瞬間はこういう時ぐらいしかない。これがなくなったら多分読書に全振りするしかない。この身が朽ち果てるまで孤独の痛みをアイシングし続ける。

20240226

【労働】

 小さな成功を積み重ねる。大きな失敗をしない。これだけの素朴な毎日。そういう一日があればいいなと思ったのですが、たまたま今日だった。だが俺はこの職場に対する信頼が絶望的なまでに稀薄なので明日がどうなるか全く分からない。

 

【ニュース】

トランプ氏「私は誇り高い反体制派だ」 ナワリヌイ氏の境遇を意識か [アメリカ大統領選挙2024]:朝日新聞デジタル

 二度の世界大戦で思う存分殺し合った上で、それでも何故人間は生き続けなければならないのかということを考えてきた積み重ねを無に帰すほど零落した世界にふさわしい大統領かもしれませんね。シェイクスピア薔薇戦争というカオスに「絢爛たる悲惨」を見たわけだが、むしろホッブズが述べたような「孤独で、貧しく、卑劣で、残酷で、短い人生を送る」ような世界ですよね。問題は、これが自然状態でもなんでもなく、文明が最高に進展した結果ということなんですが……。

 

倒産相次ぐのに…利益率高い?根拠データに疑問も 訪問介護報酬改定:朝日新聞デジタル

【そもそも解説】介護サービス、処遇改善の「加算」はどんな仕組み?:朝日新聞デジタル

 厚労省君にはデータの関係では前科がありますからね。いずれ訪問介護の人たちが徒党を組んでジジイババアを殺して金品を奪う羅生門の領域展開みたいなことになってはじめてこの国はコンサルに無批判に金を落としてきたことを後悔するような気がします。

 

何度も破られる国際法は「不存在」なのか 言論で折り合う精神を再び:朝日新聞デジタル

 俺は朝日新聞を思想上の仮想敵だと思っているので、あんまり褒めたくないのだが、この田島記者の目の付け所には毎回感心している。細谷雄一のX(旧Twitter)を昔見てた時に確か細谷ゼミ出身ということが書かれていたが、そこで得た知識が遺憾なく発揮されていると思う。所属を見ると文化部で読書等を担当されているということで、これは適材適所なのかなと思いました。

 

ソニーに「白羽の矢が立った」 TSMC進出を推した二人三脚の関係:朝日新聞デジタル

 連載二回目。なるほど勉強になる。

 

【読書】

 最近新刊ばっかり読んでいるので、こっからは無限の積読消化コーナーに参ります。そろそろ本当にヤバくなってきたし、積読を解消しないと新しく本を買えないとかそういう縛りをかける必要がありそう。それに、本当のことは過去にしかないので、やっぱり時の試練を耐えた本を読んだ方がいいんですよね(すっとぼけ)。

 というわけで、実は読んだことがなかった『ギボン自伝』(ちくま学芸文庫、1999)を読んでいます。『ローマ帝国衰亡史』(これも近々読みます)の著者にして、イギリスの古き良きジェントリ君の生活と意見が述べられています。今日は第4章まで読みました。序章で、この自伝が元々は草稿だったと知りびっくりしました(この「だったと知りびっくりしました」は2024年2月27日段階での追記です。まさか草稿に触れる言及が草稿レベルの状態だったとは笑えませんね……)。

 「第1章 家系」は現代人にはあまりオススメしません。何故ならここを読むだけでこの鼻持ちならない書き手のことが死ぬほど嫌いになるので。家系のことはひけらかして当然やねんみたいな話をされても困るんだよな。お前の家系のことなんか知るかという気持ちしかないので。ギボン自身は武人貴族の家系よりも文人として令名を馳せた貴族の家系の方が誇らしいようで、小説家フィールディングの先祖がハプスブルク家だとして、ハプスブルクの栄光よりも『トム・ジョーンズ』の方が後世に残るなんて嘯いている。が、中野好之による訳注でフィールディングがハプスブルク系であるという説は意図的な捏造であると実証されていると指摘されており、「うはwwwwざまぁwww」とVIPPERのように喜んでしまった。「我々の女系の側の生みの親全員の一点の曇りなき貞節」(p18)によって家系の正統性が確かになるという、ミソジニストの俺がビックリするぐらい最低なことをのたまっているが、残念ながら普通に偽造とかでもダメになるんやで勉強になったなエドワード君よ。ほかにも、祖父より前の著述については怪しいと目される点もあるようだ。ただ、南海会社泡沫事件に巻き込まれて財産を没収されたがその後普通に持ち直した祖父と、それを普通に食い潰した父親、優しい独身の叔母さんに育てられた話なんかは、ギボンの実体験もあってか興味深く読みました。

 「第2章 少年期 ウェストミンスタ校」では、虚弱だったが読書欲旺盛だった少年時代が語られる。「私が三歳と四歳の間であったに相違ない時期に、サウサムプトンの議席を目指す私の父親の選挙戦と、たまたま笞打たれた私が彼の対抗馬たちの名前を叫んで子供っぽい復讐を遂げたことは、私が記憶するように思う最初の出来事である。」(p53)で笑ってしまった。中選挙区時代の政治家の親父に息子がそんなん言ったら殺されとるがな。また、学校教育に対して極めて批判的なのが印象に残った(この辺の恨みはオックスフォード時代も引きずっててワロタ)。ラテン語読解をしてできなかったら体罰みたいな文化に対する皮肉が面白かった。ラテン語教育で取り上げられているテクストについての評言である。「パエドルスのラテン語は白銀時代の混ぜものを完全には免れてはいないが、彼の文体は完結、平明そして豊饒であり、このトラキアの奴隷は自由民の感情を控えめに吐露しており、本文が真正な個所ではその文体は明晰である。しかし彼の寓話は久しく忘れられた後に不完全な写本からピエール・ビトゥによって初めて公刊された故に、五十人の編集者の労苦は現物の価値だけでなく写本の欠陥を露呈している。それ故にあるいはベントリも復元できずブルマンも判読できなかった文章を誤訳したと言って、小学生が笞打たれる恐れがあるかもしれない。」(p62)これはラテン語をすらすらと読めるようになった壮年のギボンによる過去へのささやかな復讐と言えるかもしれない。なお、未来の何もかも忘れた自分に一言添えておくと、ベントリもブルマンも時代を画した大古典学者です(ベントリはファラリス書簡の批判者としても有名ですね。)。あと、叔母の影響を受けて読書大好き少年だったギボンはありとあらゆる古典を英語訳で読みつくしたが、それによって外国語学習が遅れてしまったみたいな話があり、ギボンでもそうだったんだと妙な安心感がありました。

 「第3章 オックスフォード」では、オックスフォードやケンブリッジのような最高の大学に入って嬉しい!みたいな人の意見を引用したかと思えば「いやでも俺はオックスフォードはクソだと思っている」となんJ民みたいな底意地の悪さを発揮していて面白かった。自費特待生という特異な立場で入学したオックスフォードでは、怠惰な教授陣は何もせずチューターに丸投げで、そのチューターもさしてよくはなかったので、ギボンはすっかりと勉学の熱を失い、大学生にありがちな放蕩のイキリ生活に迷い込んでしまう。ついにはローマ・カトリックに改宗するという顛末を引き起こし、これが原因でオックスフォードを出禁になったという。マジかよ。

 「第4章 ローザンヌ」では、改宗する!と一方的に通告してきたギボンに対して腰を抜かした忠実な国教会徒である父が、プロテスタントの影響の強いローザンヌにギボンを送ったことが語られる。ローザンヌの生活は慣れないこと続きだったが(下男がいなくて不便だったとか書いててこいつマジで死なねえかなと思った。もう死んでるが。)、慣れていくうちに割と自由な時間がとれたので、ラテン語の文献をフランス語に訳したり、逆も然りということでフランス語やラテン語をマスターしたり、面白かった本を何度も何度も読みまくったことが書かれていて、このあたりはギボンの該博な知識がどのように得られたのかが割と分かって面白い。一例を引く。「私はテレンティウス、ウェルギリウスホラティウスタキトゥスらを二度、否、時には三度もゆっくり読み直して私自身の気性に最も訴えかける感覚と精神の吸収に努力した。私はたまたま難解もしくは不完全な文章に出会っても決してそれを読み飛ばさずに、それが容れうるあらゆる解釈の突き合わせに努め、おおむね期待外れに終ったもののホラティウスについてのトレンティウスとダシエ、ウェルギリウスについてのカトルーとセルヴィウス、タキトゥスについてのリプシウス、オウィディウスについてのメジリアクなど、独創的な注釈化の中でも最も博学な人々の著書を参照し、私の探求の熱意に促されるままに広範囲にわたる歴史的批評的な文献を渉猟した。個々の著作の抜き書きはフランス語で行なわれたが、私の評言はしばしばそれ自体で個々のエッセーへと拡大し、私はウェルギリウスの「農耕詩」第四歌の八行を論じた二折版8ページの論考を今でもそれほど軽蔑しないで読むことができる。」(p121)。

 上記のような形でラテン語で古典に触れてギリシア語にチャレンジしたり(ただ単語を覚えたりするのが面倒で一回挫折しているようだ)、法学ではモンテスキューを味読したり、哲学の文献にも触れたりといろいろと濫読したようである。なお、こうした濫読を抜き書きしていたようだが、著者は「確かに筆の動きは観念を紙に書きつけることで疑いもなく心にも印銘するだろうが、果してこの手間のかかる方法が時間の消費を十分に償う効果を有する否かを私はすこぶる疑問に思う。」(pp125-6)と述べていた。このブログはどうしたらええんですか……。

 

【動画】

 「映像の世紀 バタフライエフェクト」の「CIA 世界を変えた秘密工作」を見ました。基本的には既知の内容ではあったが、やはり映像で見るとまた違って面白いですね。CIAがやらかしてきたことは短期的には成果を上げたのかもしれないが、中長期的にはろくでもないことだよという当たり前の教訓話という感じでしたね。取材はかなりしっかりしているなという印象は持ったが、かつての映像の世紀のような作品としての完成度はあまりなく、衝迫力には欠けたかな。

 内容としては、CIAの前史であるOSSに軽く触れた後、主にイラン・ハンガリー・チリでの工作活動に焦点を当てたもの。イランはAJAX作戦(モサデク転覆)、ハンガリーハンガリー騒乱について「ラジオ・フリー・ヨーロッパ」を使った指嗾、チリはアジェンデ政権の打倒に関してそれぞれの関与が示される。最後のアジェンデ政権の打倒について、この映像を見る限りだと現段階でも公開された文書の範囲内では実際にピノチェトらのクーデターそれ自体にCIAが関与していたという決定的な証拠は出ていないらしい。CIAがチリをメチャクチャにしようとしてありとあらゆる最悪なことをやったのは有名な話だし、実際にクーデターまがいのことをやろうとしていた形跡もあるようだが、1973年9月11日のクーデターに関与していたという証拠は確か今も見つかっていないはずである(CIAがチリの軍部と報連相をしっかりしていたのは明白だが)。この点は結構説明があやふやだった印象。とはいえ、俺もあんまりここら辺の情報をアップデートしていないのだが。

 

【雑感】

 映像の世紀見てブログ書いてたらこんな時間かよ。仕事して帰ってからの可処分時間全部これで終わるな。確かにこのブログを書く時間で何かできるのではと言われたらごもっともとしか言いようがない。実際このブログは何にもならないが、せいぜい飽きるまではやるさという感じである。1年続けたら、5年後の俺にとってはきっと面白い読み物になっているのではないかと思いますが。