死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20240228

【労働】

 無です。本当にいないものとして扱われているので。まあ別にいいんですが。俺にはもう読書とかゲームとかがあればいいんで。人間が恋しくなったらオモコロチャンネルとふっくらすずめクラブ観るし、大学の友達もまだいるから……。

 

【ニュース】

首相「捨て身」の政倫審出席 深まる孤立、党内に渦巻く疑心暗鬼:朝日新聞デジタル

 岸田、時たま意味分からん時に謎のギャンブラー精神を発揮するの本当に面白い。自民党きってのトリックスターだと思う。ただ、残念ながら岸田には麻生同様墓堀人としての役割しか期待し得ないと思うが。

「岸田派の解散表明に続く各派閥の解散表明以降、自民党内は、誰が敵か味方が分からない疑心暗鬼が渦巻く。そして、政権の役職に就く幹部たちはおのおのの役割を果たそうとせず、首相は孤立感を深めている。首相は最近、周囲にこうこぼしたことがあるという。「誰もやってくれないんだ。やるべき人は色々いるはずなのに……」」という記述が悲しさを引き立てますね。

 ところで、各紙読んでても自民党はもう組織として終わっているような感じがすごいのだが、どいつもこいつも何もしないあたり、派閥による疑似政権交代が曲がりなりにもあった昔の時代の活力を取り戻した方がいいんじゃないだろうか。集団レイプする人間は元気があっていいとのたまった奴がいたが、岸田を集団レイプしても一向に元気を取り戻さないというのはどういうわけか。

 

経済安保の身辺調査「法案審議こじれる」 政府の狙いと専門家の懸念:朝日新聞デジタル

 対決法案ですね。俺はわが国の体制で十分な手当てができるのかは極めて疑問に思うところだが、「ある大手素材メーカー幹部は「本来、秘匿性の高い情報は罰則付きの法律ではなく、企業努力で守るものだ」と訴える。」というのも何か素朴な話してんなと思う。お前らの企業努力なんか知らねえよ賃上げでもやってろバカという気持ち。その意味では、経団連の方がよっぽど賢明な態度だろう。

 

米イスラエル大使館前で空軍関係者が焼身自殺 ガザ侵攻への抗議か [イスラエル・パレスチナ問題]:朝日新聞デジタル

 こういう気概を持って生き、死んでいきたいと思った若気の至りを懐かしく思う。俺も職場で抗議の自殺がしたかったけど自殺できねえんだよな。悲しいよ。

 

スウェーデンの加盟、ロシアの「オウンゴール」 鶴岡路人さんの分析 [ウクライナ情勢]:朝日新聞デジタル

 まあグッドニュースではあるが、ウクライナの状況を考えると手放しでは喜べない。国際社会がウクライナを守り切れるのか、といった問いかけが深刻なものになりつつある中で、ウクライナ後を見据えた集団安全保障の深化ともとれる。仮にもしウクライナが不利な状況を覆すことなくロシアとの戦争を終えるということになれば、NATOの圏外の国は事実上ロシアの衛星国にならざるを得ないだろう。ウクライナの血で染め上げたカーテンで再度東西を仕切るのだとしたら、それは何ともまあ悲劇的な歴史の再演だなと思います。

 

【読書】

 『ギボン自伝』(ちくま学芸文庫、1999)を読了しました。最初の記述は「有閑階級の喜びを知りやがって!」と思いながら読んでいたが、だんだんと面白くなってきて、読み終えるのが少し名残惜しかったですね。自伝文学の中の逸品という気がします。

 全体の概観を述べます。ギボンの生涯は、虚弱だったが読書欲は旺盛だった幼少期、オックスフォードへの入学とその脱退(カトリックへの改宗が原因)、そしてスイス・ローザンヌでの寄留での知的覚醒とプロテスタントへの再改宗、故国イギリスへ戻っての軍隊生活、再度の大陸周遊の中でイタリア・ローマのカピトリーノの丘にて『衰亡史』の著述を決心したこと、そしてイギリスに戻って国会議員としても活動しつつさらには『衰亡史』前半三巻を上梓し、最後にまたローザンヌに戻って田舎の貴族暮らしを満喫しながら『衰亡史』後半を完成させる、という流れになっている。ギボンの生活については、あまり働く必要のない程度の余裕はあるが、大貴族ほど大金持ちではなかった(祖父の蓄財を父の浪費でほぼなくしたことが原因)。常に自分の支出(書籍代や階級にふさわしいパーティー代)を賄うほど自身の不労所得が足りるかどうかの心配は常にしなければならないという状況ではあったが、ギボンはこの境遇に満足していた。「思うに私の資産の黄金の中庸こそは、私の精励を発揮させた当の原因であった。実際に重要で立派な作品が屋根裏部屋や宮殿で書かれた例は稀である。余暇と資産に恵まれた紳士だけが、名誉ある報酬を当てにして仕事への意欲に発奮する。」(p263)という文言に代表される見解が繰り返し述べられており、自身の境遇こそが自分を「ローマ帝国の史家」たらしめたのだという確信が随所で披瀝される(なお、貧乏な著作家の作品も貧相であるという見解も同様に繰り返されるが、これはギボンの言い過ぎだと思う。)。

 もうひとつの重要な要因である余暇について言えば、ギボンは昼間の時間はなるべく著述や読書に充てるように努力していたようだ。なお、家庭生活については独身である。ギボンはスイスで後のネッケル夫人となるキュルショ嬢との初恋をするが、父親の反対もあり「恋人として嘆息し、息子として服従」を選んで別れて以降は、結婚については一度も考えなかったという(晩年は仲のよかったスイスの貴族デヴェルダンと、彼が死ぬまで共同生活を送っていた。)。それでも、上流社会の社交については進んで参加していたし、ジョンソンらの文芸クラブにも顔を出していたようだが、他方で父親や母親の話し相手になることや、父親の知り合いに顔を出すみたいなことはなるべく避けたがっていたことが述懐される(ここら辺は俺と似ている。)。軍隊生活においても「時間を盗む」と表現しているが、なるべく隙間時間を見つけては読書や調査、著述のための時間を捻出しようと努力している態度は随所に見受けられるので、やはり彼にとっては学究とそれ以外の活動のバランシングが極めて重要だったのだろう(とはいえ、ギボンは一流の社交人でもあったし、軍隊生活や議会活動においても歴史家に必要な学びが得られたと殊勝なことを述べている。)。現代人にはなかなか難しい生活ではある一方で、自身の知的ノウハウや思考の軌跡もきちんと伝えている点では、参考になるところもあるかもしれないが、端的にいちイギリス貴族の面白生活録として人間の興味をそそると思う。

 なお、訳者解説に詳しいが、本書はもともと7つの草稿に分かれており、ギボンの畏友であるシェフィールド卿が文学的な編集(意図的な加筆や脚色、削除も含む)を行った版が普及していた。このちくま学芸文庫版の底本は、きちんと学術的な批評を経たものとなっているようだが、ギボンの発言にはしばし一貫してなさや繰り返しも見受けられるので、やはり本書はどちらかというと未完成品なのだろう。それでもそれなりに読ませるのはこのイギリスの傑出した史家のなせる業か。

 以下では、前日から続けて第5章以降の気になったあれこれを書いていきたいと思います。

 「第5章 「文学研究論」、国民軍参加」。「私は職業上の規則的な義務を生計の基礎にする必要性をついぞ感じなかった。毎日の時間が快適に充たされる私には、多くの我が同国人が感ずる空虚な生活の退屈さは無縁であった。」(p145)普通に「殺してェ……」と思いました(そう思ったので本にもそう書き込んだ。これをもし古本で売ることになったら次の読者にはすまないと先に謝っておく。)。

 また、以下の著述も書き留めておきたい。「私は今まで自分が単なる虚栄心の動機で書物を購入したことが一回もなく、全ての書巻はそれが私の書棚に収まるに先立って必ず実際に読まれたか充分に点検されたこと、それ故に私は間もなく老プリニウスの寛厚な格言nullum esse librum tammalum ut non ex aliqua parte prodesset.(ドレホドノ悪書モ必ズヤ何ラカノ益ヲ発揮ス)を採用するに至った、と言い添える。ギリシア語の学習について私は、毎日曜に家族と一緒に教会へ行って新約旧約の聖書の詠唱に加わる以外には、まだ再開する閑暇と勇気を持たなかった。私のラテン語著作者の通読も必ずしも熱心に実行された訳ではないが、キケロ、クウィンティリアヌス、リウィウス、タキトゥスオウィディウス等々の最良の版本の相続もしくは購入にもとづく取得の好機会に、私は大抵これらに読み耽った。私は抜粋を作って感想を書付ける有用な方法を常に守った。」(pp151-2)つまり、①積読はしない、②ちゃんと通読する、③抜粋と感想を作るという、メチャクチャ骨の折れる読書行為をしていたわけである。すごいねえ。でもお前前章で抜き書きはあんま意味ないかも~とか言ってなかったっけ?(これが本書の草稿がゆえの不統一である)

 こんな勉学の果てに、ギボンは最初の著作であるフランス語の『文学研究論』を発表するが、その出来栄えは若書きとしてはまあまあよく書けているとはみるが、自伝執筆時の老成した評価は手厳しい。「私の「論考」の最も深刻な欠陥は、常に読者の注意を疲労させて往々はぐらかす傾向の、一種の曖昧かつ唐突な表現である。厳密かつ正当な定義の代わりに、題名である「文学」なる語の意味さえも漫然と多種多様に使用されて、数多くの評言や歴史的批判的哲学的な事例が何ら決った方法も連結もないまま次々に積み重ねられて、一部の導入的な箇所を除けば残りの各章は順序を入れ換えようが場所を移そうが全く変りない有様である。多くの文章はわざと曖昧さを気取っていてbrevis esse laboro, obscurus fio(私ハ簡潔サヲ心掛ケテ晦渋ニ終ル)、ありきたりの観念をわざと勿体ぶった警句的な短かさで表現しようとする欲望でゆがめられている。悲しいかな、モンテスキューの猿真似のが何たる失敗に終ったことか!」(pp159-160)。こんな真摯な自己批判を現代の書き手に期待できるだろうか。

 第6章「大陸周遊、ベリトンとロンドン、父親の死」では、軍隊生活で遅れた大陸ヨーロッパへの漫遊旅行を実施する。フランスではディドロダランベール、百科全書派の知遇を得たり、イタリアではローマなどを観光したりと楽しくやっていたが、父親から思ったより早く呼び戻され、鬱々とした気持ちで過ごすことになる。この時ギボンは30歳弱なのだが、周りと比べて自分が「無位無冠の影の薄い動かぬ存在」であることに焦燥感を抱くようになる。とはいえ、「勉学の尽きぬ喜びには時間がいくらあっても足りない、と感ずる人間には人生の無聊の惨めさは全く無縁だった。」(pp210-1)と嘯くあたりがギボンらしい(俺もこうありたいものだ)。何か歴史を書こうと思い立ち、スイスとフィレンツェの歴史に魅せられていたギボンは、前者の歴史を書くことに着手するも、最終的には草稿を朗読した際に受けた酷評に納得し、その企図を断念するに至る。こうした紆余曲折を経て、ついに「衰亡史」の準備に取り掛かったギボンは、ラテン語とイタリア語の古典を徹底的に精読することに取りかかる。「一定の年齢になると大抵の者には、価値ある新刊物がその唯一の滋養になる。それ故に最も厳格な学徒といえども、時には彼自身の好奇心を満足させるために、社交界でもてはやされる話題を作ろうとして自分の持場を離れたい誘惑にかられる。」(p223)と書かれるように、新刊をたまに読みたくなるという気持ちに触れられているのが、この部分は「止めてくれカカシ その術は俺に効く」となってしまった……。

 第7章「ロンドン生活、議会、「ローマ帝国衰亡史」」では、父の死をきっかけにギボンは自身の邸宅を人に貸して、その収入を当て込んでロンドンに住む。完成させたローマ帝国衰亡史第一巻はヒュームからも激賞されるなどイギリスで大反響を呼び、そのキリスト教批判的な記述が篤信家たちの批判を浴びるものの、概ね好評をもって迎えられた。この第一巻の成功の後、化学を勉強したり、アリウス派論争で頭おかしくなったり、コンスタンティヌス大帝時代の混沌に付き合ったりで少し時間が空いたが、第二巻、第三巻も上梓する。

 そして第8章「ローザンヌ」で、ついにギボンはその終の住処をスイス・ローザンヌに定める。畏友デヴェルダンとともに家を持ち、スイス基準では富裕層という立場で悠々自適な暮らしを送った。ローザンヌで衰亡史を書き終えると、ロンドンに一度舞い戻って衰亡史の後半部分を出版、そしてこの自伝執筆に取りかかる。ここからは自伝以降のシェフィールド卿の記述だが、自伝の出版を模索した最後のイギリス旅行の最中、彼は突然持病が極めて悪化し客死することになる。

 最後に、力の入った中野好之による訳者解説でも触れられていた興味深い事実を1つ。ギボンの『自伝』が辿った運命を克明に記載しつつ、その文学的価値などについても適切に評価していると思う。『自伝』はシェフィールド卿がいくつかの草稿を文学的には優れた編集をするが、死後ギボン関連の文書を公開しないという遺言を残したがために、19世紀のギボン研究はシェフィールド版の自伝をうのみにせざるを得なかった。第2代のシェフィールド卿が厚意で地元の町医者に草稿を見せたり第3代のシェフィールド卿がこの遺言を破棄したりしたことで、ようやく草稿の批判的研究がスタートしたというのは驚いた。

 

【雑感】

 何もなし。ホンマにブログ君さあ、時間どろぼうすぎるぞよ。