死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

それでも人類が前に進むことを心のどこかで信じた上で人類と敵対したい28歳童貞実家住み年収400万円男性と読書記録20220328~0406

 4月に入ってから嘘だろというニュースがどんどこ出てきましたね。ウクライナ

 

 ロシアがこれまでしでかしてきた残虐な行いを知らなかったわけではなく、そしてこんな碌でもないことをやらかしたのが歴史上ロシアだけではないこともよく分かっている。しかしその上でなお、キエフ近郊の街で行われた無抵抗な人々を殺害する行為、死体を野ざらしにしておくこと、死体を損壊すること、その他諸々死に至らずとも人間の尊厳を根こそぎにする数々の蛮行(拉致、性的暴行、困窮した人々に対する略奪行為)を前にして流石に冗談の1つも言えなくなりました。代わりにこのブログには似つかわしくない真面目な話を少しします。

 

 ギリシア悲劇の『アンティゴネー』で、故国に攻め入った兄を弔うことにこだわったアンティゴネーと、あくまで国の敵に対する見せしめを優先したクレオンの対立について、まあ確かによく言われるような人法と自然法の対立めいたことについてなるほどなと思いつつも、個人的にはクレオンの言い分の方が尤もだなあと思っていた。何故ならば、劇でスポットが当てられているのはアンティゴネーの感情だが、戦争で家族を殺されたテーバイの人々からすれば、故国を守った自身の家族とその敵が同等の弔いを受けることなど感情的に許せるわけがなく、それをもって新たな内乱を孕む危険性がある。つまり、クレオンはその点においては政治的に穏当な判断をしたと解することができる(劇中で示されたクレオン自身の「ヒュブリス」は除く)。

 しかし、野ざらしにされていた無辜の人々の死体を見て、素朴ながらこれはあんまりだと思った。その感情を惹起して初めて、アンティゴネーの言っていたことが身に染みたし、そしてそれ以上にクレオンの主張にはこれまで気づかなかった恐ろしさを感じた。

 つまり、アンティゴネーによる「死者は等しく弔われるべき」という主張は、人間の心理に対してかなり説得力のあるものだと感じられたのだ。生を奪われた人々のために、たまたま生き残った人々が集うこと。これ自体は人が人である限り認められる要求ではないか、というのは、恥ずかしながらアンティゴネーの台詞などよりも、あの写真の数々を見ることによって何百倍もはっきりと理解できた。

 と同時に、その人間の心理を前提とすると、クレオンの主張は先に述べたような穏当なものではないと理解できる。敵対者の死体を晒し物にしたままにすることは、その死体によって永続的な敵対を縛り付けることなのだと。これは、罪人や敗北主義者を街頭に吊るす慣習にも相通する。弔われることのない死が、敵との一切の和解を拒絶し、無限の死の淵源となっていく。この結末は紛うことなき絶滅であり、国家護持もクソもないわけだが、しかし国家を守ることと国家を壊すことが紙一重の差にあるという意味では、クレオンの主張は悲劇同様に破滅的な対立を内に含んでいたのだ。

 さて、上述のような残虐さが明らかになった今、ロシアとウクライナにおいて政治的な停戦はありえても、人々のレベルで和解することはできるのだろうか(そのような憎しみの問題は、濃淡はあれど多くの近代国民国家が抱えているアキレス腱である)。一時的な「和解」が双方の歩み寄りだとしたら、「許し」は前提条件を付さない形で一方が他方に手を差し伸べなければならない。それを握り返すか、つまり罪を認めるかどうかさえ他方に委ねられている。そのようなことを、あの死体が許すのか。あの死体の記憶を抱えた人々にできるのか。さらに言えば、あの死体を積み上げた人々がその罪過から目を背けないでいられるのか。個人的にはいずれもかなり難しいと思う。それだけのことをロシアはしてきたのであり、これからもしようとしている(これだけは明白にしておかないといけないが、先に引き金を引いた以上、ロシアはドイツや日本同様未来永劫その罪業を背負うことになるだろうし、これを忘れてしまうほどの健忘症の人類であればとうの昔に核兵器で自殺していたに違いない。人類は忘れなかったからこそ、曲がりなりにも国際秩序の上に多くの人々(しかし限られた世界に住んでいた)が数十年ぐらいは安定して暮らしていたのである)。

 バベルの塔が憎しみでできていたとしたら、とうの昔に神はこの塔を見上げることになっていただろう。そのような意味では、人類史にまた1つの憎悪が刻まれただけと言えるかもしれず、「はぁ~これだから人類さんは」というクソデカ溜息を吐いておしまいと言えるかもしれない。しかし、それでいいのかと、人類の終末を希うマンとしては思う。俺としては、人類にはそれでもよい方向に向かっていってほしいと思う。たとえその「よい方向」というのが俺の捻じ曲がった人間性にとってお気に召さなかったとしても、である。人類には今回の出来事から何かを学び取って、後世をよりよくするために不断の努力を重ねていってほしいと思う。残念ながら今日もどこかでゴム無しセックスが行われ、その11か月後ぐらいにはオンギャァが生じるだろう。その無計画極まる生殖行為の責任として、類としての人間には世の中を少しでもよくするよう努力する義務があるのではないか。そのためには、今次の出来事に無関心であることは許されないと思う。「興味ないけどどうなの?戦争は」なんていう平時には許されていた愚かさにはきっぱりと中指を突き立て、現在進行形の狂気を注視し続け、そして未来に何ができるかを真摯に考え抜くような人間が増えてほしいと心の底から思う。そうでなくては、俺が消えてなくなればいいと思っている人類ではないではないか! 憎しみとクソデカ感情は表裏一体ってはっきりわかんだね。

 

 戯言めいた真面目な意見はこれぐらいにして読書感想を記します。

 

 これ、イキリ金持ち腐れ高地人のデイビッド・バルフォアが最高の童貞しぐさで女性を適当にやるという意味で、「あれ俺はいつから近代日本文学を読んでいるんだ?」となりましたね。その間にいろいろとスコットランド史の暗黒面みたいな話がちらほら出てくるんですけど、だんだんとその話は後景に引いていってただの恋愛小説になってしまったっぽい。あと途中で出てくる世話焼きチャンネーがマジで「うわこういう奴18世紀にもいるのか萎えるわ……」と思ってしまった。でもこれ日本のギャルゲーだと主人公に好意を持っているんですよね。俺は既修者だから詳しいんだ(法科大学院並感)。