死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

25歳のハローワールド

 25歳になった。

 

 このブログで24歳の誕生日を迎えたことを書いたのだが、そこから1年経ってまだブログが生き残っているのは本当に驚きである。惰性で続けているようなもんだが、ツイッターもやめ、よくバカ話をしていたグループラインも抜けた今、このブログが自分の雑念を吐き出す唯一の媒体となってしまった。なので、ここにつらつらと書くことにする。

 

 誕生日前日、普通にぶっ倒れていた。いろいろと疲れがたまっていたのだろう、会社ではなく自分の部屋に帰って残務をやろうと思い帰ったら、その玄関先で急に足が動かなくなった。そのまま倒れ込み、ぼーっと天井を見ていた。気づいたら朝になっていた。25歳最初の朝を迎えた感想は「死んでたらよかったなあ」である。今も全身が痛い。全身が痛く、会社にも行きたくねえという強い気持ちがあり、今はテレワークをしている。

 

 そんな話をしたいんじゃねえ。いやはや、死ぬ好機を何度も何度も逃し、ついにアラサーの仲間入りである。正直30歳まで生きている自信はあまりない。前のエントリでも言及したが、健康診断の結果がまあまあヤバいので死ぬのではという気持ちもなくはない。まあ、こうなりゃ大それたことはせず、死については万事天命に任せることとしたい。勝手に生きてりゃ勝手に死ぬのである。

 

 この1か月ほど、つらつらと自分のこれまでを考えてきた。大学生ぐらいから、いや高校生ぐらいから、多分俺はいくつかの虚飾を拠り所に生きてきたような気がする。まあ多くの人間がそうなんだろうと思うし、今さら俺のしょうもない経験を取り上げてインターネットゴミとしてプカプカさせておくのはどうなんだという気もする。しかし、どうしても向き合う個人的必要があるので書いておく。

 

 「才能」がないことは常々分かっていた。小学生の頃に受験失敗してから既に自分の全能感なんてもんは終わってるはずだと言い聞かせ続けてきた。「続けてきた」のは結局そこにこだわり続けていたからでもある。「才能」がない、だけどそれは信じたくない、あるいは「才能」以外のオルタナを、自己満足を充足させる何かが得たかったのである。読書家というステータスはぴったりだった。高校の文芸部に客員として参加、つまり小説を書いて発表するようなことはしないが、みんなの小説を批評するようなことはしていた。それができたのは、俺がひとかどの読書家だと思われていたからである。実際、何冊読んでいたかは関係ないが、文芸部で適当に分かってもいないようなこと(とそれに気づいたのは大学生になって腰を据えて何かを勉強する機会があったからである)をべらべら喋ってたような記憶がある。本を読む、というある種聖化された経験で自己武装していたからこそできる芸当だ。大学時代も似たような感じだった。というか、そういう本を読んだ奴が偉いみたいな環境下にいたので余計にそれが悪化したのだと思う。

 

 自らが「読書家でありたい欲望」に深刻なまでに犯されていることに気づいたのは、労働を開始して本を物理的に読めなくなったからである。それはそうで、毎月残業100時間していれば、疲れが先に来てしまう。ページを無理にめくっても、次の日には何も頭の中に残っていない。小手先の労働で必要な知識を吸収するにつれて、自分の中でかつて愛したもの(文学だったり歴史だったりとか)の優先順位が脳内で組みかわってしまった。実はこのブログはそもそも何か読んだ本の感想とか書ければいいなあと思って立ち上げたものである。せめて読んだものを残そうという実利的な目的のほかにも、「読書家」というポージングを雑魚インターネッツの隅っこに残しておきたかったのだろう。

 

 自らの欲望の気付きについて、もうひとつきっかけがあるとすれば、『バーナード嬢曰く。』という漫画を読んだことも挙げられるかもしれない。かの漫画の主人公・町田さわ子も「読書行為の主体」としてニュートラルに本を読むのではなく、「読書家」という立場ありきで本を読もうと/あるいは読まないですまそうとする所作がある(巻を追うにつれ普通に読書しているのだが)。あれをある種若い頃の自画像――それは全き凡庸な読書家の肖像、つまり蓮實重彦の描いたマクシム・デュ・カンでさえなかったもの――として俺は受容したのだが、それは結構インパクトのある体験だった。SFを中心に読む「まっとうな」読書行為者・神林しおりと町田の対比はだいぶカリカチュアライズされているが、あれを多感な高校生時代に経験したら悲劇だろう。そして俺は精神の発達が遅いので、まだまだ多感な23歳だったのである。

 

 今、自らを読書家と名乗ることはもはやできまい。多分この狂った時計の中で生きていたら、本を読むという行為は永遠に失われるだろう。ただ文字の羅列が印字された紙を指でひたすらめくっていく。それはファックスで届いた資料が全部ちゃんとあるか枚数を確認する作業と同値でしかない。得られた情報が、脳の奥深いところにある人間の神秘に至ることは二度とないだろう。その神秘の名は知識と呼ぶのだが。

 

 『バーナード嬢曰く。』に言及したので、それを契機にもうひとつの自分の虚飾について披歴しよう。読書ということを巡って登場人物らが何気ない雑談をあーだこーだしているのも、あの漫画の好きなところだ。というか、俺の中で何気ないことを誰かとあーだこーだできる時間に対する羨望感が強いのだ。前のエントリでも言及したが、今Youtubeでガーリィレコードチャンネルという若手芸人たちがあーだこーだしているのを見るのもそのジェラシーによる。

 

 大学時代もそうだが、孤独なんぞ何とも思わんと考え生きてきた。人生は一人や!!!!みたいな主張はずっと繰り返してきたし、今でもそう思う。しかし、こうやって大学の友人から離れた場所で、同期の友達もおらず、ツイッターもラインもしないで茫漠と仕事だけしていると無性に孤独の辛さが沁みてくるのである。仕事が余暇を極力削ってくるので映画や読書、ゲームに埋没できず、所々そういう辛い気持ちと向き合わざるを得ない。そういう辛さをずっと隠して「人生は孤独!!!!」とか言い続けるのはフェイクな気がしている。だが、人生は孤独である。それはどこまでいっても変わらない。そこを互いに一時的には救う知恵はある。その知恵を俺は渇望している。だからこそ、そういう「あーだこーだ」ものに惹かれているのだ。

 

 いろいろ書いて、改めて自らというものの「なんでもなさ」というか、卑小さが恥ずかしくなってきた。まあ、でも、それはそれでいいのである。きっと俺はまた自分について思い違いするだろうし、それでまたこうやって悶々とするのだろう。25歳になってたったひとつよかったと思うことがあるとすれば、「もう俺も歳だし、恥ずかしいことはやめよう」ということではなく、「恥は恥で、落ち着いて受け入れていこう」みたいな気持ちが多少芽生えたのである。これさえあればきっと何とかなる気がする。

 

 というわけで、25歳の誕生日おめでとう俺。