死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

レジリエンスーーあるいは生きるという諦めの悪さについて

 前々回のエントリでそこそこの病を患ってしまったことをお披露目したと思う。その時は本当に患部の痛みとそれに伴う鬱状態で諸々辛いことになっており、正直痛みがピークを過ぎた今でも気分はずっと落ち込んだままだ。この病気とはこれからも長く付き合う必要があるらしく、しばらくはこんな感じでグロッキーな気分を伴侶にしないといけないっぽい。ありがとうグロッキーちゃん、俺が今後二度と経験し得ないであろう結婚生活とやらを味わわせてくれるとは。ボヴァリー夫人の鬱屈に少しでも近づけたら不幸中の幸いである。できればすぐ三行半を投げつけたいネ。

 

 戯言を小休止します。はい別の戯言始めます。さて、病気のせいで体のパフォーマンスが半分ぐらいまで落ちたというか、普通の人並みにできないこともある。階段の手すりやエレベーターがあるおかげで、俺は何とか普通の人よりも少し遅れながらであるが出勤できているし、社会生活をそれなりに送ることができているような状況だ。こんな状況でもテレワークもなしに出社し、まあ普通に仕事をしている。もちろん瞬発的に何かをすること(たとえば急ぎの対応をしなければならない時に駆け足でどこかへ向かうことなど)は極端に難しくなっているのだけど、それでも自分の仕事の基本動作であるドキュメント作成や資料作成、何もしなくても溜まりまくるメールへの返事、電話や対面などで行う諸々の関係先と行う調整・折衝については普通の人と比べても問題なくやっている、のではないか(そうでなければ上司から多分何か言われるはずなので)。

 このブログで俺がどんなに労働への怨嗟を吐いていたとしても、6年目になる社会生活を経て、働くこと向けに身体がチューンナップされているのだと改めて実感している。バイトも短期間で辞めていたし、親の脛を齧ることを得意としていた俺が、そんなに高くもない賃金のために身を(心を)粉にすることを覚えつつあるというのは、労働とは本当に恐ろしいものだと心の底から思う。勉学、ゲーム、アニメ、海外ドラマ、HIP HOPなど何かにハマっては長続きしないムーブを繰り返してきて、結局アマチュア以下の知識の残り滓をひけらかすだけという何ともさもしい俺の人生に、唯一刺さってきた一生もののコンテンツがまさしく労働である。それはハマればハマるほどお金ももらえるが、代わりに自分の精神や体力や可処分時間が1ミリいや正確に申し上げると1ミクロン(甘利しぐさ)になるまで切り売りする必要がある――つまり労働とは悪魔である。誰しもが荒野の聖アントニウスのような不撓不屈の精神を持っているわけではない。しかも悪魔は「生」のかたちをとって現れてきたのだからなおさらである。

 

 生きる――。一度は過労や上司とのコミュニケーションから来るストレスで自殺まで考えた俺にとって、何故労働なる悪魔に魂を売ってまで生きる必要があるのか。もはや何もわからない。生きる理由などとうの昔になくなっていることだけは確かだ。ここからは、俺がどれだけ生きる理由を失っているかをつらつら述べていくこととしたい。

 

 かつての俺はファウスト的な全知全能への欲求を抱えた鬱屈した青春時代(今ではそんな気持ちは全くないと言えばウソになるし、時折そういう妄想をお風呂場ですることもある)から要求を若干切り下げて、丸山真男が嘯くところのミル的教養人(あらゆることについて何事かを知っており、何事かについてはあらゆることを知っている人)に憧れることにした。ミルの自伝を読んだことがある人ならわかると思うが、幼少期から狂ったレベル(実際にミルは狂ってしまうわけだが)の勉強をしないとそんな人間にはなれないのである。だが、いつかはなれるかもねという儚い期待を乗せて生を延長してきた節があったが、そんなことのために生きるほど俺という人間は教養に愛着がないことが最近わかってきた。教養があることは人生を豊かにするが、一方で教養を渇望することは自分の現在置かれている状況を踏まえるとメンタル的によくないことに気づき、もちろんメンタルを優先することにしたのである。高望みをすればするほど自分の牡蠣みたいな柔らかい心が傷だらけになっていくので、結局どこかでミル的教養人像からも要求レベルを引き下げていくしかない。じゃあ何を目指すのかといえば、ただの「ありとあらゆるコンテンツが飽和している時代に何故か気長に読書をやっている変人」ぐらいでいいと、最近は思い始めている。

 あるいは、研究には従事しないけれども、研究者の書き物については一定程度の理解を有し、そのディシプリンの最新とまでは言わずともここ10年の状況に若干の目配りができるという、知識共同体の土台(これらの層が研究者のレベルまでに背伸びをしてくれることで、学術出版や高等教育は成り立っているのである。)に自分の立ち位置を定めようと考えたこともあった。だがそれも諦めた。俺が一応曲がりなりにもちゃんと勉強したなと言える学問は哲学史と政治思想史なのだが、もうついていく自信が全くと言っていいほどなくなったからである。日々弱まっていく自分の記憶力や、薄れていく知的なものへの関心から、もう自分の「身の丈」に合わなくなったというのが正直なところだ。そう思ったきっかけは、ここ最近の政治思想史の優れた研究書である長野晃『カール・シュミットと国家学の黄昏』と上田悠久『〈助言者〉ホッブズ政治学』、そして上村剛『権力分立論の誕生』を読んだことにある。これらのハイブラウな研究にまるで自分の頭が追い付いていかないことを実感したのだ。今から不断の努力を続けてキャッチアップする可能性がないとは言えないが、まあでもそのためにできない自分に苛立つのも精神によくないなと思うので、多分その可能性は恐ろしく低い気がする。

 

 その意味でまず、俺の人生の主要な部分を規定してきた知的欲求が恐ろしく減退してしまった、と認めざるを得ない。このブログの読者には昔の知的欲求に溢れていた頃の俺を知っている旧友が多いと思うので、大層驚かれるかもしれない。

 しかし俺が自身の身を滅ぼしかねない知的欲求について意識し始めたのが中学3年生の頃なので、そこから遮二無二濫読したりサークルで勉強したりしたのは高校と大学とあわせて8年ぐらいの話である。しかもその8年間はほとんど生活を気にする必要がなく、知的欲求という大口を開けたバケモンに餌を食わせてやることができた。今では働かないと自分の餌も確保できない(働かなければ働かなければと言っているけど、生活保護はもちろん選択肢のひとつだ。ただ、これを頼るのは今抱えている病気がいよいよもって絶望的なフェーズになった時だけにしようと思っている。その時は仕事も辞めていることだろう)。

 そして、6年間の労働というのは確かにその後の人生を180度変えてしまうようなブリリアントな人生経験をもたらすのである。労働のおかげで俺は他人から向けられる悪意を嫌というほど学んだし、人間というのが根源的に蔵している(ハイデガー的言い回し!)御し難い何かとの折り合いのつけ方も心得てきたし、だけども死ぬほど働いた後に食う飯と飲む酒と交わす愚痴が最高なのも知った。こうした経験の堆積が徐々に俺の人生を形作り、かつての知的欲求が築き上げてきた土壌を徐々に、しかし確実に侵食し掘り崩してきた――これが社会人生活6年目の若干の総括である。

 この6年でそういう人生の致し方が変わるのはそりゃ仕方がないよねと思うし、結局俺の長続きしない性分が改めて確証されましたね、ということに過ぎないのかもしれない。もちろんある日発奮して知的欲求がメチャクチャ増すこともありえなくはない。Ars longa, vita brevisではあるが、人間の傾向性が蛇行運転を繰り返すぐらいには人生もまあまあ長い、かもしれない。しかし今の俺は曲がりくねった道の先に何があるのかさっぱりわからないのである。そして、これまでの知的欲求でエンジンをかけるのが難しくなり、立ち往生しているというのが今の状況だ。

 

 さて、そうなってくるとそれ以外に生きる理由を探して、この腐れ果てた人生を賦活する必要がある。しかし、知的欲求が生きる理由でないとすると、一体全体何が生き延びる理由なのかとんと思いつかないのである。

 俺は結婚する予定もないし、前例のないアルマゲドンが起きない限り(パウンドしぐさ)しないだろう。男性的魅力の乏しさと性欲の根本的な欠如に加えて、俺自身の根っこに巣食っているミソジニー(この用語から差別的な意味合いを拭うのがとことん難しくなり、「私トマト嫌い!」と言えるようなレベルでこの用語を使うことには危険性が伴うが)がある。このミソジニー寛解するには、それこそグレートヒェン級の救済を携えし天使が来ない限りは無理だと確信しているからである(それを現世の女性に求めるのがあまりに酷でバカげていることぐらい俺には分かっている。ここが碇ゲンドウと俺の違いである)。

 また、生涯童貞であることは確定している以上、一応活動してはいるはずの精巣から精子を取り出して試験管ベイビーみたいなのが出来ない限りは子どもも持てないのだが、そもそもそんな気は毛頭ない。会社の先輩がよく子どもの話をしているのだが、休日は子どものために公園に出かけるし、テレビ番組も子ども優先になるという。その話を聞くたびに何故この人はイージーモードですらクソ難しいイカレ縦スクロール弾幕ゲーみたいな人生をわざわざルナティックでプレイしてるんだ???という疑問を禁じ得ないのである。

 少し脱線をお許しいただければと思うが、俺にとって子どもを持つかどうか問題についての参照点は、あんだけ出生性の重要さだとか新しき世代への希望を赤裸々に語っていたアーレントが、夫のハインリヒ・ブリュッヒャーとの間に子どもを設けなかった(彼女なりに言うならば、愛の無世界性を越え出て世界へ再び参与することをしなかった)ということである。エリザベス・ヤング=ブルーエルの『ハンナ・アーレント』(最近みすず書房から出た新訳はかなり読みやすく、委曲を尽くした訳文になっている)によると、ブリュッヒャーは自身の家系の遺伝的精神病を気にしていたし、アーレントは子育てが自身の仕事の邪魔になるだろうと考えて、合意して子どもを作らない判断に至ったという。ヤング=ブルーエルはこんな狂った時代に子どもを産まないのもひとつの責任ある態度だというブリュッヒャーの言を引用し、それが最大の理由なんだと結論付けているが、果たして本当にそうだろうか(ヤング=ブルーエルはアーレントに近しい人々も子どもを持たないか、あるいはずっと後になって子どもを持ったことを暗に論拠としているが、イカレ時代が子どもを産まないことの主因であると位置付けるための論証としてはちょっと弱くない?と素朴に思ってしまった)。ヤング=ブルーエルが、アーレントの思想形成の最も重要なエレメントとして指摘しているアーレントブリュッヒャーの「二人君主の体制(dual monarchy)」の間に子どもが生まれていたとしたら、『全体主義の起原』を嚆矢とするアーレントの政治哲学的な諸著作が生まれていたかは甚だ疑問である。

 その意味で俺はアーレントブリュッヒャーの選択が本人たちにとって悲しいことだったとしても、後世のためにはよかったのではないかと、不謹慎ながら思ってしまうのである。同時代人から「パラス・アテナ」と褒めそやされたアーレントと、この腐れ切った時代のゴミクズである俺を同レベルに語ることの烏滸がましさは脇に置くとして、俺にとって子どもを持つことについてどうしてもこのエピソードを抜きには考えられないのである。

 脱線からさらに脱線してしまうのだが、最近思うのは俺自身が生まれてきたということの歴史的被拘束性に鑑みるならば、反出生主義のスローガンもどことなく上滑りしてしまうものだと思えてならないのである。反出生主義は己の世界に対する憎悪や絶望を、次の世代にこの世界という苦難を回避させるという倫理的な責任に転換できるというメリットがあると考えるが、そうであればこそこの世界を終わらせるための主張がセットでないといけないのではないかと思う。現世代の苦しみは現世代でのみ甘受するということであれば、何故次世代には苦しみを受ける自由意志というか選択の機会すら与えられないのかという論点はあり得ると思う。反出生主義を突き詰めると、あらゆる大量破壊兵器を使用した全面戦争による人類の自殺、つまりホロコーストを1000回以上やるしかその具体策を描けないと思うのだが、どうだろうか。少なくとも反出生主義の立場からただ中絶やコンドームの義務化だけを煽るのは、自身の世界に対する憎しみや絶望をまだ生まれぬ子どもたちにぶつける身勝手な「殺人」でしかないように思う(あえて強い言葉を使ったが、これは中絶一般を殺人と見なすプロライフ過激派の主張とは異なることに留意してほしい)し、その罪を犯すに値するレベルの倫理的応答が反出生主義者には用意されているのかという素朴な疑問もある。ただ、反出生主義の最新の議論を全くフォローしていないので誤り等あれば御指摘を賜りたい。

 とまあこんな感じで結婚もしない、子どもを作らない、この時点で「誰かのために」生きるという多くの人間が選べるし選ぶであろう選択肢が消えてなくなる。親のために生きるというのも考えづらい。俺は親の介護はできるだけしたくないという気持ちがある。何故ならば今の状態の自分では、自分の面倒を見るので精いっぱいだからだ。そうなると俺は俺の人生を捧げる誰かが俺以外いなくなり、この生きる理由探しという苦痛に嫌でも向き合うしかないのである。

 あるいは、自分に可能な限りいい思いをさせてやるために人生を引き延ばすというのもあるかもしれない。生きていれば美味しいものは食えるし、美味い酒も飲める。いい映画も観られるし、いい芸術に出会えるかもしれない。アニメやゲームもまた然り。だが全てのコンテンツに対して、他の人と比較しても早々に飽きが来てしまう俺にとっては自身を世界に引き留める理由にはならない気がする。これまでTES6が出るまでは死ねんみたいなことを何度か言っていたと思うが、正直もう出なくてもいいやと思っている自分がどこかにいることは否めない。そのために生きる――と思ってコンテンツを見定めても、それに飽きたらまたこのような屈折した自分探しをしなきゃならないというのは正直嫌である。

 

 ここまでつらつらと生きる理由のなさについて述べてきたので、もう読者の中にはうんざりして「ウダウダ書いている暇があったら早く死ねやハゲタコ!!!」と思う人もいるだろう。至極真っ当な意見である。その最終解決は魅力的である。だが、「最終解決」と目されるものに手を出すと大体碌なことにならないと我々は20世紀に学んだのではないか。ヴァンゼー会議ももうちょっとみんなでじっくり考えていたら、あの破滅的な帰結は回避できたのではないか。なのでもう少しだけ考えてみたい。諦めの悪さである。

 今でも死の先を考えることがある。死んだら天国に行くか地獄に行くか、はたまた意識もなく無に揺蕩う(もっとも、無である以上「揺蕩う」なんて動詞すら意味をなさないような状況だろう)のか。あの世があるとすれば、経験したことのない地平にほっぽり出される不安がある。そして無に揺蕩うことも同じくらい不安である。死とは永遠の眠りというのは文学的な表現としてのみ許容される。眠りには目覚めの契機が必ず存在するからだ。目覚めない眠りという未知の領域へ踏み出す勇気は、まだない。そして死の際に伴う一瞬の、しかしこれまで経験したことのない(当たり前だが)痛みにも堪えられるのかという不安もある。思い返せば、4年前に自殺しようとした時にカッターナイフを投げ捨てたのは、きっと痛みに対する恐怖ゆえかもしれない。このように、死は自身の経験とは地続きではありえない。エルの神話は期待できないのである。これらの諸不安が複合して、俺を自殺という選択肢から思いっきり遠ざけている。そういったことを考えると、自殺に追い込まれた人の経験というのは本当に想像を絶するものがある。

 

 そういうことなので、生きる理由も特に見当たらないまま、ただ漫然と生きることを選択しています。結局それだけである。虚しい。あまりにも虚しい。

 ただ。ただ、である。もし生きる理由、とまでは行かずとも、生きるということに期待できる何かがあるとすれば、それがレジリエンスではないかと思った次第だ。はい、ようやくタイトルを回収しましたね。

 もうググってもらえればいいのだが、レジリエンスとは単純にある衝撃やストレスから立ち直れる力のことである。分かりやすいたとえで言うと、ドラえもんのび太のおばあちゃんが言うところの「だるま」である。心理学の用語らしいが、俺がこの言葉に着目したのはCNNジャーナリストのジム・スキアットによる『シャドウ・ウォー』というロシアと中国のハイブリッド戦争について扱った本の中の記載である。現在アメリカとロシア&中国は宇宙における勢力圏争いに余念がないらしいが、アメリカのインフラの根幹である人工衛星に対する攻撃機能を高めるロシアと中国に対抗する手段として提示されたのがこのレジリエンスなる概念であった。要は人工衛星はそもそも攻撃に対して脆弱なのだから、抑止力の向上にも限界があるし、破壊されても別のバックアップの人工衛星が上手いことやってインフラ機能を回復させる方に注力したらええのでは?というような話だったと記憶している。まあよくある話だと思うが、何故か俺の中でその後もレジリエンスという言葉が引っかかっていて、そして今ようやくそれについてある程度言語化できている。

 今の俺の人生は誰がどう見てもズタボロだ。もちろん俺が「まだマシ」な部類に入ることは十分自覚しつつ、俺のブログなので好きに書かせてもらう。少なくとも大学時代と比べると天地の開きがあるように思う。というのも、大学のサークルの中では、そこそこ俺は尊敬を勝ち得ていたからだ。しかしこの前、そのサークルのOBOGのラインに「ケーキを買ってこようか?」という母親に送るメッセージを誤って投稿するという事案を起こした。恥ずかしい話で、実際そういう指摘がなされたのだが、その時の俺の精神状態はグチャグチャだったので「BMI30越えの肥満、うつ状態、早稲田を出て年収400万の底辺事務(と書くとマジで色々な怒られが発生しそうな気がしたが、ええいままよと書いてしまう。御批判はお受けします)、童貞キモメン、これ以上恥ずかしいことあるかよ」と開き直ってしまったのである。多分メチャクチャにドン引きされたと思う。

 そんな誰からも見放されるようなクソ人生であっても、立ち直る機会が残されてないわけではないと信じている。その諦めの悪さが生きることにつながっているし、諦めの悪さはやがてある種のレジリエンスとなって俺にかつてのレベルとまでは行かずとも、最悪から這い上がるだけの余力を与えてくれるかもしれない。だからこそ、知的欲求に見切りをつけても、読書は引き続き自分の習慣にすると心に決めている。外国語の書籍や、高度な専門書、そして様々な分野の一次文献は大学生の時以上にハードルが高いものになってしまっているが、失うものは何もないので、トライできるような態勢づくりも徐々にしたいと思っている。もちろんそれは精神とのバランスを考慮して、だ。できないことをうじうじするよりも、できることを無理なく少しずつやっていくことが、このレジリエンスを身につけるための主眼であると個人的には思っている。その途上で人生が終わってもそれはそれでいい。走馬灯に自分の足掻きが現れ出るのであれば、死出の旅路への多少の慰めになるかもしれないからだ。

 

 正直、今の健康状態だと、あと30年生きたら本当に奇跡である。そんなタイムリミットも考慮すれば、大学時代に抱え込んでいた知的欲求が求めた自分の理想については諦めざるを得ない。だがしかし、少なくとも俺に生のポジティブな意味合いを与えてくれたのもまた知的欲求だとすれば、それが少しずつ、たとえ前とは違う形になるとしても、回復していくような営みは続けていきたい。諦めの悪いことだが、それでも生きることがそんなに悪くないもんだと言える可能性に賭けてみたい。痛みに耐えながらまとまりのない考えをずっと練っていたが、一応何とか言語化できたので、とりあえず擱筆とします。