死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

神罰と生きる

 タイトルのままです。この記事を10年後笑って見返せるようになれたら嬉しいなと思って書きました。でも10年後いなくなっている可能性の方が高いので、もし俺が生きていたら1万円ぐらいどっかに寄付します。その頃は五輪を強行した日本でコロナパンデミックがおさまりがつかなくなって、人口8割ぐらい減ってたら嬉しいな。嬉しいな。何故ならそのような事態においてはじめて俺のような「余計者」にも何かが与えられるだろうから。

 

 仕事。楽にはなって割と定時に帰っております。しかし、日々のストレスは収まる気配がない。再三ブログで言っていることですが、結局労働時間の多寡以前に俺と社会は混ざり合うのではなく殺し合うためにお互いがいるんじゃないかと。どちらかが倒れるまでこの殺し合いが続くわけです。人間がとにかく嫌だ。労働がとにかく嫌だ。ただひたすら孤独にエクセルを埋めるか、ワードで引き継ぎ書を書くだけの人生を過ごしていたい。人間を介在させるだけでストレスが凄いことになる。

 

 そんなストレスのせいかまあまあの大病を患いました。ガンとかではないです(具体的病名は既に職場に知れ渡ってしまったのでここでは書けません。この上身バレしたら多分飛び降り自殺する危険性があるので)。ストレスもあるが、生活習慣もまあ褒められたものではない。前職で培ってきた不健康貯金が満額払い戻しされて無事おしまいに至ったわけです。もうそれのせいで予定もハチャメチャ、職場でも一苦労、私生活でも実家の家族に怒鳴るなど全てが最悪と化しています。そんな自分が嫌になって、ここのところ他の何かをする気に全くなれない。読書も途中で辞めちゃうし、ゲームも何か飽きてくる。ただひたすらゴロンと寝転がりながらYoutubeでおっさんが酒飲んだり、焼肉食ったり、バーベキューしたりしている動画を見ている。とにかく時間をかけて何かをしようという気にもなれず、10分~20分弱の動画群をこなしまくることで本来有効活用できるはずの時間を無限にすり潰している。そこで得られるのは1週間後には忘れている雑学と、枯れきった想像力の泉に豊富な映像イメージの濁流をブッ込んで得られる代理経験でしかない。

 

 しばらくはこのような感じになり、多分ブログも更新しなくなると思います。元々気が向いたらやる程度のものでしたが、もっと気が向かなくなる可能性が高いわけです。今はもう何かをする気になれないのです。普通に精神科まっしぐらな精神状態ですが精神科に通えるような身体でもないので詰んでますね……。やけっぱちな感じですが、まあやけっぱちになるしかない。いろいろなことを諦めて、それでようやく掴めるのが「健康で文化的な最低限度の生活」ということであれば、霊安室の死体が感じる幸福と大差ないでしょうね。ただ、ニアゼロのgoodしかない「生きる」でも、日本政府の無策によって無残に死んでいったコロナ患者の人々や、アフリカ各地の低強度紛争に駆り出されて最後は「統計」に回収される少年兵とか、いろいろな人々が生きたかった「明日」があるということです。昔はそんなのは戯言だと本気で思っていましたし、今でも真に受けるのはどうかしていると思いますが、もはや戯言にしか縋れないほど擦り切れた人生なのです。理念とやらはわしっと掴むにはあまりにも現実を上滑りしているので。