死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20231214

 本日の報告でございます。

 

【労働】

 何か適当にしました。2ヶ月ぶりに新しいことにチャレンジした気がする。まあ、難易度ベリーイージーなマターでしたが。

 

【ニュース】

www.sankei.com

 人間の偉大さを痛感するニュースの深堀りです。人間が先、人間が先。創世記の精神を地で行く狂人たちだ。

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 デジタル立憲主義体制のもと、AI天皇を戴く「メタバース立憲君主制」が待ち遠しいね。デジタルプラットフォーマーを殺そうという主張は賛成できる。ちなみにインタビュアーの記者がちゃんと物を知っているのでよかった。

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 司法試験に落ちても、何とか教員免許をとって、その後司法書士にチャレンジするというギンギンのやる気を持っている時点でこのおぢさんは人生に勝ってるよ。それは間違いない。人生の敗北者ってのは大事な時に精神のチンポをおっ立ってられない俺みたいな精神ED君を言うんや出直せタコ。

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 最後は大宏池会自爆エンドを見たいですね。麻生も老けた気がするが、岸田の介錯するまでは引退できなさそう。

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 このアホ女のところに接見にいっていろいろ発言を引き出した努力は認めざるを得ない。「信仰強者」という言葉を使っているのを見ると「まあこいつはローマ書とか読んだ方がいいだろうな……」と素朴に思う。

 ただ、記事中にある「11月にあった公判の最終陳述。約30分間、反省と謝罪の言葉が法廷に響いた。「りりちゃんの魔法にかからなければ、傷つけることはなかった。真に反省すべきことはそこだと思う」。」という記述に目を丸くしてしまった。この被告はマジでアホっぽいので色々と想像力が及ばないんだろうなというのは察するが、あの異常最終陳述を「反省と謝罪の言葉」と総括するのは、この記者も徹底的に倫理が欠落しているのかそれともモノホンの底が抜けたバカなのか、あるいはデスクが脳死しているのかのいずれかの可能性を考えざるを得ないところではある。被害者男性に合コンセットしてあげるよって言ってる奴に反省も謝罪もあるわけねえだろ現代文で作者の気持ち考えるところからやり直せ。

 

【読書】

 小谷英生・網谷壮介・飯田賢穂・上村剛編著『歴史を書くとはどういうことか』(勁草書房)の「はじめに」「第1章 なぜ歴史を語るのか――物語論、時間地平、時間意識」「第2章 スキナーとポーコックおよび思想史叙述の問題」「第3章 歴史叙述と初期近代」を読みました。本書は、歴史叙述ということにフォーカスした思想史の論文集であり、読みごたえがあった。「従来の史学史とは異なる歴史叙述研究」として、「過去の何が記憶されるべきものとしてなぜどのように書かれたのか、それを書くことで何が意図され、何が社会にもたらされたのかということ」という問題設定は、人文学だねぇという感じがしてワイは好きです。

 個人的に一番面白いなと思ったのは上野大地による第3章で、ポーコックが初期近代の人文主義者たちの循環史観に独自性を見出し、啓蒙の進歩史観を起点とする歴史認識から「博学の啓蒙」の歴史叙述を救い出そうとしたことを描き出す。上野の記述を借りると、「初期近代の歴史叙述を研究することは、近代的な歴史概念と啓蒙期の進歩主義的な歴史哲学の同一視を相対化するというライトモチーフ」(p76)をポーコックを代表とするケンブリッジ学派の仕事の中に見出すことであった(そしてそれは、当時においてホイッグ史観やマルクス主義歴史学との対決という、スキナー的な言語行為でもあった。)。

 この中で、アーレントが弁別した「永遠」と「不死」の概念区分がポーコックの歴史認識に影響を与えたという指摘があって「なるほど~」と思った。「永遠」つまり無時間性と無世界性に抗して「不死性」を打ち立てていきたいという人間のお気持ち、「人間個体の可死性の超克」というアーレント的問題系を、ポーコックのシヴィックヒューマニズムに見るということなのだが、これは全然ポーコックやアーレントを読んでいても気づいたことすらなかったので禿げ上がるほど勉強になった。いや既に禿げていますが。上野の指摘で重要なのは次の2つの段落。以下全て下線俺。

 「このように、永遠の秩序の観想や無時間的世界への救済に変えて、あくまでこの世界での生のうちに何らかの内在的善を実現しようとするならば、時間性を本質的な要素とする世俗世界のあり方に習熟する必要がある。この「時間の政治学」に熟達するための最大の知の形態こそが、歴史叙述であった。「中世の帝権思想ないし君主主義の思想における位階的コスモスとは異なって、共和国はいまや時間において有限で位置づけられたものとして、それゆえまた個別性の問題のすべてを呈示するものとして、理解されなければならなかった」(Pocock 1960/1989:85)のだとすれば、歴史上存在した、あるいは現に存在しているさまざまな形態の国家の因果盛衰を知ることは不可欠となるだろう。そうした知は、永遠の世界や反復的な慣習の秩序の場合とは異なって、経過する時間性を正面から分析対象としなければならない。こうした歴史的分析が、腐食をもたらす時間の経過のなかで、共同的に善き生を追求していくために欠かせない耐久的な舞台――アーレントが「世界性」の語で概念化する「共通世界」にして公共空間としてのポリスーーを構築することを可能にしてくれる。このような考えのもと、初期近代の人文主義者は、歴史的知識を通じて、時間の腐敗作用に抗してみずからの共和国を安定化するための制度や習俗のあり方を探求したのだと、ポーコックは考えることになる。」(pp71-2)

 「歴史の循環が示唆する「反復」という特徴は、歴史的なモーメントの個別性や一過性と同時に、歴史に習熟することでいわば先回りして運命に働きかけうるという、人間的自由の可能性をも示唆するだろう。その意味で「歴史叙述」とは、永遠なるものへの超越に訴えず、世俗的な時間の個別性に内在しながら、そのうちで持続し普遍的な価値を表現しうる人間の自律的な生のための資源だといえる。ここでの自律的な生とは、運命のなされるがままではなく、むしろ運命に能動的に働きかける人間の独立の精神を表す有徳な生であり(Skinner 1996:38-42)、それは歴史的な知を抜きにしては実質的に空虚である。徳と運命、徳と腐敗という人文主義的で共和主義的な概念的構図のもと、時間のうちに個別性と一般性とを統合しうる循環的な歴史の捉え方に支えられてはじめて、活動的で市民的な生は、キリスト教的な無時間的救済の言語に対抗しうる強度を持ちえることとなる。」(p76)

 これと好対照なのは、第2章の野原慎司の論文で、ケンブリッジ学派、とりわけスキナーのコンテクスト主義の問題点を指摘している。つまり政治思想家のテクストは何らかの政治的行為を意図しているというスキナー的な前提に立つと、「氷山の一角」に過ぎない政治思想以外の当該思想家の著述や、特に経済に関する考え方などの連関も見えにくくするということである(ポーコックやホントの「商業社会」論はそうした点を幾分か相対化するものであるかもしれない。)。野原は「言語の抽象性」を持ち出してあえて西洋の古典が翻訳されること、西欧研究が西欧の外を出ることが、距離を生じさせることが新たな見方につながるという。アダム・スミスの研究もしつつ、日本資本主義に関する経済史研究もしている野原が言うと説得力がある。

 野原の指摘で重要な点を摘示する。「……思想は、現実との接点のある意図を持たない場合も少なくないのである。そもそも、言語そのものが、一定の抽象性を持つ。すなわち、まったく時代も背景も異なるテクストが、身につまされるものとして心に迫ってくるものがある。それはなぜかが、文脈主義では見えてこない。たとえば、セネカのテクストを読むと、少なからぬ現代人は自らの人生への警句として身につまされるものを感じる。それはなぜだろうか。これは、人間の人生が古代も現代も変わらない部分があることで説明できる部分もあるが、死後の世界の把握、死生観が現代人とは全く異なる時代の、たとえばセネカのような思想家を取り上げる場合は、この人生の普遍性では説明がつかない。管見では、それは言語の抽象性にひとつの理由がある。すなわち、言語表現んいは、過去現在と変化がありつつも、変わらない部分も多いのである。したがって、翻訳というフレームを用いると、現代にも生きるものとして古代の思想が蘇るということがあるのである。このことは、使っている言葉・観念が指し示す具体的内容は変化しつつも、その言葉そのものは、過去でも現代でも用いられているということがある。言葉は抽象的でありうるのであり、同じ言葉・観念であっても、時代により浮かべる具体的内容は異なりうる。しかし、同じ表現が用いられることを通じて、人は時代を超えて言語・観念表現を現実的なものとして受け取るのである。そして、そうであるからこそ、言語は、時代・社会を超えて、影響しうるのである。コンテクスト主義者はこの言語の可能性を見損なっている。」(p48)

 小谷の第1章論文は、野家啓一の歴史哲学やドイツの歴史家論争を導き手としつつ、そもそも何故我々は歴史的に語らざるを得ないのかという点を明らかにしている。ハルトムート・ローザの四つの時間地平/時間意識の紹介は面白かった。そろそろおねむの時間なので詳細は割愛しますが……。

 

【雑感】

 本の抜き書きや要約は結構大変だが、今のうちにせっせと貯め込んでおこうと思う。何故ならもう何もかも忘れると思うので。こうなってくると何でもかんでも試してみるしかないポヨね。あと、どんどん再読を増やして、このブログに書き溜めておこうと思う。恥も外聞もかなぐり捨てて初歩的な本から難しい本まで何でも扱うぞ。どうせこんな場末のブログ誰も見ないので顧慮する必要がなさすぎる。