死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20240122

【労働】

 虚無オブ虚無。決めたんですけど、人生を彩るために一切妥協してはいけない。転職か異動か真剣に探るとしましょうかね……。転職するなら給料ダウンは避けられず、異動するなら今後は職場で白眼視は避けられない。が、どっちでもええわ。かかってこいバカどもぶっ殺してやる。

 

【ニュース】

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 電撃ネットワークの南部さんについて知っていること、イッテQでガンバレルーヤまひるKing Gnuのドラムの人の真似をした時にそっくりだったことぐらいや。

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 自治政府がダメダメな理由の一端がイスラエルにあったというのは知らなかった。ホンマろくでなしの集まりやないか。

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 アメリカの軍事侵攻もその後の統治もダメだったけどタリバンもクソだとしたら、アフガニスタンはソヴィエトに回帰するしかないってコト!?

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 萩生田帝国なのに萩生田を隠さないと勝てないの、何かの面白ジョークみたいだ。小池百合子もまだまだ元気なんやねえ。

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 メシウマオブザイヤーでした。「私は力をつけたかった。大臣並みの金を集めてやろうと思いました。金を集めることが必要なことだと思っていました。勘違いしていました」っていう頭の悪い言い訳も含め大変気分がよろしい。あとは南無阿弥陀仏と唱えて首吊るだけやぞ。

 

【読書】

 グラープマン『スコラ学の方法と歴史 上』(知泉書館)を読みました。訳文が行き届いているためかメチャクチャ読みやすく1日で読み切ってしまった。

 基本的には「理解せんがために信仰する」という中世スコラ学のドグマに関する歴史的な考察。キリスト教はじまって以来、信仰において得られる啓示を、可能な限り理性で明瞭化するという趣旨が一貫してあったというカトリック的な主張が展開される(もちろん、これは意志を重点に置き理性の役割を相対化しようとした近代のプロテスタント神学の向こうを張る意図があるのだろう。)。その意味で、アテナイイェルサレムは抱き合えるというわけだ。本書の考察は教父時代から12世紀までのアンセルムスまでが対象で、極めて発展史観的に描かれているのが印象的だった。ギリシア教父→アウグスティヌスボエティウス→(部分的にエリウゲナ)→ベレンガリウス論駁→ランフランクス→アンセルムス、みたいな流れ(アンセルムスべた褒めすぎて笑ってしまった)。続刊でアベラールなどへと流れていくのだろうなと思う。ちなみにトマスを扱うはずだった第三巻は未完だったとか。それにしても、エリウゲナやベレンガリウスのような思弁を突き進みまくってしまう学者に対しては「信仰をなおざりにしている!」と激おこなのは、カトリック的抹香を感じてしまいますわね。とはいえ、公刊されていない写本を渉猟し、どう見てもマイナーな神学者等をきちんと拾い上げて整理しており、この点が本書の古びることのないスカラシップというところだろう(シャルトルのイヴォのような教会法学の重鎮や、ラドゥルフスのような百科事典的作者についても、スコラ学の方法的発展という観点から目配せしている点はスゲェなと思う。)。

 面白いなと思ったのは、アンセルムスが実在論的な立場をとったのは、ロスケリヌスの唯名論が信仰に根差していないことが明白だったためという指摘。これはなぜかというと、三つのペルソナがどのように一つであるのか、という三位一体的問題構成について、「普遍」概念を実体的なものを見なさないことによるロスケリヌスの議論の帰結は、三位一体に関する異端的な見解(三神論)を惹起するという。アンセルムスにとっては信仰が理解のための前提にある以上、信仰による前提(三つのペルソナを一つの本性において統合される)を置かないことはできなかったのである。普遍論争とその他の神学的な問題の連関についてはあまり注意を払ってないのでこの点はなるほどと思いました。

 以下、引用を残しておきます。

 「スコラ学の思索は、アリストテレスを好みながらも、アウグスティヌス的な着想を指導原理としていたので、個々の問題や探求を深めつつも、神学の体系や大全を作り上げようという大きな力を保持していたと言える。論理学や概念操作がアウグスティヌスや教父の意図から外れて濫用されるようになると、神学の大全の時代は終わり、スコラ学は突如として崩壊し始めることになる。」(p181)

 (カロリング期の営みを説明して)「…一般的に言って、スコラ学以前の数世紀の間、啓示内容を解明しつつ体系化するために論理学が活用されることはほとんどなかった。当時、神学はとりわけ聖書の註解の営みだったのであり、こうした聖書註解は、目的にしたがえば道徳的で比喩的な特徴を備え、形式的にはほぼすべてが編纂によるものだった。聖書を解釈する場合、文法的で歴史的な観点や、聖書のテキストの思考の筋道および文脈が考慮されることはほとんどなく、もっぱら教父の抜粋を集めることに力点が置かれた。」(p245)

 「実在論は、思考にその客観的な内容を与え、真理の客観性と普遍的妥当性を保証し、形而上学的に世界を見ることを可能にする。対して唯名論は、真理の客観性と普遍的妥当性を否定し、霊魂が自分自身を超え出てはるかに広大な自然的および超自然的真理へと上昇することを妨げ、結局は主観主義と個人主義に行き着く。実在論が思考形式と思考内容をうまく調和するのに対し、唯名論は思考形式、あるいはむしろ言語形式だけを重視し、思考内容の価値を下げる。

 唯名論は、次のような論理学がはびこる、いわば豊かな土壌だった。すなわち、こうした論理学は、言語形式を重んじ、思考内容に深みがないことを、細かい議論、字句の拘泥、際限のない区別で各紙てごまかそうとするのである。しかし、スコラ学が進展していく中で、実在論を主張する人々の中にも、論理学を濫用して罪を犯した人もいたことは確かである。だが、唯名論の特徴は、内容ではなく形式を重視することにある。スコラ学の崩壊の歴史を見れば、こうした崩壊の時代には、再び盛んになった唯名論や概念論、さらには行き過ぎた論理学が関わり合いつつ生じていたことが分かる。」(p417)

 

【雑感】

 バカなのでFire TV stickを買いました。テレビでYoutube見てるけど、あんまタブレットとかと変わんねえ……? とはいえこれで海外ドラマとかアニメとか結構見ようと思ってますねん。スマホだとYoutubeに全betしちゃうので。