死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20231223-25

 安穏と三連休を過ごさせていただきました。別にクリスマスだからどうということはなく、ただ単に休みたかっただけですね。

 

【雑感】

 三連休の行状をざっと述べておくと、23日に友人たちと忘年会を行い、24日はのんべんだらりと過ごし、本日25日ものんべんだらりと過ごしました。

 忘年会では、30歳を超えて以降の人生ということについて改めて確認したが、基本的には「無限の滑落」の真っ最中であり、もうあとに残されたライフステージは死しかないということを悟る悲しい飲み会でしたね。ただ、料理はメチャクチャ美味かったし腹一杯になったのでよかったですね。

 ボーナスで、自分の実家にCOSORIのノンフライヤーというのを導入しました。なんか熱風を使って食材の油を使って揚げていくみたいな奴です。フライドポテトとか唐揚げとか、油を大して使わない(オリーブオイルぬりぬりぐらいだろうか)のに、まあまあいい感じに仕上がっていてよかったです。

 昨日M1をちょこっとだけ見ました。まあ何というかお笑いを見る側もかなりアップデートしていかないといけないのだなと思いましたね。令和ロマンになったのはよかったなと思います。何故なら昨年の敗者復活のドラえもんがバチボコ面白かったので。来年こそバキ童崇拝者にして令和ロマン同期の山崎おしるこを擁するムームー大陸を賞レースで見たいですね。あと、ゆにばーすにはそろそろ天下とってほしい……。

 あと、本を買ったんですけど、1万5千円握りしめて新刊書店行ったらこの3冊で終わりました。マジで本たっけぇし、俺の給料は趣味で学問をかじるにはあまりに低すぎることが分かって辛いねえ(とはいえ給料あげるか学問とお別れするかどっちか選べと言われたら全力で後者を選ぶね!!!)。

 

 

 

 

【ニュース】

digital.asahi.com

 俺はあんまりこの手の社会面的な記事のいい読者ではないのだがちょっと心を動かされましたね。クリスマスイブに亡くなった夫への追憶記事でした。何で俺が代わりに死ねなかったのか……。神様へ、死の淵にいる誰かが本当に生きたいと思っている時に、俺を代わりにしてくれてもええんやで。

 印象に残ったところを引用します。写真に撮られるのが嫌いな夫が、最後の時になってやっと写真を撮った時の話。

 

 ……娘たちの入学式でも卒業式でも着ていたお気に入りのハットとジャケット姿。後ろには、最後まで手放せずにいたサーフボード4本を並べた。

 終始笑顔でポーズを決めていた貴志さんは、撮影を終えるといった。「楽しかった。これで安心して天国に行ける」

 撮影から5日後、倒れて救急搬送された。貴志さんは「普段通りの場所で最期を迎えたい」。佑美さんは初めて長い休みを願い出て、家族4人そろって自宅で過ごした。

 次第に眠る時間が増えていった。

 深夜。ぜいぜいと呼吸が変化したことに気づいた。寝ていた娘たちを起こし、ベッドを囲んだ。

 眠るように呼吸が止まる、その時。貴志さんの顔を見つめ、笑顔で話しかけた。余命を宣告されてから、ずっと考えてきた言葉だった。

 「またね」

 特別な言葉ではなく、最期まで普段通りに。気づくと、日付は12月24日になっていた。「忘れてしまうから」と貴志さんが選んだ17回目の結婚記念日だった。

 

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www3.nhk.or.jp

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 大川原化工機事件は、公安事件史上どころか刑事事件史上でも稀に見る「国家としての失敗」と言いうる事件だったと思う。

 まず、全般的に公安は見切り発車過ぎる。その結果、国賠訴訟で「捏造」とまで言いうる証言が警察内部からも出てくるのである。俺からすれば、そうした反省を捜査段階で行えなかったのかというのが正直な感想である。次に、検察は全くブレーキになってない。NHK報道では東京地検は何度か公安の方針に疑義を呈しているが、結局のところ起訴した。公安の判断を追認しがちな理由を、若狭は公安の「ブラックボックス性」に帰すが、しかしそれじゃ何のための起訴独占主義やと言いたくなる。そして、経産省はいつものとおりゴミクソバカアホすぎた。公安警察は刑事手続を「情報収集」の手段と見做しているわけだが、それに経産省担当者が「(うちの規制で逮捕は厳しいと思うけど)それ端緒にガサ入れしてもろて別件で逮捕したらええんちゃう」と付和雷同するのは極めて醜悪としか言いようがない。端的に公務員としての業務遂行が可能なのか深刻な疑義を生じさせるほど、憲法基本的人権に関する理解が欠落していると思う。

 つまり、司法と行政が全くもって無能だった帰結として、特に悪いことをしていない人がひとり亡くなった。そんな顛末を引き起こしたのだから、こいつらに国家の安全を任せることはおろか、適正な刑事手続を期待するのも困難なのではないかという疑念は出てきて当然なのである。これが国家としての失敗と俺が考える理由である。法が死ぬと国民国家は腐敗するとはアーレントが『全体主義の起原』で行った極めて重要な指摘だが、まさにそういう事態だと個人的には捉えている。こんな連中がのたまう経済安全保障とやらはクソ過ぎるし、クリアランスどうこう言う前におのれらがシャキッとしないから中国やロシアみたいな舐めプ国家に負けるんやぞと、保守を自認する人々はもっと声を大にして高市パワハラ寸前まで怒鳴りつけた方がいいと思う。

 なお、国賠の訴訟の中で、起訴した検事は「そこに戻ってどういう判断をするかというと同じ判断をする」と述べており、さらに「判断は誤っていないので謝罪しません」とのたまったと報道されている。はっきり言っていずれも開き直りに近い暴言だが、他方NHKの報道によると、この検事も警察の捜査方針に一度疑義を呈していることが明らかになっている。そうであればこそ、一旦身柄を離した上でさらに継続捜査を重ねて判断するということもあっただろう。このように自分たちの方針を根底から崩さない範囲での他のオプションもあったにも拘わらず、無理筋の起訴に踏み込むという結論を同じ状況に置かれてもなお行うのであれば、司法試験を通った人間にあまりこんなことは言いたくないが、明々白々なまでの思考の欠如でしかなく、アーレントが喝破した「陳腐さ」の証明に他ならないのではないか。わが国は別に全体主義体制を敷かれているわけでもなんでもなく、曲がりなりにも中国やロシアよりかは幾分マシなデュープロセス国家であるという前提に立てば、この検事はアイヒマンより幾分恵まれた状況に置かれているからこそ、その「陳腐さ」はアイヒマンよりも重く指弾されるべきではないだろうか。

 

【読書】

 休日は読書をほとんどしない人間ですが、和仁陽『教会・公法学・国家』を引き続き読み進めておりまして、第2章「20世紀初頭におけるカトリック知識人の進出とシュミット」を読ませていただきました。これもまた勉強になりまくりんぐですね。

 第2章も本論へ至るまでの予備的考察ということで、19世紀後半から20世紀前半にかけての、ドイツにおける文化カトリックの位置価を測定しつつ、そこでシュミットがどのような役割を得たのか、また他のカトリック思想家(いわゆる「道徳神学者」や、カトリック公法学者)とどのように差異化できるのかというところが論点となっている。

 元々ドイツにおけるカトリックの地位といえば、周知のとおりビスマルクとの「文化闘争」によって、劣位に追いやられてきたというのが衆目の一致するところである。ところが、第一次世界大戦によるプロテスタンティズムの壊滅的な状況とは異なり、カトリックはある種の組織的・文化的な凝集性を保っていたこともあり、ヴァイマル憲法体制になって中央党として体制を支える一翼を担うにまで至った。文化面では、いわゆるフランスの「カトリック復興」に追いつけ、ということで、ドイツの中でも文芸を中心とするフォーラム「Hochland」が創設され、そこにシュミットが寄稿するようになる。著者曰く、「1920年代までのシュミットは、カトリック復興の機運の中で、フランスのカトリックの動向を意識しつつ、ライヒドイツの公的言論に参加しようとしていたカトリック知識人の潮流に緩く位置づけることができよう。」(p92)。

 さてそのシュミットがどのような立場からこうした公的言論に参画しようとしたのかというと、それはカトリック的な抹香臭さのする「ネオスコラ学的な道徳神学」ではなく、あくまで学知に支えられたカトリックの俗人公法学者としてだった。その独自性は「「政治的カトリシスム」からも、道徳神学に規定されたネオスコラ学からも、徹底的に自由だったことに由来する」と喝破する著者は、ネオスコラとシュミットの立場の違いを以下のように整理する。

 「ネオスコラ学が、文化闘争における国家立法による教会の自由権の「恣意的ー決断的」侵害に対し、国家実定法から独立に妥当する自然法的秩序を援用することに精力を傾注したとすれば、シュミットは、この法的決断の独占を国家の本質としてそのまま肯定し、この決断主義的な秩序としての国家それ事態の範型をカトリック教会に求めることにより、近代国家のシステム全体に対する教会の規定性を主張する。」(pp112-3)

 あくまで伝統的なスコラの自然法論からは独立し、現実のカトリックに対しても政治的な支援とすらなり得ないような観念的な法形象としての理念的カトリック教会にシュミットは近代国家の隘路から抜け出す道を見出したのである(この点で、シュミットがもう一つ奉じていた理想形が、フランスのガリカニスムであったことは興味深い)。

 以上の他に、勉強になるなと思ったところを引用します。

 「シュミットは、ゾームが定式化した、教皇の不可謬性ーーまさにそのドグマ化が文化闘争のきっかけの一つとなり、ドイツのカトリシスム内部にも深い傷跡を残したーーを本質的要素とする法的秩序としての教会理解に、カトリシズムのプロテスタンティスムに対する優位を見てとる。そればかりか、カトリック教会を近代世俗国家のモデルとみることにより、カトリック自然法の関心事が国家から独立した教会の法権力の防衛にあったのと対照的に、近代国家に対するカトリック教会の秩序の規定性がーーもちろん観念的なレヴェルにおいてではあるがーー攻撃的に主張されたのである。」(pp97-8)