死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20231220

 この記事はiPadで書いています。combo touchに慣れようと思いまして。

 iPadはいつも持ち歩いているので、これならば本を読みながらメモが取れるかなと思いました。しかし、ライブ変換がメチャクチャ邪魔ですね。書きたいことが思うように表示されない感じがありだいぶストレスでございますよ。

 

【労働】

 今日は出勤して適当にこなしました。久しぶりに悩ましいチャレンジ課題があったが、適当に色々やってたらなんとなかなったので俺はハチワレ。でっかいハチワレ。

 

【ニュース】

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 人間の弱さみたいな記事です。トヨタも大変やなあ。

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 本屋はどんどんなくなっていくので悲しいですね。本を書店でもっと買わなきゃいけないんだろうなとは思っています。滅びゆく文化だとしても。

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 ひどすぎて草も生えない。「人間のクズ、社会の底辺、ドブみてえな男、童貞、障害者、その他エトセトラ……」の俺でさえガザ地区の状況に毎日心を痛めていて、それでSNSを辞めたぐらいなのに、健常ユダヤ人の皆さんには心がないんですか……。

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 この記事で谷口先生が言っているように、政党レベルでの充実策が必要な気がするが、やっぱ自民党には「解党的出直し」をしてもらわないことには最低限の金すら与えたくないという素朴な気持ちが出てしまうンゴね。

 

【読書】

 シュミット『独裁』を読み終えました。かなり歯応えのある読書でした。うまいことまとめてみようと思います。

 シュミットにおいて「法規範と法実現規範の対立」は終生の課題だった。つまり、法を守るために、法を宙吊りにせざるを得ないような具体的事態が発生した時の対応手法は、自ずと法に背馳することがありうるというアポリアである(例としては、本書でも述べている戒厳状態や、ライヒ大統領の緊急権など。)。本書の著述の意図は、そうした国家論の根本問題のいち解決策として「独裁」概念を捉え直すことにある。通常言われている専制政治や暴政といったようなものとは別に、シュミットはあくまで法的な原理としてどのような建て付けで「独裁」が生起するのかにフォーカスする。これが、委任独裁と主権独裁の「本質的区別」にあるのである。この両者の概念は、シュミットが考え出した分析概念であり、これに基づいてある種の国法史的・思想史的な輪郭を描き出すことをシュミットは著述の課題として設定している。シュミット自身が序論で次のような素描を与えている。

 「初期の「改革」独裁から、理論的に国民の「制定権力」にもとづく革命=独裁への移行を構成する。十八世紀には、キリスト教的西欧の史上はじめて、つぎのような独裁概念が登場する。すなわちこれによれば、独裁者がコミサールであることは変わらないが、制定された権力ではなしにかれらが制定した権力という特性にもとづく文字通り国民を代表するコミサール、つまりみずからの委託者に依拠してみずからを正統化することはやめないで、しかもみずからの委託者に対しても指令する独裁者である。」(p12)。

 これだけ読んでも「は?」となるが、なんとなく委任独裁から主権独裁へ展開していくんだなという感じで理解すればよいと思う。

 古代ローマにおける独裁官が時限的であったように、歴史的には「委任独裁」が先行している。中世における教皇特使や、近代に至るまでひょこっといた君主の「委員commisaire」が、かつては委任した人間が「その場にいたらするであろう行為」を、委任者から授権を受けて、その目的を達成しうる範囲で強い権限を持って行動ができた。このような形での委任独裁を、理念史的な観点からはじめて明瞭に扱ったのは、主権の確立者であるボダンだった。単なる政治技術的関心から国家を扱う(=法を軽視する)マキァヴェッリや国家理性論者、共和国家を理想化することでそもそも独裁の問題を回避したモナルコマキの間に立って、ボダンは「きわめて明白かつ徹底的な法律的基礎」を委任独裁に与えた。

 歴史的に言えば、コミサールたちは、君主サイドとしては絶対主義の貫徹のために身分的特権を排除するための道具にもなりうるということでもあった。そして、特定の目的のために派遣された委員たちはそのうち官僚組織として鞍替えされる。「実地技術的目的に支配される体系の、たんなる手段にすぎず、主権者が、その絶対主義を樹立するのがただ同時に官僚機構の固定化・組織化によってのみ可能であったという、まさにそのゆえに、もちろん、この体系内でははばを利かせたのであった。こうして委員は、正規の官吏となった。君主の主権と共に、君主の官僚組織が確立するのである。」(p88)。

 他方、マブリやルソーの論述から主権独裁を予言するような不穏さを持っていることを、シュミットは注意深く彼らの著述の中から読み解いてみせる。マブリは執行部を抑制するために立法部からの特別な委員を派遣し、周期的な「改革年」には改革のための強いコントロール権限をその委員に与えよと提案する。これは委任を飛び越えて「あらゆる既成の権限が沈黙してしまう絶対的全権」であり、これを国民の代表たる立法部による執行部の制御だとすれば、「ジャコバン独裁」の予言であるとシュミットは捉える。また、ルソーは『社会契約論』において、国民の意志を代行するコミサールという形で、君主や独裁者(さらには立法者も)は把握されなおされる。

 そして、委任がある種の「改革的」な意図を帯び始めることによって、主権独裁への展開が発生する。シュミット曰く、「独裁にはすべて委任がある。そして問題は、主権と合致しうる委任が存在するか否か、および委託に依存するということが、どの程度まで主権の概念と矛盾するのか、である。」(p157)。この委託者と受託者の一致、「憲法を制定する独裁者を構成することを可能にするような結合」(p146)を生み出したのが、委託者としての「制定権力」であり、これは「憲法が真の憲法としての姿でありうるような状態を作り出そうと努める」(同)という主権独裁的な構成を可能にする。なお、その先駆的な過程を示したのが護国卿クロムウェルによる「独裁」(ただし、シュミットはクロムウェルがきわめて神権的な独裁者であったことから、国民の「制定権力」を背負う「主権独裁」であると見なすことを注意深く回避している。が、訳者解説はこれを主権独裁の一例としてしまっているあたり、読みとしてまずいと言わざるを得ない。なお、この読み筋については、手元にある研究書では、長野晃の『カール・シュミットと国家学の黄昏』p18註でも同様の指摘がなされている)が、シュミットが明確に主権独裁として名指ししているのはジャコバン独裁である。ジャコバン独裁はまさに国民議会という「制定権力」の担い手のもと、国民議会から大量の委員を派遣(主権独裁下における委任独裁)し、革命期の統治を行ってきたのである。

 最終章として、シュミットはいわゆる「戒厳状態」を考察し、そして最後にライヒ大統領における緊急権の問題をこれまでの独裁概念を使って考察している。

 まとめなおしながら思ったのは、思想史的な記述と、国法史的な記述がかなり錯綜している割には、両者の関係性が全くつっこんで考察されていないのはどういうことやねんと思った。ボダンやルソー、マブリやシェイエスがこう言ったんだよということと、現実の委任独裁や主権独裁状況の分析があまりに噛み合っていないので、著述としては散漫な印象が否めなかった。最後の戒厳状態や緊急権の分析についても、あまりに純法学的すぎてついていけないところがあったのだが、唐突な感は否めないところだった。あと訳文があまりよろしくないです。既に指摘したとおり、解説もあまりよくないと思う。とはいえ、面白いことは確かで、突っ込んで色々考えてみたくなる記述もたくさんあったので、そういった点を細かく読んでいけば実りある読書体験になるのだろうなと思いました。

 

【雑感】

 明日誕生日なので頑張ってもう1本書きます。今日はそういう日。目指せ12時投稿。