死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20231227

 本日は忘年会④もしくは⑤です(数え方が曖昧になってしまった)。来年から週1で飲み会行くのやめないと、そろそろ本当に貯金切り崩し生活になるな。別になってもいいが、放漫財政は趣味ではないので……。

 

【労働】

 一足早い仕事納めです。今年は本当に辛かった。が、近日中に一年を振り返る記事をアップ予定なので詳細はそこで。

 

【ニュース】

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 予断は許さないところだが、如何にもありそうな話だなと思えるところが実は二重に罠なのかもしれない。とはいえ、文春も最近はきちんと裏付け取材をしているような印象はあるので、はてさて……

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 この記事は面白かった。市長に1日随行というのは、普通だとあまり考えにくいが、まさにこういう新人市長だからできることなのだろう。父親の会社をクビになり、引きこもり、一念発起して会社を立ち上げ、そして選挙に2度落ちた。でも「挫折を挫折だと思っちゃいけない」と言うのはすごいメンタルだなと素朴に思いました。

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 残念でもなく当然。判決要旨を知りたいところ。国と都はせめて控訴しないという誠意を見せるべきな気がするがこいつらにそんな精神性を期待する方がバカなのかもしれない。

 

【読書】

 和仁陽『教会・公法学・国家』読了……まぁたしんどい本だった。論述がわかりにくいというところはほぼなく(あるとしたらそれはシュミットが曖昧すぎる点に帰せられる)、ただ議論が高密度すぎて俺の脳内CPUの限界を普通に超えてきたというだけである。大学時代どうやってこの本を読んだのかと思い直したのだが、きっと全くといっていいほど読めてなかったのかもしれない(正直ほぼ初読みたいな感想を持っている。)。多分ちゃんと読むには、①法学・政治思想史・哲学史・ドイツ史(とりわけ宗教改革以降と近現代)の最低限の素養、②シュミットの代表的な著作に一度でも目を通したことがある人、③ドイツ語とラテン語が多少わかる人(フランス語も引用されているがそこまで本質的ではない)、でないといけないっぽい。つまり有り体に言ってしまえばこれは著者の同業者が名宛人の本です。わかるわけねーだろ!!!

 とはいえ、なんとか頑張って食らいついて、8割も分かったという気にはならなかったにしても、持ち帰った2割はそれなりに勉強になるし、わかりそうでわからないところも「あっ重要なことだなこれは」と思って、とりあえず線を引くだけ引いてみた。とはいえ、これを理解するには、またシュミットを読み直し、素養を高め、ドイツ語やラテン語も補強した上で再チャレンジ……しなければならないような気がします。うん、20年後の俺に期待しよう。

 第5章「カトリック公法学の変質」を粗略ながらまとめておきます。なお、俺のまとめでは恐らく十分な説明になっていないかもしれない。来年になったらこの本の内容をすっかり忘れているだろう未来の俺へ。悪いのは頭の悪い自分だからな、勘弁してくれや。

 前章までで述べてきたのは、シュミットが経済・技術思考に支配された近代批判の武器が「再現前」の原理であり、これらの系としてシュミットは様々な概念を拵えて近代批判を行った。ただ、そのモデルとなっているカトリック教会や絶対主義国家でさえ、その世俗化過程において「技術」の論理が入り込んでいるという問題があった(例:教会統治の官僚制化や、『独裁』におけるマキァヴェッリやアルカナ・インペリイ論者における近代国家台頭期の純技術的政治志向)。つまり、経済・技術思考を批判するために動員した概念自体に批判対象の契機が内在しており、ある種の自己矛盾を抱えていたわけである。

 当の再現前原理ですら、それが批判的な意図をもつ概念としては有効性があったにしても、経験的現実における概念復権は難しいと考えられていた。何故なら、再現前自体がバロック的な特殊近代的な歴史的概念だったからである。和仁は次のように述べる。「シュミットは、これらの概念(引用者註:再現前及びフォルム性)を歴史的具体性をもつものとして提出し、それらの喪われた豊穣性に注意を喚起することにより、19世紀以降の国家・社会の問題性を照射することができた。その反面、再現前とフォルムの概念的復権の試みは、早い時期から一種の諦念につきまとわれている。経験的現実に対する対立原理としての再現前ないしフォルムのもつ尖鋭な批判性は、経験的現実の側がこれらに対するセンスを全く欠いており、そのかぎりでこれらの「復権」が「現実的」には徒労であるという前提により支えられていた。」(p311)もしくは「再現前を19世紀以降に推及したシュミットの操作は、自覚的な版歴史性を帯びていた。この作業は、喪われた観念世界を喚び覚ましたという意味では、大きな成功をおさめる。それにとどまらず、absoluter Verfassungbegriff(引用者註:絶対的憲法概念、シュミットが市民的法治国の基礎に据えた概念)により、アンシァンレジームの国制の革新部分を現在の国制の基層として保存することができた。だが、Verfassunglehreの意図が、絶対主義により典型的に形成された秩序を修正を加えつつ再生することにあったかぎりで(ただし厳密にその限りでのみ)、シュミットがマイネッケに対して提出した疑義(引用者註:『近代国家における国家理性の理念』書評におけるシュミットによるマイネッケの国家理性概念の取り扱い方が歴史性を欠いているという批判)は自らに対するものであった。概念の反歴史性を自覚化したからといって、その概念が時代適合的になるわけではないからである。それどころか、「ratioからもstatusからも遠く隔たった」時代において国家の単一性を防禦するために、その時代が原理的に理解しない観念に再び努力を吹きこもうとする努力の限界は、再現前概念の歴史性の故に一層痛烈に認識されることになる。」(p315)。

 また、こうしたシュミットの立論がドイツ知識人において広く受け入れられたわけではない。徹頭徹尾ロマンス的=カトリック的である思考は、プロテスタントプロイセン=市民文化の知識人社会からしてある種の「アウトサイダー」であったこともそうだが、そもそもシュミットが根本的に抱いている「無政治的個人主義」の孤独=国家の消極的肯定についても、シュパンなどの「他」の肯定=社会統合の可能性を見出す学者からは受け入れ難いものだった。そして、傑出した憲法学者であるスメントが、シュミットの静態的な再現前原理とは全く正反対の動態的な「統合」理論を打ち出した時に、シュミットは自身の軌道修正を迫られる。

 こうしたことを受けて、再現前原理を後景に押しやって友敵決定の「政治的なもの」を打ち出したのが1927年の『政治の概念(通例『政治的なるものの概念』)』であった。この著述の意図として、和仁は「近代主権国家の基本構造」をあくまで保持し続けたいシュミットの絶対防禦ラインが「国家の中間団体に対する原理的優位」にあったと喝破する。『政治的なものの概念』を読むと、ともすると団体間の抗争が政治的な「殺すか殺されるか」の対立に発展するかのように読める(つまり主権国家という枠組みが内的に解体されるような契機を含むという読み)が、和仁は「宗教的・道徳的・経済的対立が「敵味方」関係に転化するという命題は、本来、国家の行う敵味方の判別が、自律的な精神領域に由来する動機をもつにしても、それが政治性をもつのを妨げないことを論証すべく提出されたものである。換言すれば、国家による「敵味方」の判別が、これらの対立から実質を獲得すること、更には、宗教的なり経済的なりの団体に超越してpolitische Einheitたる国家が存在することの論拠であった。」(p350)「要するに、再現前概念が初期近代の主権国家の秩序のプレグナントな表現であり、同一性概念により1789年以降の国制の基本が端的にいいあらわされているとすれば、Begriff Des Politischenは元来、右の歴史的に重層する関係にある二つのフォルムが形成する秩序全体が危機に晒された中で、国家の単一性と、その系としての複数の国家の並存とを防衛するための理論である。」(p363)。

 『憲法論』において再現前原理が完成し、それを『政治的なるものの概念』で別の観点から裏書したとすれば、初期シュミットにおける再現前のプロジェクトは一応完結を見たがそれが同時に自壊のはじまりでもあったというのが、和仁が本書のシュミット解釈で与えた帰結である。実際、シュミットにおいてこれ以降再現前原理はめっきり登場しなくなり、代わっていわゆる「具体的秩序論」が飛び出してくる。またシュミットにおけるカトリック理論への傾斜も見えなくなってくる。そうこうしていくうちに、シュミットは現実政治への誘惑に抗しきれずベルリンへと移り、そして「ナチの桂冠法学者」として、「「政治に鼻づらをひきまわされて」汚辱に満ちた敗北に終わった第二期」へと後世に総括されるような道へと至るのである。とはいえ、「初期の観念世界が、以後のシュミットの作品全体に対して及ぼしている規定性がきわめて強力」(p378)であり、『レヴィアタン』『陸と海と』『大地のノモス』といった後期著作も「初期の作品に対する自己注釈」(同)と解しうる、と和仁は述べる。

 最後に全体的な感想を。本書は初期シュミットの著作を丹念に読解した上に、和仁の並外れた該博さによってそれが同時代の言論状況に丁寧に位置付けられた結果、他のシュミット研究書にはない独自性を獲得したといえる。「法学者」シュミットという、シュミット自身の自己規定に沿う形で徹頭徹尾構成されているので、この点は別の解釈もありうるかもしれないが、これほどまでの密度で初期シュミットのプロジェクトが再構成されているのは端的にスゲェなと思った。