死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20231226

【労働】

 極めて不愉快なことがあり、酒を飲むに至っています。マジでふざけんなよあのバカ。何で俺にだけ敬語を外せるんやアイツ。人のこと舐めやがって。俺が他の人間に舐められてるからってテメェに舐められたら俺はとことんブチギレるわ。低能のくせにイキってんじゃねえ、誰が舐めていいかは俺が決めんだよ殺すぞボケが。本当に立場を弁えるまでボコボコに殴ってやりてえ。ただ、結局俺の職場の地位というのはこんなもんなんだと思い知ったので、もう諦めるしかないかもしれない。クソッタレ。

 

【ニュース】

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 古代ギリシア史の橋場弦が、イギリスの大学の図書館にある校訂前のテクストを鉛筆で丁寧に丁寧にノートを撮って、学問の重みを感じた、みたいな話をどっかで読んだ記憶があるのだが、こんなことで何の重みを感じればいいんだ。

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 死にたいという気持ちをないがしろにするな!!!!!!!!!!!! 

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 夢の国の過重労働とかいう何も言えなくなる話。

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 いや全部廃止しなきゃフェイクやろ。何個会議作ってんねんこいつら。

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 NHKのColabo流出にも言えるが、根本的にこの手の仕事を外注するというのはそれなりのリスク込みでやらなければならないところ、そもそもそのリスクを甘受するほどどこもかしこも人手不足なんか?という気がしないでもない。俺を雇ってくれ、誠心誠意働きます。

 

【読書】

 和仁陽『教会・公法学・国家』を引き続き読んでいます。

 第3章「時代批判からのカトリック公法学の成立」及び本書の白眉かつ最も重要な第4章「教会・再現前・国家」を読みました。改めて脳が焼かれるぐらい勉強になるし、人間の天才の前にひれ伏すしかねえとなっている。ところで、メチャクチャ読書ノート取るのが大変なので脳が狂いそう。

 

<第3章について>

 著者はシュミットの出発点を、「近代における内在化現象、すなわち超越の喪失」、つまり「宗教的には人格神的キリスト教の後退、国制史的には革命的正統性の登場、社会的には経済・技術的合理性の貫徹、知的には宗教的・形而上学的要素を拒絶する実証主義の支配」を対象とするラディカルな批判(p125)とする。

 この批判の手法としてシュミットが援用するのが法学なのであるが、これには法学の極めて概念的な性質があると指摘される。シュミットの理解者であった表現主義者バルがシュミットを「イデオローグ」と形容したことは有名だが、その内実は「「現実」の事象は徹底的に「理念」により構成されねばならず、現実と理念、制度と思想は二元的に存立し、一方が他方を規定しているのではない。両者は、徹底的に知的・思想的に構想されながら現実性を失わない」(p128)というところにあった。こうしたシュミットの思考の淵源をファイヒンガーの「かのようにの哲学」に見ることは、既に多くの研究者が指摘するところではあるが、著者はむしろファイヒンガー以上に徹底した批判的性格を持つニーチェとの思想的影響関係を指摘していることは興味深い。

 こうした発想において、シュミットの思考は極端に法学化する。つまり、ある種の窮極的審級を頂点とする概念構造化=審美的な論証構造のフォルムの重視である。「シュミットにおいて、概念への関心の集中がさらに極端化すると、世界像・国家像・社会像を、あるいはまた制度論・法律論を支えるところの、窮極的な鍼灸への関心の集中として現れる。概念的構築物の頂点に、窮極的な明証性をもつ最終的な一点が存在することが想定され、これが、論証全体のフォルムと構造を規定するものとされる。シュミットが決定的な意義をみとめるのは、論証の内容ではなく(少なくともそれ以上に)、そのフォルムなのである。(中略)この理解は、一方で、神学・形而上学における人格神の要請と、他方で法学における最終的審級の要請とから発しており、あらゆる思考の所産を神学相似的かつ法学相似的にとらえる結果を招いている。」(pp138-9) 学知における形式美の追求というとなんだかよくわからなくなってくるが、そういうことらしい。

 こういったシュミットの思考の特徴を踏まえつつ、和仁は初期シュミットの著作の解読作業を行う。例えば、教授資格論文『国家の価値と個人の意義』や、ドイブラー『極光』論、「ブリブンケン」などの文芸批評的著作である。その特徴はいずれも「営業化Betrieb」する近代への徹底した批判精神(そして、近代精神への批判を遂行するドイツ教養市民層への批判も含んだメタ批判)にある。一例として、和仁訳出の『国家の価値』の近代批判を掲載します。完全に思い当たる節しかなくて草なんだ。

 「今日じじつ個人の自由が至上のものであり、あらゆる営みの物差しとなっているなどという思い込みに対しては、一見しただけでわかるはずの幾多の兆候が、声高に抗議している。機械や組織の時代、機械的な時代ーーヴァルター・ラーテナウがその著『時代の批判』において現代をそう名付けているが、この本はまさに当世流であり、現代をこの本に因んで「時代批判」の時代と命名してもいいくらいだーー、その憧れと無双の対象によって何が欠けているかを示す時代、その文化の実態をみると、芸術と学問の分野にまで傍聴してきた「営業(Betrieb)」の観念が頂点をなしている時代、貨幣経済の、技術の、管理術の時代、あらゆるものが手段化され何もかも予測可能になった時代、このような時代が個人主義の時代といえるとすれば、それは、現代についてとめどなく費やされる議論から生ずる、反語的な言い方でしかない。いまだかつて、コード化=法典化し〔それに〕包摂されようという欲求がこれほど強い時代はなかった。最もたおやかな徒花の例を挙げれば、遊び人の手引=簡単書や良い趣味の教科書=学説彙纂というのが色々あって、それに文化人の大多数が、ちょうどお手本の騎士道小説の構成要件にみずからの体験を包摂するドンキホーテのように、熱心に自己を包摂している。そんな時代には、権威絶対的な精神などはーーそれがいけないという批判はいくらもあるがーー実はありはしない。あるのは、周りのいうなりになる良い趣味だけである。この現象を反対側から補完している次のことも判断を下す上で大切だ。それは、今日沢山の人間が、陋劣な行いと下品な仕草を恥じることをしなくなったがために、個性的で通っているということである。確かに趣味の良さというのは豊かさがフォルムを得てできた場合もあるが、そうでなく精神的貧困という欠落の産物のこともある。そして、この貧困を〔キリスト教的いみの〕心の貧しさと混同してはいけない」(Der Wert das Staates 4f)(本書はp144-5)

 こうした近代批判の一例であるロマン主義を「近代を特徴づけ規定する二つの実在(Realitäten)たるフォルクと歴史とに直面した人間の、これらに対する知的対応の一形態として位置づけたうえ、この主観主義的―感情的―審美主義的対応が、結局、両実在を操作しうるかの幻想を抱きながらこれに利用される点で、不十分ないし失格である」(pp155-6)と総括した『政治的ロマン主義』において、シュミットは「公法学」による批判を企図し始める。初期シュミットをロングレンジで概観して析出したこうした近代批判を、ヴェーバーとも共通すると和仁は指摘する。あえて政治的な行為決定における個人の価値=責任倫理の強調を行うヴェーバーに対してあくまで制度的な決断を重視するシュミットの対比を、「もし決断主義の下に個人の決断の理論的重視を理解するならば、ヴェーバーはシュミットより遥かに強度に決断主義者であった。こうして、価値の決断主義的性格の強調によってますます価値による思考の支配にまきこまれていったヴェーバーに対し、シュミットは価値に依拠する思考そのものを問題化することができたのである。」(p166)と鮮やかに描いてみせる。

 

<第4章について>

 第3章におけるシュミットにおけるラディカルな近代批判の武器となったのは「再現前(Repräsentation)」原理である(承知のとおり、通例「代表」と訳されるが、和仁はあえて「再+現前」と語要素をくっつけるように訳す。これは和仁自身指摘しているとおり語源的な釈義としては適していないが、あえてシュミットがこの概念に仮託している「歴史性」を表現するために選択しているとの由。)この分析概念(というと恐らく実念論者じみたシュミットに対しては不適当なのだろう)は、つまるところ「図式的に言えば、経済・技術志向と、シュミットが徐々にIdentitätと呼ぶようになる・革命に規定された近代固有の国制のあり方とに対抗して、復権を図るところの、ローマカトリック教会に範型的に具現され・(フランス)絶対主義の古典時代に開花をみた(その限りでアンシァンレジーム的な)、思想・芸術・秩序の原理」である。

 この概念のスコープはあまりに広すぎるので何とも言えないが、ざっくりまとめてしまうと、例えばカトリックにおける教会を「代表」する教皇であったり、宮廷社会において貴族性を「顕現」させる各種儀礼や演劇であったり、公的な職務=「顕職」であったりと、つまるところ何らか措定されている価値=理想像(それをシュミットはある種の形式性=フォルムに見ている)の現実的=具体的=公開的な現出であるというように考えればいいのかなと思いました。

 再現前概念を本格的に論ずる前に、和仁はプロテスタントの教会法学者ゾームとのシュミットの知的格闘を論じる(第1節)。元々においてシュミットはカトリックを徹頭徹尾法的な制度体と見做していたが、ゾームのカトリック批判をシュミットはポジティブな意味に転用して、その傾斜を深めていく。ゾームのカトリック批判は、プロテスタントとして霊的な御言葉に導かれるべきという立場からカトリックの法的秩序が本来的なキリスト教的なものでないという指摘なのだが、シュミットからすればゾームがカトリックの法的秩序をこれでもかと抉り出してくれたおかげで、それをポジティブに転用すればよかったのである。また、ゾームの批判の眼目であった教皇を頂点とした制度的決断主義的構造についても、シュミットが換骨奪胎してしまった。

 第2節では、再現前原理が完全にシュミットの知的遊戯になるものではなく、ある程度の歴史性を帯びた概念であることを、あえてシュミットから独立した研究(カントロヴィッチ、エリアス、クルティーヌなど)を用いて立証する。『王の二つの身体』や『宮廷社会』の分析が、まさにこうした再現前を証し立てているというわけだ。とりわけ、そうした「再現前」原理の歴史的な所在が初期近代、つまりシュミットが理想化した教会とフランス絶対主義の時代に見出されている点は重要である。

 こうした分析を踏まえつつ、シュミットの再現前概念に改めて戻ると、重きを置かれているのは再現前原理に貫徹された教会と国家がパラレルに存立することにある(カトリックの公認理論である「完全社会論」)。実はこの視角をもってしか、シュミット自身も曖昧とした定義しか残していない、いわゆる「政治神学」概念は理解できない。和仁によれば、畢竟政治神学とは「主権国家と一身同体をなす・特殊近代的産物としての国家学=公法学の始原学であり、この意味でいわばメタ法学的認識なのである。」(p229)。つまり、政治神学として名指しされているのは「君主と神における類比的な概念の移項関係」だが、そうした関係自体が主権概念ありきにしか成立しえない以上、そもそも曖昧に「政治神学」という言葉で名指しができるような対象が極めて限定されるのである(この点、むしろ中世後期イングランドに「政治神学」の成立を見るカントロヴィッチとの対比は依然として興味深いと思う。もちろん両者が同じ言葉を使っているだけで、その内実が全く異なるのは当然だが、個人的には、シュミットもカントロヴィッチも、「法学」と「神学」の思考の近接性・相似性を論じつつ、微妙に差があるように思う。)。「政治神学」概念自体をこのようにある程度限定しつつ、和仁はむしろシュミットが多く触れている「概念の社会学」の定位を試みる(通例、これが「政治神学」だと説明されることが多いが、和仁はその点はかなり区別して書いているように見受けられる。)。シュミットにおいては「概念の社会学」で証し立てられる形而上学と国家学の連関こそが、知的意義を有しているのである(このあたりになると流石についていけないというのが正直な感想)。

 著者は、シュミットの再現前概念がまさにニーチェヴェーバーによって遂行された近代及びドイツ市民文化批判を、公法学者シュミットなりに遂行し得るための武器だったことに触れつつ、そして『魔の山』における終末論的ジェスイットのナフタ(ルカーチがモデルとされている)とシュミットの奇妙なまでの類似性(しかしその帰結はクリティカルに異なる)に触れる。

 最後に、カトリック教会やフランス絶対主義を歴史的なモデルとする再現前概念について、シュミットは主著『憲法論』において、ヴァイマル共和制という本来的には相容れぬはずの政体に導入し得た消息が辿られる。AからBへの現出であるという再現前モデルと、A=A'の同一性モデル(「治者と被治者の一致」「革命的正統性」)は根本的に異なる概念だが、シュミットは同一性概念を再現前に合わせる形で、その共存を図った、とされる。これはまさに、絶対主義国家において現出した近代主権国家の基本構造が革命後も維持されているというシュミットの考えに立脚している。再現前概念は、こうして初期シュミットにおけるローマカトリック論からヴァイマル体制論までを貫く鍵概念であることが論証される。

 第4章についてはすいません力尽きました。酒飲みながら読んだ部分もあってかなり適当です。

 

<その他>

 なお、第3章の序で、その後の章の結論を先取り的にまとめているので、ぜひとも書き残しておきます。クソ長いですが。

 「第一次大戦前に、文芸的手法を含むさまざまの手段により試みられていた批判の作業は、内在化現象の国制的意義を重大視したPolitische Romantikを一つの区切りとして(以上第3章)、基本的に公法学の手段によって展開されるようになる。この批判の引照基準となったのは、きわめて特定的な歴史的秩序であった。それは、第一次的にカトリック教会、第二に、教会を範型に・そのパラレルとして形成された(とシュミットが理解する)、(とりわけフランスの)アンシァンレジームの秩序である。このモデルから抽出され、19世紀以降の近代に対置された包括的な秩序原理が、再現前(Repräsentation)にほかならない。この国制・思想・芸術に及ぶ原理は、シュミットが、カトリシスムの信仰を正面に打ち出しつつ、一方で経済・技術の浸透に、他方でフランス革命によって登場した革命的正統性に、対抗するための最も重要な概念となる。彼は、ヴァイマル憲法論において、革命を与件として承認しつつ(同一性)、なおアンシァンレジーム以来の秩序原理を現代に復権しようとするのである。

 ここに秩序の範型となったカトリック教会は、シュミットにとって徹底的に公法的な制度であった。この教会理解をシュミットは、エヴァンゲーリシュの教会法学者ルードルフ=ゾームから受容した上、ゾームがこの故にカトリシスムに与えた負の評価を逆転する。他方、ゾームにおいてカトリック教会論と密接に結び付いていた、法の本質を「フォルム」に求める法理解も、シュミットに受け継がれる。シュミットは、ゾームのフォルム概念のネガティヴな含意をも反転し、これを、再現前と密接に結合した・同様に包括的な、近代批判の概念とするのである。すなわち、第一に、フォルムは旧形而上学の形相に読み換えられ、物質=質料と理解された経験的現実に対する優位と規定性とを主張することによって、カトリシスムとの世界と結合する。第二に、再現前は、決断主義的法秩序としての教会と国家のフォルム(政体)としての位置づけを与えられる。第三に、フォルムは、カトリック教会とアンシァンレジームが形成した貴族的・古典的フォルムとして、近代のフォルムの欠如に対比される。最後に、第三点のコロラリーとして、このフォルム概念は、ロマンティクに象徴される市民的ドイツ文化に対する、ニーチェヴェーバーを継続する正面からの批判を含意していた(以上第4章)。

 したがって、端的にいえば、シュミットのこの時期の営為の核心は、フォルムなき時代として規定された近代に、公法学をはじめとする、さまざまな次元におけるフォルムを回復することにあった。1930年代からNationalsozialismus期の初めにかけてシュミットの弟子であったGünther Kraussは、「カール・シュミットといえば、それはフォルムを意味する(Wer Carl Schmitt sagt, sagt Form.)。」と述べている。この直観的発言の正しさは本書のなかで多様な局面で裏付けられるであろう。

 しかし、国家論を中心とした古典的フォルムの回復による近代への対処の試みは、まさにこの古典的主権国家が、シュミット自身の理解において、官僚制を本質的要素とする、ヨーロッパ近代の合理化過程の所産であることからして、当初から自己崩壊を運命づけられていた。このため、シュミットは、革命を起源とする政治的プラクシスをも公法学により動員する(実定的憲法概念、同一性原理)ことにより、進行する経済化・技術化への対抗を継続しようとする。のみならず、古典的絶対主義国家の遺産としての国家の単一性が、国家内の団体形成により危殆に瀕するのをみて、この単一性を、差し当たりカトリック的=アンシァンレジーム的秩序原理から独立に、防衛しようとする戦略をとる(政治の概念)ことまで余儀なくされるのである(第5章)。