死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20240202-0203

【雑感】

 ちょっとしばらく読書記録は不定期更新になります。もちろん読書はするし記録も続けるんですが、職務に関わる内容の本を何冊か読む予定なので、それを読んだということを公開するとちょっと今後に差しさわりがあるんですよね……。いつか言及したとおりこのブログが職場にバレている/勘付かれている可能性を排除しきれないので、あえて自分の手の内を見せたくないというのがあります。いずれ時が来れば記録として公開したいとは思っていますが。ただ、そうでもない本もまだまだたくさん読み残しているので、そういう本を読んだ時は頑張って公開します。

 まあ正直この記録は基本俺のためだけのものと思っておりますが、多少なりとも読んでいる人が周りにいるっぽいので……。

 

【労働】

 いろいろと考えた結果、完全に上皇みたいな気持ちになった。無理があろうと思われますってね。人生をステップアップさせていきたいっすね。

 

【ニュース】

米、イラン関連7施設の空爆発表 バイデン氏「我々の報復始まった」:朝日新聞デジタル

 報復、いい言葉だ。鈴木福の次に素晴らしい「ふく」ですね。やっぱ舐めてる奴らを殺すという素朴な気持ちを大事にしていきたい。それはそれとしてそのロジックで政治をやると破滅が待っているらしいが、別に個人も国家も破滅しきゃいけねえということはないわけで。目指せ令和の桂春団治

「性被害の問題、日本固有じゃない」 伊藤詩織さん、米映画祭に出品:朝日新聞デジタル

 山口敬之との一件のきっかけは、確か就職先の紹介を山口に伊藤が求めたとかどうとかみたいな話だったと思うが、因果が巡り巡って伊藤はメチャクチャ仕事が増えておりますわね……。一方山口が愛した安倍晋三の忘れ形見清和会は死滅したというので、完全に応報型昔話という感じでニッコリしちゃうね。

 

【読書】

 ティモシー・タケット『王の逃亡 フランス革命を変えた夏』(白水社)を読みました。図書館で借りた奴です。たまにフランス革命関連の本を読むんですがこれは面白かったですね。著者がリン・ハントと双璧をなす革命史研究家というのは寡聞にして知らなかったポヨね。

 世界史でちょこっとだけ触れられるルイ16世の「ヴァレンヌ逃亡事件」を扱った本書では、その逃亡事件の画策から顛末が語られるほか、事件を知ったパリ市民や国民議会議員、地方の官憲がどのような反応をもって受け止めてきたかを、文書史料を駆使して明らかにした労作である。一般向けの著述ということであるが、当時のフランス社会の混沌とした諸相にこの事件が加えた一撃が、その後の革命の恐怖政治的帰結を胚胎することになったという見解は興味深いものである(逆に、啓蒙思想のコロラリーとしての恐怖政治というフュレら修正主義の見解を著者は退けている。)。ひとつの事件が世界史にもたらした帰結について、なかなか考えさせられる本であった。一読の価値あり。

 第1章では当のその事件が素描される。ヴァレンヌという国境付近の小さな町に、「国王が馬車で旅をしている」と近くの駅舎長ドゥルエが飛び込んでくる。果たして二台の馬車が街を通りかかり、検問すると中からは何人もの中級の貴族らしき男女が出てくる。こいつらが誰なのか考えあぐねていたところで、地元の判事の妻がその男を「ああ、陛下!」と呼んでひざまずいたことで、馬車に乗っていたのはルイ16世とマリ=アントワネット、及びその子どもたちや侍従たちであったことが明らかになったのである。

 ルイは町の指導者たちに、自分たちはパリを占拠した狂信的なジャコバン派から逃れてきて、ドイツではなく国境付近の要塞で態勢を整え直すつもりだったのだと弁明する。それを一旦は真に受けた町の議員たちは王のその旅路を支援するとさえ申し出たのだが、街に騎兵隊がやってきて国民衛兵と一触即発の事態になったことなども手伝って、徐々に考えを変え始める。そしてヴァレンヌの町の指導者たちは、国王と王妃の逃避行を阻むべしという国民議会からの伝令を受け、その道筋を阻む以上に最終的に国王らをパリへ送り返すという決断をくだす。そして国王らは多くの群衆がひっついて回る中で、パリへの屈辱的な送還へと至るのである。

 そもそも何故ルイは逃亡を決断したのだろうか。第2章ではその消息が辿られる。周知のとおり、フランス革命は差し当たっては王が国民議会の決定を承認するという立憲君主的な過程を辿っていった。しかし、いくつかの事件(テュイルリ宮殿での乱痴気騒ぎや国王がサン・クルー城へ向かおうとしたら民衆に阻まれたこと)によって王権をいたく傷つけられたと感じたルイは、自分の自由にはならないパリ市街からの脱走を決意する。この脱走に手を貸したのが、ナンシーの虐殺者と知られるブイエ将軍と、マリ=アントワネットの愛人と目されたスウェーデンの伯爵アクセル・フォン・フェンセンであった。ブイエ将軍は近辺に正規軍部隊を配備して支援を整え、フェンセンはパリからの脱出経路を手早く整えた。しかし、ルイの優柔不断や、計画実行者の様々な判断ミスなどの要因があり、最終的には駅舎長ドゥルエがルイの逃亡に気づく結果となる。第3章で著者はこの計画を以下のとおり総括する。

 「実際、ヴァレンヌの「出来事」は――歴史におけるほぼすべての出来事がそうであるように――、ほとんど無数の副次的出来事の連鎖からなり、そのどれもがあの日の結末を変えたかもしれないからである。

 とはいえ、出来事のこの連なりから、微細な個々の行動と反応から一歩退いてみれば、二つの主要な要素がヴァレンヌの経験を形成したと論じることができよう。まず第一に、この冒険を通じての主要人物、すなわちルイ16世自身の性格と振る舞いがある。国王の常習的な優柔不断と頼りなさは、フランス革命全体の起源と進路に深遠なる影響を及ぼしていた。この事件に関して言えば、逃亡を早くから断固として決断していれば、成功の見込みはほぼ確実に大きくなっていたことだろう。(以下略)

 だがこの意味において、ヴァレンヌの失敗の二番目の根本的な原因はまさに、フランス革命によって生じたフランス人の態度と心理の全面的な変容にあったのである。自信、独立独歩、地域共同体だけではなく総体としての国民に属しているというアイデンティティの新しい感覚――ヴァレンヌという小さな町でわれわれが目にしたような変容――は、フランス人の大半に浸透していた。このような進展こそが、サント=ムヌーやヴァレンヌという小さな町の役人が国王をはばもうとして発揮した驚くべき主導力を説明する助けとなるのである。(以下略)

 実際、ある観点から見ると、真に問うべきは、なぜ国王の逃亡が失敗したのかではなく、どうしてそれがあわや成功しそうになったかということである。誰にも見咎められることなくチュイルリ宮殿を脱出し、パリという用心深く猜疑に満ちた大都市から逃れ、主要な郵便街道を通ってオーストリア国境まであと数十マイルのところまで旅する――国王一家のそうした華々しい離れ業すべてが、ブイエ将軍の、そしてとりわけアクセル・フォン・フェルセンの組織力を明確に示している。彼ら二人は協働することによって、史上最も偉大な脱出のひとつに数えられることは確実であった脱出を、成功の一歩手前まで導いたのである。」(p111-3)

 ここまでが事件の顛末の記述であるが、本書はそれにとどまらずこの事件の反応も追跡する。かつては市民王ルイとして愛された王だったが、それ以後裏切者として「豚」と評されるなど王権の象徴は取り返しのつかないダメージを受ける(この一因は、自分は好き好んで憲法を認めたわけではないという最後っ屁みたいに宮殿に置いていた「宣言書」のせいでもあった。)。国民議会の穏健派は、絶え間なく続くパリの暴力的な混乱を回復させるべく立憲君主政を望んでいたのだが、裏切者の王を戴く必要などないとして共和政を望む声もあった。このような形で国民議会でも議論が二分されることになり、そしてジャコバン派内でも穏健派(後にフイヤン派)・急進派と分かれることになる。一方で、市民たちは国王を見捨てて国民議会への忠誠を誓い、共和政を主張するコルドリエ・クラブなどと一体となって運動を行う(こうした中に、あのサン・キュロットの起源を著者は見出すのである。)。このような中でシャン・ド・マルスの虐殺が起こるなど、事態は混迷を極めていく。

 このような情勢では、外国から政体を転覆させようとする陰謀や、革命を脅かそうとする「宣誓拒否」司祭や旧来の貴族たちが陰謀を企んでいるという発想も無理はない。地方の官憲たちは国民議会の白紙委任を梃子に、恐怖政治の事前準備のようなことに乗り出す。つまり、郵便の秘密の侵害や、「反革命分子」と目された司祭や貴族の追放や殺害などである。

 結論としては、王の逃亡は、革命の担い手たちが始終抱いていたある種の「パラノイア的」な世界観を強固なものとし、彼らのパラノイア的な思考はかの恐怖政治への道筋を辿ることになる(実際、ルイやマリ・アントワネットはパリに送還された後も盛んにオーストリアに介入を指嗾していたようなのであながち間違いではなかったわけだが。)。