死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20240204-0206

【雑感】

 更新をしばしサボってしまいましたがそれも人生や。サボったお詫びですが、せっかくなので厚めに書きます。というかメンブレ中なので厚めに書きたいんじゃ。

 とはいえ、読書のメモを書くというのが主目的みたいなところがあるので、それを書かないということになるとなかなか更新自体も億劫になりがちですね。Youtubeに逃げまくってます。あと、実は環境に変化があり、読書しづらい状況になっております。

 ところで、昨日はスゲェ雪が降りましたね。日曜日にサザエさんで雪を喜ぶ子どもと辛く感じる大人のコントラストみたいなエピソードがあったんですが、実際次の日に雪をサクサクと踏みしめながら帰っていると雪なんか二度と降るんじゃねえという気持ちにしかならなかったっすね。

 

【労働】

 毎日ずーっと悲しいです。職場では大した仕事も与えられず、同僚からは相手にされず、庶務的な人からも普通に舐められた対応をとられるようになりました。しかし周りで聞くと忙しいプロジェクトがあるとか、全然帰れへんみたいな愚痴を聞くので、何でもいいからそういうところに俺を入れてくれねえかな?と真剣に思っております。ハチャメチャ労働の方がマシや。

 そういうこともあって、最近とんでもないレベルでメンタル不調なので上司に相談しようかなと思うのですが、上司も忙しいと来てなかなか切り出せずにおります。このままだとエスカレーションして近々心療内科に行くかもしれません。早くメンタル不調で休職しないとこのままではダメになってしまいそうなんですよね。

 この職場のアホみたいに真面目な雰囲気というのが、どのように作用したとて俺に合わないということがようやく分かってきたかもしれない。かといって前職の狂人の群れと付き合うのもしんどかったし、そもそも人と何かをするのが根本的に向いてないってことですかね。それはもう分かりきった話ですが。

 個人的にはもうある程度資金を貯めたらサラリーマン生活に終止符を打って、古本屋でもやりたいなと思っているんだがどうなんですかね。一体いくら貯めたらいいのかもわかっていませんが……。あるいは、最低限のコミュニケーションしかとらない仕事に従事するということも考えられますね。荒木優太みたいに清掃業を頑張りながら、細々と好きなことをするというのには最近強い関心を持っています。もちろん年収はガクッと下がるだろうが、この際一切の社交をなくし、サウナとかレンタカーとかそういう趣味も全部手放し、本やら何やら一切買わないという暮らしを貫けば、多分年収200万(生活保護と同じぐらいですが、まだ俺の人生もどこかに役立つというのであれば何か労働はしておきたいなという気持ちになっています)でもどうとでもなるような気がします。俺がこの人生で唯一手にしているクソ強アドバンテージが都内実家暮らしなので。

 何かしょうもない面子のためにとことん人生を擦り減らしている気がするんですよね。大卒だとか、周りがエリートサラリーマンばっかりだとか、親の期待だとか……。だけどその面子のために俺の人生は奈落の最下層みたいなところに落ち込んだんですよ。前職(そこそこ高給だけど反社スレスレの有名ブラック企業)で自殺寸前まで追い込まれて、今さら何が面子だという話ですよね。今の職業だってまあ早稲田卒の平均以下の給料ですが、それでも大卒の到達点としては許容可能、みたいなところで仕方なく居残っているような感もあり、そんなしょうもないプライドを引きずって汲々としながら職場にしがみつくぐらいなら自分の人生に対してもう少し真摯になりたいな、って最近は本当にそう思っています。

 漫然と書き散らしましたが、自分ではもう本当にどうすればいいのか分からないのです。誰か助けてくれ~。

 

【ニュース】

闇バイトに応募の少年に「キム」は… 「お前の家、分かってんだよ」 [広島県]:朝日新聞デジタル

 タタキの闇バイトに応募した少年の人生経過を引用します。

…その後の検察官や弁護人の被告人質問で、少年が犯行に至るまでの経緯がつまびらかになった。

 中学生の頃は、全国レベルのバドミントン部で練習に励んだ。高校受験を控え、志望校への合格をめざして、朝から晩まで図書館で勉強した。

 だが、思うように成績は伸びず、志望校とは別の高校に進んだ。早々に部活をやめると、次第に非行に走るようになり、地元の暴走族に加わった。

 少年は自身の性格を「寂しがり屋で、人に流されやすい性格だと思います」と述べた。共働きの両親のもとで抱えた孤独感を、仲間といることで紛らわせた。

 窃盗や恐喝事件を起こし、少年院に2度入った。2度目の少年院では、生活態度が認められて院内の賞をもらった。22年7月に仮退院。高卒認定試験を受け、夜の倉庫や屋台でのアルバイトに精を出した。美容の専門学校に行く、という目標があった。

 その矢先、付き合いのあった暴走族のリーダーからSNSで連絡があった。「お前ちゃんと(暴走族を)抜けてないだろ」。迷惑料名目で20万円を要求された。アルバイト代から5万円を払ったが、要求は続き、当時交際していた女性の姉から5万円を借りて渡した。

 女性の姉からその後、少年の別のトラブルに絡んで、「迷惑料」として20万円を要求されるようになった。支払いを迫られ、男4人から殴られたこともあった。

 その頃から、少年は再び不良仲間といるようになり、家には週2~3回しか帰らなくなった。バイトはほとんどしなくなり、「迷惑料」は払えなかった。

 知人20人ほどに借金を申し込むと、声をかけた一人から「闇バイトやってみろよ」とすすめられた。ツイッター(現X)で検索した。

 「働いて工面しようと思わなかったのはなぜ」と弁護人から問われた少年は、「一気に全部払って終わりにしたかった」と言った。

 話としてはまあよくある非行の末路という感じがあります。この事件で殴られた50代の男性は今でも寝たきりなので、少年の短絡が引き起こした重大な帰結は看過されるべきでなく、懲役11年という判決はまあ至極真っ当なものと思います。しかし、この手のニュースに一抹の虚しさを感じないわけにはいかないのです。

 この弁護人が言うように「まっとうに稼ぐ」という、普通のことがどれだけ難しいことか。俺も「難しい」側の人間なのでよくわかりますね。だからこそ、人生のたくさんの落とし穴をたまたま全部回避した「上がり」の立場の人間(そういう人々も苦労して生きているということは否めないと思います)から投げかけられる同情も論難も全部「ファッキュー!!!(キズナアイ並感)」以外の感想がないっすね。俺もたまたま小中高大で張り巡らされて様々な落とし穴をすんでのところで回避しましたけど、サラリーマンになって落とし穴にズボンとハマって以降全く人生が上向かず健常者にバカにされまくっているので、一回どっかで落とし穴にはまっときゃよかったよと後悔しているぐらいです。

 闇バイト、拡大自殺、ホス狂女の弱者男性搾取……天と地の間にはそのような「上がり」の皆さんのphilosophyでは思いもよらぬことが発生するわけですが、これはしょうがないのではないかと思うんですよね。ダイバーシティインクルージョンというのが、単に自分たちの「リベラルっぷり」をアピールするためにトロフィーマイノリティをその日の気分で擁護するべく決まり文句を云々するという意味でなければ、少なくともそういうリスクを織り込むことが重要なんではないでしょうか。

 ただ、俺個人としては、別に社会のボリューム層の皆さんに救ってほしいとはこれっぽっちも思わない。それに、やはり何もかんも社会やら環境のせいです皆さんは無罪放免ですって社会的弱者に鼓吹したら、『ジョーカー』のクライマックスみたいなことになるだろうから、法規範は厳然としてあるべきだと思う(と同時にわが国のセーフティーネットの脆弱さはとことんクソだというのは両立する。)。ただ、頼むから皆さんの当たり前は本当に当たり前なのか、というところに少しでも思いを馳せてくれと心底思う。常識から繰り出される批判も、常識に取ってつけたような温情もうんざりなのであって、常識を不断の見直しにかけてくれというのが、俺のささやかな願いです。

 

【読書】

 林大地『世界への信頼と希望、そして愛 アーレント『活動的生』から考える』(みすず書房)を読みました。著者は俺より4つ下の方です。永野がチャンスの時間で言っていた「年下は面白くない」理論は、当然ですが本書には適用されませんでした。メチャクチャいい本でした。慧眼の人文書編集者・小尾俊人以来、アーレントにぞっこんのみすずですが、まさかこの年齢の人の修士論文までリサーチして刊行するというのは凄いことですね(後述のとおり学術論文の枠内では本書の真価が発揮されないので、人文書にしたという点でも快挙だと思います。)。

 本書は元々修士論文がもとになっているということだが、著者も言うとおり「論文ともエッセーともつかない」不思議な文章です。強いてわが国の文芸ジャンル論的に言うと「批評」に近いような気がするが、とはいえ本書を定義するには適切でないような気もします。「学術論文的色彩が濃いものの、細かな実証や論理的な厳密性よりも比喩やイメージを多用した直感的な理解に訴えかけることを重視した哲学的なエッセイ」というのが俺なりの飲み込み方です。とはいえ、本書の学術的意図は、アーレントの主著である『活動的生』(英語版の『人間の条件』ではなく本書ではドイツ語版が解釈の俎上に載せられる)の内在的な読解による再構成を経て、アーレントにおける「世界への愛amor mundi」のプロジェクトの一部として再編成しようという試みにあると言えます。

 アーレントが「世界への愛」(元々はアウグスティヌスが「神への愛」との対概念として持ち出してきたもの。当然アウグスティヌスにとっては神>世界なのだが、世俗の思想家アーレントはそれを転位させる。)という概念に取りつかれていたのは、ある程度アーレントについて関心がある人間なら周知の事実でしょう。著者は「世界への愛」というアーレントの信念をより深く説明するために、『活動的生』を読み直しへと読者を誘うわけです。アーレントが同書で掲げたエピグラム(ブレヒトの『バール』における世界の無時間的な持続の確信や、ヘンデルの『メサイア』における子どもの誕生という奇蹟への祝福)を分析することで、この世界の条件である「物の持続性」と「人間の出生性」から成り立つ「信頼と希望」を見出します。しかし、アーレントは資本主義やその帰結である全体主義(ナチズムの全体主義は資本主義からの帰結というのはわかるっちゃわかるんですが、スターリニズム全体主義は資本主義のコロラリーと言えるんですかね?)が、そうした持続性や出生性を悉く破壊したために希望や信頼が世界から失われた、と考えるわけです。それでも、再びそれらを取り戻さんとアーレントが考えた結果は、世界への気遣いと子どもへの気遣いなのだ、といった構成になっています。完全にJRPGのあらすじみたいになっておりますが、実際のところ同書でそこはかとなく強調されているとおり、アーレントにとってこの残酷な世界をそれでも愛したい……という「祈り」が『活動的生』の基調をなしているのではないかという指摘はなるほど!と思いました(こうした解釈は、ともすれば政治理論チックに回収されがちなアーレントの議論をより彼女の「政治」理解に即して救い出しているような気がします。)。

 まず、アーレントにおける「活動的生」の三分類、すなわち「労働」「制作」「行為」について取り上げられます。労働において「生命それ自体の必要」を満たし、制作において物を作ることによって「世界性」を獲得し、行為において人間の「複数性」を実現するというお決まりの奴ですが、著者はこうした活動的生の三つに「世界維持形成機能」があると考えます。これらの「活動的生」によって、「世界を不断に維持形成し続けるのであり、またそうすることで、世界はこれからも長きにわたって続いてゆくのだという世界への信頼を、また世界はこれからも絶えず新たにされてゆくのだという世界への希望を、そこに生み出す」(p31)ことができるというわけです。

 (なお、ここでひとつ著者の説で疑問なのが、「労働」が「制作」によって生み出された生産物の保全的な機能(世界の維持機能)を持つということですが、「労働」それ自体は「生命維持」が大前提なのではないかという気がします。労働において世界維持も必要とするという話の流れで部屋の掃除の例が出てきましたが、それはあくまで生命維持の必要のために世界を維持するということであって、必ずしも労働が生命維持に関係のない制作の生産物(例えば芸術作品)に関与するのかというと微妙な気がします。例えば絵画の修繕なんかはむしろ広義の「制作」なんではないかなと……)

 ところが、アーレントが析出した近代においては、かつては単なる生命維持とみなされた労働が急速的に拡大し、大量生産・大量消費を可能にするようになると、生産物の持続性を前提としてきた制作のお鉢が奪われる形になります(全てが大量消費されるので持続性が根こそぎにされる)。この結果、労働が制作の領域を侵犯する事態となり、結果としては「労働する動物」が勝利することによって、世界は絶えざる生命プロセスの中で消費されます。このような社会において生じる「アトム化された大衆」は、公的領域を顧みることなく私的領域に退却することで世界への気遣いを失い、法的人格・道徳的人格・個体性を悉く抹殺する全体主義運動へと投げ込まれます。こうした中で人間は自発性や複数性を奪われ、出生性=新しいことをはじめる希望を奪われます。「種として動物的な生を生きる人類の単一性が、個として人間的な生を生きる人間の複数性を、死に至らしめる」(p132)資本主義と、「イデオロギーとテロルの二重の強制を通じて人びとから複数性と自発性を奪い去る」(p168)全体主義が、世界への信頼と希望を奪い去ってしまった、というのがアーレントの所見です。

 このような悲劇的結論を引き出してもなお、世界を愛することができるのか。著者はアーレントは然りと答えたであろうと考えます。つまり、人間は生まれるし、全体主義体制でさえその「はじまり」の可能性を完全に殺しきることはできないのであるから、その「世界への愛」を調えるやり方として「世界への気遣い」と「子どもへの気遣い」が重要であるとアーレントが認識していたということなのかと。

 「世界への気遣い」は、そもそも「活動」の「場所指定」の重要性をきちんと認識しようという企図から始まります。アーレントによると、「労働」「制作」「行為」には決まった領分があるのだが、プラトン以来より互いの領分を侵犯することがあります(制作の行為化、労働の制作化、行為の人間的領域から自然的プロセスへの逸脱)。こうなると、世界維持形成機能を持つこれらの諸活動が、一気に「世界破壊的な」性格に転じ、ハチャメチャになってしまうので、できるだけ自己の領分を守るように気遣っていきまっしょいという話だと思いました。

 「子どもへの気遣い」については、『過去と未来の間』所収の「教育の危機」を参照しつつ、生まれ出てくる子どもたちの予測不可能性のために世界を守りつつ、その子どもたちがなしうる新しいはじまりの可能性自体を保護しなければならないという二重の機能が教育に込められているというのがアーレントの考えであると著者は見ています。つまり、行為の予測不可能性はもちろんヒトラースターリンのような結果につながるかもしれないが、それでも今ある世界を維持し続けることは単なる滅びへの加速でしかないのであり、世界を絶えず新たにするモメンタムとしての出生を気遣うことの必要性が重視されているのです。

 こうした気遣いを通じて、世界が永続性を獲得し、その永続性ある世界で人間が歴史や語られ得る物語=伝記としての不死性を獲得できるので、世界に対する信頼と希望が復興するのだというのです。

 そうまでして、世界への信頼と希望をそれでも持ち続けたいとアーレントは何故願うのでしょうか。

 「そしてこうした記述からは、あるひとつの仮説が思い浮かぶ。それはすなわち、自身もひとりの故郷喪失者であったアーレントは、この世界を故郷とするために私たちは何をなすべきかということを語るために、『活動的生』という浩瀚な書物を世に送り出したのではないか、という仮説である。アーレントは、この世界を故郷とするための条件を本書を通じて明らかにすることで、私たちみながなすべきこと、すなわちこの世界にみずからの住まいをしつらえることを可能にしようと試みたのではないか。そしてそこでアーレントが見出したのが、物の持続性であり、人間の出生性であり、世界の永続性であり、人間の不死性だったのではないか。これが本書から導き出された仮説であり結論である。こうした諸条件があってこそ、私たちは、この世界に信頼と希望、そして愛を抱くことができるのである。

 この世界に信頼と希望、そして愛を抱いてもよいのだということ――アーレントが『活動的生』を通じて私たちに伝えようとしたのは、このあまりにも素朴な、しかしどこまでも力強い、たったひとつのメッセージである。本書全体の議論を通じて『活動的生』から取り出そうとしたのも、このたったひとつのメッセージにほかならない。このメッセージに込められたアーレントの想いを感じ取ることができたとき、そのときにはじめて私たちは『活動的生』を真に読むことができたと言えるのではないだろうか。そして最後に言い添えておけば、おそらくアーレントは、このメッセージを、私たちに告げ知らせると同時に、自分にもひそかに言い聞かせていたのではないかと、誠に勝手ながら思う。あなたはこの世界に信頼と希望、そして愛を抱いてもよいのだ――こうしたメッセージを切に必要としているのは、それを一度失いそうになった者たち、あるいは失った者たちであり、しかしまたそれらを失ったままではいられない者たちである。世界への信頼と希望、そして愛――そうしたものを抱きたいと心から願いながらもそれが適わないからこそ、彼らはこうしたメッセージを切望する。

 だとすれば、全体主義の時代を生きたアーレントこそ、まさにこうしたメッセージを切に求める者だったのではないか。否定されるべきものとして世界が眼前に現れる状況にあって、それでもなお、世界を否定し去ることができなかったアーレントこそ、まさにこうしたメッセージを誰よりも必要としていたのではないか。したがって、『活動的生』という一冊の書物を最も強く欲していたのは、ほからぬアーレント自身だったのではないか。以上はあくまで憶測にすぎないが、もしそうだったとすれば、だからこそ『活動的生』には力強さが、目を背けることのできない切実さが、つまりはリアリティがあるのではないかと思う。そこには、二十世紀という激動の時代を最期まで生き抜いた、ハンナ・アーレントというひとりの人間の実存が懸けられている。私たちは『活動的生』と真剣に向き合うとき、それをおのずと感じ取る。それゆえに、彼女が残したこの一冊の書物は、抗しがたい魅力をいつまでも持ち続ける――。」(p255-7)

 極めて元気づけられる結論というか、とてもいい話だとおもみました。素人ながら本書のオリジナリティについて考えると、アーレントにおける「世界への愛」という概念は常々取り沙汰されてきたにもかかわらず、その概念の必然性をアーレントが提出した概念群との連関でどう捉えていいか分かりかねるところがあったわけだが、本書はむしろアーレントの実存的な欲求とその表明としての『活動的生』という形で捉え直すことによって「世界への愛」という理念から、『活動的生』の概念群を逆照射できるという新しい読みを提示したことにあるのではないでしょうか。とはいえ、上でもいくつか指摘したように、理論的粒度としては疑問符がつくようなところもあり、概念の連関の整理が行き届いていないように思える部分もありましたが、それは本書の価値を損なうものではないと思います(何か博論の審査要旨みたいな物言いになってしまった。)。

 本書の特質は、本書の1/3ほどの分量を占める註です。といっても、実証性や先行文献参照を請うような通常の学術的な註ではなく、むしろほとんどエッセーに近い「思考の脱線」のような註が随所に鏤められています(もちろん、先行研究への批判的な言及もあるにはあるが、全体からすると少数)。たとえば、アーレントの文章のイメージを喚起しやすいように、註では唐突に岡真理、須賀敦子石原吉郎野呂邦暢、レーヴィ、チェーホフらの文章が召喚されます。これらは通常のアーレント研究では参照を指示されることはまずないと思いますが、著者は自身がこれまで読んできた文章も総動員しつつ、何とかアーレントの思考をプリズムの如く浮かび上がらせようと努めていることが伺えます。アーレントの議論に引き付ける形での日々の家事や会社組織といった卑近な喩えも多く、通常の(問い=仮説提示=検証=結論という流れで組み立てられるアカデミックかつインダストリアルな)学術論文では削られがちな文章がそこかしこに見られます。とはいえ、これらは一貫して議論の明晰化に貢献しているため、むしろ著者のブッキッシュ(これは褒め言葉である)な行論の労を多とすべきかなと思います。

 あとがきも味わい深い文章ですね。商学部出身だった著者がたまたま文献購読で細見和之の『「戦後」の思想』に出会い、何度も何度も読み返して哲学や思想の世界に魅了され足を踏み入れたという話や、古書店の店長との出会いなども読むと、この著者の全人格がこのアーレント研究の一書に注がれているのだなあと感慨深くなります。個人的には辛い時期の読書でしたが、こういった本にはとても励まされる気持ちになりました。

 

 なお、恐らく今月これが最後に記録として公開する内容になるかなと思います。今後読み進めていく本たちは、別途下書きの方に記録し、情報公開してもいい時期が来たら機密指定を解除します。