死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20240314

 今日は一心不乱に読書をし、まとめていたのでそれ以外の話はなし。悪しからず。

 

【読書】

 カイ・バードとマーティン・シャーウィン『オッペンハイマー 中 原爆』(ハヤカワ文庫NF、2024)及び同『オッペンハイマー 下 贖罪』(ハヤカワ文庫NF、2024)を読了。メチャクチャ睡眠時間削って何とか読み切りました……。それほどまでに読む価値があったと自信をもって言えますね。

 

 まず、中巻から。ナチスを地上から消し去るためにナチスより先に原爆を作らなければという必死の思いで、ロスアラモスの数千人の科学者たちを独特なカリスマ的魅力で仕切ったオッペンハイマー理論物理学の直観的な天才から巨大なプロジェクトのスマートな管理者として転身した彼は、科学者が意見交換し合う自由をセキュリティクリアランスでガチガチの軍に認めさせたり、時には強引な人事差し替えをしたり等で様々な難題を乗り切った末に、ついに「道具(ガジェット)」=原爆の完成にこぎつける。

 しかしその完成が間近に見えてきた頃には主敵であるナチスの敗北は明白である中で、行き場を失った原爆は敗戦間近だった日本に落とされることになる(オッペンハイマーは知る由もなかったが、トルーマン政権が日本が降伏意志を持っていたことを把握した上での投下決断だったのは周知のとおり。)。中巻を読む限り、オッペンハイマの主たる関心は“ソ連に通告した上での原爆投下”、つまり今後の国際核管理体制創設への布石を打つことにあったようで、残念ながら恐らく落とされる日本のことにはあまり関心を払っていなかったのだろう(実際、彼は原爆投下直前に有効な爆発が起きるように落とすタイミングの高度などを空軍将校にレクチャーしている。)。

 広島・長崎に原爆が投下され、その凄絶な被害が明らかになるにつれて彼は徐々に倫理的・道義的な苦しみを覚えるようになり、核兵器軍拡競争に陥る前に事態を打開しなければならないと思うように至る。そして、もはや世界では知らぬ者のいない「原爆の父」という知名度を活かしてソ連も含めた超国家主権的な核管理体制を作ろうとワシントンへ働きかけるようになる。

 一方で、彼の人生に暗い影を落とし続けることになる当局の執拗な捜査(時には違法な盗聴も含まれる)や、軍や政治とうまく付き合いながら彼らをよい方向へ向かわせようとする努力が最後は単なる妥協に失してしまうといった、辛い側面も描かれている。

 それでは章ごとに見ていこう。

 第14章では、オッペンハイマーの後年の人生の没落を決定づけることになるある事件のことが語られる。「シュバリエ事件」と呼ばれるそれは、オッペンハイマーの友人で経歴的には「アカ」とされるハーコン・シュバリエから、ソ連への情報ルートを持つ商社マンがマンハッタン計画について関心を持っており、彼に情報をもたらしてくれないか、と持ち掛けられた一件である。このことについてオッペンハイマーは「それは反逆罪だ」として強く断ったということは一致した認識であるが、個々の説明については食い違いがある(著者は黒澤映画の「羅生門」的と喩える。)。そして、オッペンハイマー自身が後に軍や当局へ説明した際の食い違いも、致命的な帰結をもたらすという。

 第15章はロスアラモス初期の出来事にフォーカスされる。このころにファインマンがスカウトされるなど、オッペンハイマーは優秀な人材の確保に心血を注いでいた。オッペンハイマーの適切なプロマネっぷりは以下の秘書の証言が残っている。「「まず根気よく、議論に耳を傾ける。そして最後にオッペンハイマーは要点をまとめる。このようにするので、意見の相違というものがなかった。それはまるでマジックのように見えたので、だれからも尊敬を獲得した。なかには科学的業績では、彼より上の人も何人かいた」(p64)。オッペンハイマーは軍に科学者が自由に討議できるような会を設けることを認めさせ、ここでの議論はロスアラモスの新人研究者向けのマニュアルにまで整備されたり、また原爆開発上のブレークスルーに寄与したとされる。

 第16章と第17章では、機密情報保全を第一とする軍等との軋轢が描かれる。プロジェクトの総責任者であるグローブス将軍はオッペンハイマーや科学者たちの「闊達」すぎるふるまいを苦々しく思っていたが、一方でマンハッタン計画にはオッペンハイマーが不可欠なのも分かっていた。他方、オッペンハイマーは自身の左翼的バックグラウンドを警戒している軍防諜当局へお目こぼしをもらうためにはグローブスの庇護は不可欠と考えており、お互いは持ちつ持たれつの関係をキープした。オッペンハイマーへの監視は軍当局のみならず、反共対策の観点からFBIからも行われていたという。この中でオッペンハイマーはかつての恋人であり共産主義者だったジーン・タトロックと逢瀬を重ねる過ちを犯す。が、オッペンハイマーに理解のある将校のおかげで何とか計画の解雇は免れたようだ。こういう中で監視を気にし始めたオッペンハイマーは、先述のシュバリエ事件の経過を軍にあらかじめ弁明しておいたのだが、この段階でオッペンハイマーは何故かシュバリエの名前を道義的理由から明かさなかった(もちろんこれは軍当局には好ましくないだろう。)。

 第18章では、そのジーンが自殺した経過が描かれる(精神的には躁鬱的で、レズビアンの傾向もあったとかなんとか。ちなみにアメリカ政府に暗殺された説にも触れられてはいるが、著者は否定的に見ている。)。オッペンハイマーはたいそう悲しんだようだ。第19章では妻のキティが諸々の重圧に耐えられず長男を連れて家出し、オッペンハイマーには生まれたばかりの長女が残された。この長女を代わりに育てていた人にオッペンハイマーは「この子を愛せないと思うので養女に引き取ってくれ」と述べるなど、オッペンハイマー自身も過密する開発スケジュール等に追い立てられて参っていたような感がある。

 第20章。ロスアラモスにニールス・ボーアが着任したことは、オッペンハイマーにとって新たな気付きを得るきっかけとなった。ボーアは原爆が開発された後のことについて考える必要があることをロスアラモスの研究者たちに説いて回り、オッペンハイマーも賛成する。「戦後の核兵器開発競争」に前もって対応しなければならないという考えにオッペンハイマーが取りつかれるのはこのころからである。ボーアは、核兵器を国際的に管理するためには、この段階でソ連に対して戦後の原子力計画への参加を呼び掛けるしかないと考えていた。他方、原爆開発計画も大詰めを迎える。オッペンハイマーは、爆縮過程に難ありとしつつも、プルトニウム爆弾の開発を大幅な人事調整を行ってでも推し進めた。この段階でドイツの敗北は明白で、いったい何のために原爆を開発し続けるのかという疑問がロスアラモスで鎌首をもたげた時に、オッペンハイマーは原爆のプロジェクトを継続する意義を、この「ガジェット」が世界を決定的に変革するのであると説得的に訴えた。

 第22章では、原爆投下に関するスティムソン国防長官の暫定委員会について触れられている。この会議におけるオッペンハイマーの立ち位置は以下のとおりである。「オッペンハイマーは、この緊急の討議において曖昧な役割を演じた。まもなく完成する新しい兵器について、ロシアに早急に説明すべきであるというボーアの考え方を活発に押し進めた。バーンズ(引用者注:トルーマン政権の国務長官)が有効に止めなかったら、彼はマーシャル将軍まで説得したかもしれない。他方彼は、グローブス将軍がシラードのような反体制派の科学者を解雇するという意向を明白にしたので、黙秘するほうが賢明だと感じたのは明らかだった。大勢の労働者が働いており、周りを労働者の住宅が囲んでいるような軍需工場という、「軍事目標」に関するコナントの遠回しな定義に対して、オッペンハイマーは替わるものを提案しなかったし、ましてや批判などしなかった。彼はボーアの「開放性」についての考えは明らかにいくつか議論はしたが、最終的に通った意見はなく、すべてを黙認することになった。ソビエトにはマンハッタン計画を十分に知らさないこと、爆弾は日本の都市において無警告で使うことという決定である。」(pp228-9)。そしてこの決定のとおり、ポツダム会議においてトルーマンは極めてあいまいにしかスターリンに「新兵器」のことは伝えなかったわけである。そして、原爆は広島や長崎に投下された。

 第23章と第24章。ロスアラモスのトップを辞したオッペンハイマーは戦後も核管理体制について努力するも、トルーマン政権はつれなかった。だんだんとオッペンハイマーはこのプロジェクトの成果について疑念を抱くようになる。ひとつ、印象に残った記述を以下に引用する。

 「基本的な意味においてマンハッタン計画は、まさにラビ(引用者注:オッペンハイマーの親友の物理学者)が懸念したとおりのものを達成したと、オッペンハイマーは理解した。すなわち、「物理学三世紀の集大成として」、大量殺戮兵器を造ったのだ。またそうすることによって、このプロジェクトは形而上的な意味ではなく、物理学を貧困化したと彼は思った。そしてまもなく彼は、プロジェクトの科学的な業績をけなし始めるのだ。「われわれは、熟した果物のいっぱいなった木を激しく揺さぶったら、レーダーと原子爆弾が落ちてきた。既知のものを必死で、むしろ冷酷に搾取するというのが、戦争における全般的な精神であった」。オッペンハイマーは1945年末に、上院委員会でこのように演説した。「戦争は物理学に対して重要な影響を与えた。ほとんどこれをストップしてしまった」と、彼は言う。彼はまもなく次のように信じることになる。戦争中、「われわれは物理学分野における本当の意味の専門的活動を、訓練活動も含めて、多分どの国よりも全面的にストップした」のではないかというのだ。しかし戦争は科学に焦点を当てたのも事実である。ビクター・ワイスコップが後に書いている。「科学がだれにとっても最も即時的で直接的な重要性を持つものであることを、あらゆる議論の中で最も容赦のない形によって、戦争は明らかにした。これが物理学の性格を変えた」」(pp278-9)

 そうした中で彼は原子爆弾の危険性を訴えるべく、懸念を共有するロスアラモス科学者協会(ALAS)と協調しつつ、ワシントンの政策担当者たちとその名声を活かして面会をする。ところが、彼はALASの主張とはかけ離れた妥協をワシントンに対して繰り返すようになり、仲間からも懐疑の目線を注がれる。オッペンハイマーはついにトルーマンとも面会するが、トルーマンのあまりにも無理解に愕然し「わたしは手が血で汚れているように感じます」(pp299-300)とその場で述べた。この発言を受けてトルーマンは「手に血が付いたって? ちきしょう。おれの半分も付いていないくせに! ぐちばかりこぼして歩くな」と会談後激怒したという。そしてオッペンハイマーは裏で「泣き虫科学者」とディスられる始末。このような形でオッペンハイマー原子力に託した期待が徐々にしぼんでいくのを感じる。

 1945年11月2日、トルーマンはかつて所長を務めていたロスアラモスで、超国家的な管理機構である「共同原子力委員会」の組織と各国科学者の交流機構の必要性、そしてこれ以上原爆を作ってはならないことを訴える演説を行った。「この問題に取り組むとき、『何が正義かわが国は知っている。だから貴国を説得して言うことをきかすために原子爆弾を使う』というならば、われわれの立場は非常に弱くなり、成功しないでありましょう。われわれは、災害を防ぐために武力をもってしようとしている自分自身に気づくことになります」「他人の見解と思想を絶対的に否定することは、いかなる合意の基礎にもなり得ません。」(いずれもp306)。この演説は科学者たちの感動を持って受け入れられた。

 第25章。トルーマンは渋々ながら、核兵器の国際管理を検討する特別委員会に付属する諮問委員会の委員にオッペンハイマーを任じた。委員互選で議長になったオッペンハイマーは精力的に働き、国際管理についての検討は「アチソン・リリエンソール報告書」として結実する。しかしこれには政府は不服であり、結局完全に骨抜きにされてしまう。

 第26章と第27章。ここでは、原子力政策から離れてオッペンハイマーの学術や生活について語られる。オッペンハイマーにはキャシーには知られていないルース・トールマンという愛人がいたらしい。お前いい加減にしろよと言いたくなる。夫リチャードとも親友だったというので怖すぎワロタ。さて、ロスアラモス離任後、カリフォルニアに戻っていたオッペンハイマーだったが、プリンストン高等研究所所長として招かれる。高等研究所は周知のとおり、数学者や歴史家が「無用な知識の有用性」を掲げてこつこつと研究する場所だったが、オッペンハイマーはここを学際的かつ国際的な学問機関にしようと目論んだ(これは主に既存の数学者たちとの学閥的暗闘を引き起こした。)。オッペンハイマーは、湯川秀樹朝永振一郎といった日本の若手物理学者に特別研究休暇で招いたり、フォン・ノイマンの初期コンピューター研究にも尽力したり、果ては文学者のT・S・エリオットや古典学者のハロルド・チャーニス、そして中世史家エルンスト・カントーロヴィッチの招聘も行い、まさに自然科学と人文学の融合を高等研究所内で行おうとしていた(翻訳への些末な指摘だが、フランシス・ファーガソンの著作に『ある劇場の構想』という訳語があてられているが、The idea of the theaterの訳語であれば邦訳のとおり『演劇の理念』とすべきである。これは著作の内容からも明らか。)。著者が述べるように、オッペンハイマーにとっては「プリンストンはロスアラモスのアンティテーゼであり、おそらく心理的な解毒剤」(p392)だったのかもしれない。プリンストンに長年いたアインシュタインとの関係性にも触れられている。アインシュタインオッペンハイマーはもちろん学問的には相容れなかったが、平和のために尽力するという姿勢では一致していた。そのアインシュタインオッペンハイマーに投げかけた「人間というものは何か意味のあることをすることになると、それからの人生はちょっと変わったものになってしまうものです」(p397)という言葉は、オッペンハイマーの人生を暗示しているようで示唆深い。

 

 続いて下巻のまとめ。

 オッペンハイマーは引き続き国際的な核管理体制への提言を緩めず、ソ連の原爆開発成功の報に触れてもそれを上回る「スーパー」爆弾=水爆の突貫的な開発には一貫して反対していた。しかし、反共の時代にあって、徐々にオッペンハイマーに対する公的な包囲網は狭まってきた。後にマッカーシズムの舞台となる下院非米活動監視委員会(HUAC)への証人尋問を皮切りに、オッペンハイマーは政治的魔女狩りへと巻き込まれていく。

 しかし、彼を最終的にワシントンの舞台から叩き出したのは、極めて私的な敵意だった。商務長官候補まで上り詰めたルイス・ストローズは、かつてはオッペンハイマープリンストンに招聘した立場だったが、徐々に2人にはプリンストンの運営方針や原子力政策の相違のせいで隙間風が吹くようになる。決定的な対立は、ある場でオッペンハイマー原子力政策に関することで、ストローズを聴衆の前で嘲笑したことに起因する。このことを恨み深く狡猾なストローズは生涯忘れることなく、後に元々オッペンハイマーに敵意を持っていたフーバー率いるFBIや、大量殺戮に等しい「報復戦略」の観点から水爆開発を推し進めたいと考えていた空軍及び共和党の激越なタカ派議員などと結託し、オッペンハイマーを卑劣な陰謀に陥れようとしてきた。アイゼンハワーオッペンハイマーへの疑念を植え付け、公開処刑のショーマンに過ぎない稚拙なマッカーシーの生贄の祭壇には決してオッペンハイマーを渡さないよう注意深く水面下で動き続け、ついにストローズはオッペンハイマーコンサルタントとして働いていたアメリ原子力委員会(AEC)の委員長の権限で、彼の共産主義者との付き合いや水爆開発への反対の嫌疑を用いて彼が原子力政策に必要な機密保安資格を一時的に留保する。そして、AECが選任する保安委員会においてオッペンハイマーを査察にかけることに成功する。

 この保安委員会は「裁判」ではないという建前だったが、それでも民事裁判では考えられないレベルの不公平な手続(武器対等原則は根本的に崩壊しており、そして保安委員会に対してはストローズの極めて露骨な介入がなされていた)がなし崩しに行われることでオッペンハイマーは窮地に立たされた。オッペンハイマーはあやふやな記憶を、FBIの違法な盗聴などで裏付けされた検察役弁護人の執拗な追究を受けて、自身に不利な発言をしてしまった。また、オッペンハイマーに敵対的だったエドワード・テラー(水爆の開発を主導した人物)などの証言もあり、最終的に保安委員会は結局オッペンハイマーが機密保持にふさわしくないとして保安資格を取り上げることをAIC本体に勧告し、AECもそれに同意し(それはストローズがあからさまに他の委員に働きかけたからであった)、オッペンハイマーは資格を喪失する。このことは、機密なしには政策遂行などできない秘密主義の権力空間からの退場を意味し、オッペンハイマーアメリカの原子力政策の中枢から追放された(なお、この不公正な手続過程が後に取り沙汰され、ストローズは商務長官の指名を上院で承認されなかった。まあ自業自得と言える。)。

 オッペンハイマーはその後二度と公的政策にはかかわらず、大学での講演などを続けたり、カリブ海で落ち着いた暮らしをしたりしながら、民主党ジョンソン政権によるフェルミ賞の授与(授与決定はケネディ政権による決定)によって名誉回復された後、彼はガンで死ぬことになる。

 本書の裏面で書かれているテーマとして、彼の不安定な私生活にも触れられている。妻キティは苛烈な性格で、物を投げたり酒を常習的に飲んだりしていた。そのような欠陥のある妻であっても、オッペンハイマーは常に寄り添い続けることを選んだ(他方で浮気も普通にしていたわけだが。)。キティは長男ピーターに対してはきつくあたり、そしてオッペンハイマーもそういう場面では息子より妻を選んだ。また、長女トニーはキティに可愛がられたが、トニーは成長するにつれ母親と反目し合うようになる(このことはトニーの生涯に暗い影を落とした。父親の件を引き合いに出されてFBIに機密資格を有する職務に就くのを妨害されたこともあるが、トニーは過去の経験に囚われ、その後人生を立て直すことができずに自殺する。)。結局オッペンハイマーは家族に対しても愛情を注ぐように試みてはいたが、それは必ずしも成功だったとは言えないような感じではある。とはいえオッペンハイマーは周囲には常に魅力的な人物であった。

 浩瀚な本書で描かれたオッペンハイマーという複雑で多面的な物語が突きつけているのは、学と政治の関わり合いというプラトン以来の根本的なテーマであり、そして行き過ぎた秘密主義や妄想じみた敵愾心は、魔女の火刑台にいつしか法廷そのものを投げ込むことになるという厳しい教訓である。経済安全保障の旗のもと、セキュリティ・クリアランス制度を導入するわが国は、オッペンハイマーの生涯の苦悩やアメリカ政府の極めて近視眼的な愚挙から学ぶべきことが多くあるだろう。高市早苗とか甘利明とか北村滋とかお前らのこと言っとるんやぞ。

 それでは章ごとの紹介。

 第28章で、オッペンハイマーは再度のヨーロッパ旅行に出るが、そこで弟フランク(かつて共産党員だった)にアメリカで迫るレッドパージへの懸念を伝える。その魔手はフランクのみならずオッペンハイマーにも、HUACの聴聞会という形で降りかかる。この場で彼は、結果としてかつての旧友が共産党員であったことを「正直に」証言してしまう。この旧友は結局アメリカでの学者生命を絶たれることになる。この時のオッペンハイマーは精神的に追い詰められており、トルーマンの前で感傷的になったようにしばし重要な場面で不合理な行動をとるようになっていた。そして、弟フランクもHUACの犠牲になり、彼は物理学の道を閉ざされて牧場主になることを余儀なくされる。

 第29章では、上に述べたようなオッペンハイマーの必ずしも幸福とはいえない家族生活について描かれる。これは誰が悪いとも言えないというか、オッペンハイマーもキャシーもいろいろと追い詰められているのだろうなという感想しか持てなかった。

 第30章。1949年にソ連の原爆開発成功のニュースに触れたオッペンハイマーは、もはやアメリカの核戦力についてソ連に隠し立てをする必要がなくなったために、核兵器が国際管理される可能性に一縷の希望を見いだす。しかしトルーマンの取り巻きや軍幹部たちは全く逆の発想で、すぐにでも核分裂原爆よりも強力な核融合水爆を突貫で開発しなければならないと色めき立つ。オッペンハイマーは当時AECが諮問するGAC(諮問委員会)を取り仕切り、水爆開発反対の論調でまとめていた。水爆を保有することは、最強の報復による抑止ではなく、むしろ各国の核軍拡を煽り立てて終わりのない軍拡競争に陥るだけだと懸念していたのだ。ただし、この点で興味深いのは、オッペンハイマーは水爆のような「制限された軍事目標」という観念を無為に帰す巨大な破壊力を秘めた核戦力を不合理に備蓄するよりかは、限定的な戦術核を大量に保有する方がよっぽど有効だと考えていた(これについては著者が皮肉交じりに述べるように「戦術核兵器がさらに大型での核兵器でのやりとりを引き起こす核の仕掛け線となるかもしれない」(p140)ことはオッペンハイマーの考慮の埒外だった。)。オッペンハイマーはこの主張に同意する数少ないワシントンの友人として、傑出した外交官であるジョージ・ケナンの知遇を得た(後年オッペンハイマーは学者としての実績のないケナンを学内の反対を押し切ってプリンストンに迎えた。もちろんケナンはプリンストンにて外交史家としてもきちんと業績を残すのだが。)。ケナンはオッペンハイマーと共著したと思われる「覚書――原子力の国際管理」を国務省で回付したところ、強烈な反感を買う羽目になった。アチソンはオッペンハイマーたちにも圧力をかけたが、この時に結局オッペンハイマーたちはGACの委員を辞任するかどうかを検討したが、結局オッペンハイマー自身は政府のインサイダーにとどまることを選んだ。実際、本当に辞任していれば、オッペンハイマーにとってはよかったかもしれないと著者は後知恵で書きつける。確かにその後の展開は決してオッペンハイマーには幸福ではなかった。

 第31章では、上に書いたようなストローズを筆頭とするオッペンハイマーへの反感と策動が書かれている。この部分は特に興味を引かなかった。むしろオッペンハイマー国務省軍縮パネルで示した秘密主義への反対を書き留めておく。

 「ソ連と米国の「核の手詰まり」が、「奇妙な安定」に進化し、そこで両国がこの自殺的な兵器の使用を抑えるようになるかもしれないと、バンディとオッペンハイマーは認めた。しかし、もしそうだとしても、「これほど危険な世界は、平穏にはならないだろう。そして平和を維持するためには、政治家が一度だけでなく、毎回軽率な行動に反対する決断を下すことが必要である」。そして、「核軍備拡張のコンテストが何らかの形でやわらげられない限り、われわれの社会全体が、きわめて深刻な危機にますますはまっていく」と、彼らは結論した。

 そのような危険に直面して、オッペンハイマー・パネルの委員たちは、「率直さ」という理念を推進したのである。過度に秘密を守る政策は、アメリカ人を独りよがりで、核の危険を知らない国民にしている。この問題を修正するためには、新政権は「核が危険であることを国民に伝えなければならない」。驚いたことにパネリストたちは、「核兵器生産の量と影響」を国民に公表し、それによって「ある一点を超えたら、単にソ連に先行するだけでは、ソ連の脅威を防ぐことはできないという事実に注意を向けるべき」である、とまで提案した。」(pp158-9)

 後年の歴史学的な知見からみれば、結局ソ連も米国との全面衝突は避けたがっていたわけであり、どこかでこの上のような「率直さ」(これはボーア譲りの考えである)がうまくいっていれば、冷戦はもう少し非軍国主義的な軌道をたどっていたかもしれない、という著者の指摘は興味深い。

 第32章と第33章。オッペンハイマーは、ついにAEC委員長になったストローズの策動によって、その機密保有資格に関する疑いを調査する旨を通告される。オッペンハイマーはその段階でAECのコンサルタントを辞する選択肢も用意されていたが、彼は弁護士とも相談の上その嫌疑を晴らすべく戦うことを選ぶ。こうした中で、アインシュタインがさっさと彼に対して辞任してしまえ、アメリカに背を向けろと忠告したエピソードは興味深い。結局彼は「アメリカを愛していた」ので、アインシュタインの忠告には従わなかったのであるが。

 なお、オッペンハイマーの1953年のニューヨークの講演で、有名な「われわれは、瓶に閉じ込められた2匹のサソリにたとえられるかもしれない。お互いに自分自身の生命の危険を冒さずに、相手を殺すことができない」(p190)という科白を吐く。このドキッとさせる比喩は書き留めておこうと思う。

 第34章から第36章は本書の白眉である。ここから、オッペンハイマーはAECの保安委員会、通称グレイ委員会にて査問を受ける。保安委員会の委員たちはストローズの息のかかった人間であり、そしてストローズらは彼らに事前にオッペンハイマーに不利なFBIの資料を見せていた。もちろんオッペンハイマーの弁護人たちもそうした「検察」側の資料を見たいと考えていたのだが、それがAECの人事情報であることから、保安資格が必要であるとして、弁護人の閲覧は阻まれていた(そしてその保安資格は与えられなかった。)。このような形で既に形勢不利だったオッペンハイマーは、FBIによる違法盗聴の大量のドキュメントを読み込んで武装していた検察役弁護人の追求を逃れることはできず、結局シュバリエ事件の供述の矛盾を半ば認めさせられた。これはもちろん彼のアメリカへの忠誠を疑わせるような心証を委員に植え付けた。その他、ストローズが行った卑劣な行為を著者は以下のとおり簡潔にまとめた。「彼とロブ(引用者注:オッペンハイマーを追求した弁護士)はオッペンハイマー弁護団を盗聴した。保安許可を得ようとするギャリソン(引用者注:オッペンハイマー側弁護人)の試みを妨害した。秘密文書を隠して証言者に伏線を張った。グレイ委員会に先入観を植え付けようとした。」(p329)。このような不利な査問の中で、オッペンハイマーの友人たちは敵対していたテラーを除き、基本的にはオッペンハイマーの忠誠心を一切疑わないという論陣を張った。しかし結局委員会はオッペンハイマーの保安資格を取り上げるべきだという勧告をAEC本体に上げることになり、AECは結局オッペンハイマーから保安資格を剥奪するに至る。政府の秘密主義は、最終的には科学者の公開性の精神に勝利を収めた。

 著者はこの帰結を以下のとおり分析する。

 「マッカーシズムのヒステリーの頂点で、オッペンハイマーはその最も著名な犠牲者になった。「このケースは最終的に、マッカーシー自身がいないマッカーシー旋風の勝利であった」と、歴史家バートン・バーンスタインが書いている。(中略)

 ルイス・ストローズは、同じような魂胆を持った友人の助けを借りて、オッペンハイマーの「聖衣剥奪」に成功したのだ。アメリカ社会へ及ぼした影響は計り知れなかった。一人の科学者が除名されたのだ。しかし今やすべての科学者は、国家政策に疑問を呈した人々には深刻な結果が待っているという警告を受けたのである。」(pp347-8)

 「第二次世界大戦後の数年間、科学者は新しい知識階層、あるいは科学者としてだけでなく、公共の理論家としても、合法的に専門知識を提供する公共政策の聖職者の一員と考えられてきた。オッペンハイマーの聖職剥奪によって科学者たちは、将来彼らが狭い科学的な問題の専門家としてしか、国のために奉仕できなくなることを理解した。社会学者ダニエル・ベルが後年述べているように、オッペンハイマーの試練は、戦後における「科学者の救世主的な役割」が終焉したことを示した。(中略)かくしてこの裁判は、科学者と政府の関係における転換点となった。米国科学者の国に対する奉仕のビジョンとしては、最も狭いものが勝利を収めたわけだ。」(pp349-350)

 そして、最後に「オッペンハイマーの敗北は、アメリ自由主義の敗北でもあった。」(p351)と総括する。

 第37章~第39章は、オッペンハイマーのその後の生活というエピローグ的なところである。セントジョン島で毎年数か月ほど過ごすようになってから、失意のオッペンハイマーはゆっくりと精神を回復していった。オッペンハイマーの名誉回復は、上述のようにケネディ政権まで待たなければならなかった。最終的にはオッペンハイマーはゆっくりと癌に蝕まれ、そして1967年2月18日に息を引き取った。