死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20240401

 エイプリルフールとかいうクソ。全てが現実やねんな。

 

【労働】

 土日が終わった途端一気に世界が真っ黒になる。今日も色のない仕事をしていました。Kanashi。

 

【読書】

 マックス・ウェーバー『支配について Ⅰ 官僚制・家産制・封建制』(岩波文庫、2023)を読了しました。

 今さらウェーバーかよという感もあるが、岩波文庫になってるのを買っちゃったからね、仕方ないね。ただ、やはりウェーバーの議論を理解しておいた方が、当時のドイツの社会科学の議論とかの見通しがよくなることは確かなんですよね。

 まとめ……ようと思ったけど最近は億劫になっている。実際、200頁ぐらいの新書をパーっとまとめるのはできなくもないけど、この手の本はまとめるのがメチャクチャむずいんすわ。出版社のサイトに行けば書いてあるような短行でまとめるか、メチャクチャ文字数を費やして死ぬほどできの悪い劣化コピーを作るのかのどっちかなんですよね。こういう本とは何度も付き合っていく中で覚えていくしかないかもしれない。

 まあそれでも一応試みるとすれば、人が人を支配するということを社会学的に考察した時、「何故支配される側は支配を甘受するのか」という観点から、支配を甘受する理由=レジティマシー(正当性/正統性)がどのように与えられるのかということを考察する。合理的な「官僚制」、伝統的な「家産制」、そしてその家産制の極北である「封建制」が論じられる。こうした社会の諸制度と経済システムの相関が裏テーマである。(官僚制―資本主義、みたいな一意な対応関係ではなく、家産制や封建制においても資本主義的な要素は阻害されつつもウェーバーは否定しない)。こうやって見るとマルクス主義的な発展史観とか唯物史観なのかな、と思われるかもしれないがさにあらず。ウェーバーは家産制が分極化して発生した封建制の過程において、家産制的な現象が起こる「家産制のルネサンス」を指摘したり、単純に貨幣経済の浸透が資本主義を加速させて官僚制を出来させるというわけではないことを指摘したりしている。なお、いろいろと昔の話が大量に出てくるが、このあたりは若干眉唾で読んだ方がいいだろう。特に封建制あたりの話はかなり批判されているはずなので……。訳は読みやすく、かつ、巻末の用語解説は勉強になる。というか、この部分だけ読めば割としっかりとしたウェーバー入門になる気がする。

 以下、面白い指摘を1個だけ引用だけしますね。

 「むしろまさにここで私たちが心に刻んでおく必要があるのは、民主主義という政治的概念は、支配される側の人たちの「権利の平等」から、次の要請を引き出すということである。1だれもが官職にアクセスできるようにするために、閉鎖的な「官僚身分」が発展しないようにすること、2なしうるかぎり「世論」が影響する領域を拡大するために、官僚の支配権力をミニマム化すること、可能な限り専門的な資格と直結させないで、落選させることも可能な選挙によって、短期間だけ任命するように努めることである。

 このようにして民主主義は、名望家の支配に対抗する闘いの結果として自らが生み出した官僚制化の傾向と、不可避的に矛盾に陥る。」(p153)

 

【映画】

 「オッペンハイマー」を見ました。IMAXです。よかったっすね。とりとめもなく感想を述べていきますわよ。

 まず、原作というか基になったカイ・バードとマーティン・シャーウィンの本を読んでおいて本当によかった。それなしで凸ってたら多分テネットみたいになってたわ。実際映画館から出た後におっさんが娘?っぽい人に「最初から最後まで何もわからんへんかった」と言っていた。まあこのおっさんが白痴の可能性が3割ぐらいあるとしてもですね、それなりに難しい話ではないかと。単純にちょっと背伸びした高校生ぐらいの知識がないと「???」で終わるのは確かかもしれない。

 本作がオッペンハイマーというタイトルだとしても、ノーランがこれを単純な伝記映画にしたくないというのは節々から見て取れる。でなければ、映像の1/4ぐらいをストローズの話で埋めるなんてありえへんやろ。映画の縦軸となっているオッペンハイマーの保安委員会査問とストローズの商務長官指名聴聞会を意識的に重ねることで、両者が地続きの存在であることを暗に示している。その地続きの地平そのものを疑えというアインシュタインの示唆は、ノーランがこれまで『ダークナイト』や『インセプション』で繰り返してきたメッセージなのかなと。

 シャーウィンやバードの本が科学と政治を対立関係に設定し、後者を批判的に見る視点があり、オッペンハイマーアメリカの近視眼的な原子力政策や赤狩り暗黒時代の犠牲者になったという見方を惹起するのだが、ノーランはこの立場を採っていないように思う。本作でオッペンハイマーの妻キャシーが繰り返し示唆するようにオッペンハイマー自身の「罪」はいつまでも消えることなく、「罰」もまた不完全であり続けるという立場をとっている(冒頭エピグラフにおいて、火を盗んだプロメテウスが「永遠の拷問」を受けているというのがそれを示唆している。アメリカン・プロメテウスたるオッペンハイマーも、終生苦しみ続けたと考えるべきだろう。)。オッペンハイマーの苦悩を端的に示したのが、原爆が投下された後にロスアラモスで行ったスピーチシーンである。あれは圧巻である。

 また、「私の手は血濡れているように感じます」とオッペンハイマーが述べた際にトルーマンが憤慨して「原爆を落とされた者は作った奴ではなく落とした奴を恨むんだ」と述べるシーンがある。だが、オッペンハイマーの「罪」はまさに、「落とす奴」がいることを前提に「理論」物理学の限界を踏み越え、「殺戮」を前提とする「実験」へ一歩踏み出したことにあるのではないか。20億ドルをかけて行った壮大なプロジェクトは、実際の原爆実験である「トリニティ」だけでなく、広島や長崎への投下込みで「実験」(つまり「理論」と対比する意味で)だったのではないかという観点が随所に示される(例:オッペンハイマーがドイツ降伏後も原爆開発を続けた際の台詞、ストローズによるオッペンハイマーへの批判、保安委員会査問でのロッブ弁護士への尋問の応答など)。オッペンハイマーが「理論」だけを考えていた時、流麗な量子力学の再現映像みたいなシーンが音楽とともに流れ観客を引き込むのだが、「実験」が重視されるロスアラモス計画への参画以降はそのようなシーンは一切なくなる(爆縮か核分裂を説明する時に出てくる再現映像はおどろおどろしいものであった。)。本作はそのような形で、オッペンハイマーの罪にも向き合おうとしている。

 印象的なのは、普通の伝記的な作品であれば、民主党政権になって名誉回復がなされフェルミ賞を受賞して終わり、というのが一番きれいなのだが、ノーランはあえて冒頭既にストローズ目線の白黒で描かれたアインシュタインオッペンハイマーの会話の中身をエピローグに設定している。オッペンハイマーが救われてよかったねなんてことでは決してなく、なおかつ、核兵器は今や「昨日までの世界」をとことん破壊しつくして、我々を新しい現実へと誘ったのだという現実が、オッペンハイマーの何とも言えぬ顔のクローズアップで示唆される。

 映像面で言えば、本作は本当に顔の映画である。キリアン・マーフィーもロバート・ダウニー・Jrエミリー・ブラントも、みんな顔がいい。こんなにアップして何秒もやっても画が持つのは凄い。演技も凄い。老獪な政治家であるストローズを演じたロバート・ダウニー・Jrの「Amateurs seek the sun and get eaten. Power stays in the shadows」のシーンは痺れた。個人的には悪辣な反対尋問で相手をやり込めるロッブ弁護士を務めたジェイソン・クラークの演技にも光るものを感じた。ジェイソン・クラークといえば、俺は「ホワイトハウス・ダウン」の頭のおかしい元デルタフォースの敵役しか思い浮かばないので、こういうのもできるんだと素朴に感心した次第。

 まとめると、普通にメチャクチャいい映画でしたね。これは配信されたら3回ぐらいは見ると思う。ノーランの作品で一番好きなのが『インセプション』で次点が『ダークナイト』なのですが、その間に入るぐらいの俺好みのもの。