死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20231212

 12月に予定している忘年会①をこなしてまいりました。結構飲んでしまったけど書く。書くという気持ちだけが本当。

 

【労働】

 大したことはない。とりあえず明日明後日テレワークなのでひたすらテレワークでやれる仕事を溜めていたら一日が過ぎた。おかげで明日には何とか成果物を出せそうだ。

 

【ニュース】

digital.asahi.com

 この自民党というのは揃いも揃ってクズばっかりなので、次の選挙ではごぼうの党に入れます。大谷に花束を投げつけるという公約なら支持できる。ところでごぼうの党の「ごぼう」って「誤想防衛」でいいんですよね。ちなみにここ数年自民党には入れていません。

mainichi.jp

 こんな恥ずかしい人間だから7期目なのに副大臣、総務副会長止まりなんだろうな。自民党の「障害者雇用」のノルマ達成人員に過ぎない気がする。82歳にもなって政治家やるな、生きようとするな、福祉にすがるな、墓場だけがお前の終着点やぞ。吹きさらしの無縁仏になれ。こいつの家族も全員悲惨な目にあってほしい。

 

【読書】

 小野紀明ハイデガーの政治哲学』は読了しました。

 第二部「初期ハイデガーにおけるアリストテレスの受容」は、「実践概念の脱構築」「技術概念の脱構築」「運動概念の脱構築」の3つの論文から構成される。いずれも初期の講義でハイデガーアリストテレスに集中的に取り組み、如何にアリストテレス的な概念を換骨奪胎して自分の存在論的な体系に組み込んでいったかが示されている。どの論考でも重要になるのが、人間が自らを開示し、他の存在物との連関を構築する「ロゴス」を持つ共同存在であるという点であり、ここに立脚しながらハイデガーは独自の概念を彫琢していくという流れだった(と思う)。

 どの論文もアホほど難しい(ハイデガーくんのせいです)ので、論旨の展開をうまいことまとめるのは俺の能力の限界を優に超えている。事の帰結だけ述べていくと、実践について、ハイデガーアリストテレス的な観想/実践の二項対立(そしてアリストテレスは観想的生に軍配を上げている)を超克し、「広義の実践を構成する観想/実践という両義的な関係性」という形の解釈を提出する。また、技術概念については、アリストテレスの制作概念において重要な形相/質量の二項対立についてもあえて両義的な捉え方を行い、技術がある種の「存在開示」の技法である点を剔出する。運動についても、アリストテレス的な終局・目的を措定するわけでなく、その都度存在を存在物として現れさせるオントロギッシュな「戯れ」であるという。

 正直アリストテレスの解釈としてはどうなんやと思う。「ハイデガーアリストテレス解釈が暴力的であることは間違いない。しかし、それは彼が意図して行っていることである。彼は、31年講義の中でアリストテレスを「追い抜くこと」の必要性を主張している。「追い抜くこと」、それはアリストテレスの体系を解体し、脱構築することである。「アリストテレスを追い抜くことこそが、重要である。しかし、それは進歩という意味で前進することではなく、寧ろ後退して、彼によって把握されていたものをより起源に遡って露呈させることである。」」(pp467-8)と小野も述べている。まあ創造的誤読というか、エクストリーム解釈学というか……。とはいえハイデガーの解釈をあげつらってもさして生産的でないことは確かだろう。こうした読解はいわばアリストテレスの「脱構築」だと解しうると言えばそうだなと思うし、その点に立つと首肯しうる部分は多い。

 ただ、だからなんだよと言われるとうーんという感じですね。小野が第3章の注で引いているG.B.SmithのNietzche,Heidegger,and the Transition to Postmodernismの「ハイデガーが試みた多様な解決策は結局不必要な不透明さに行き着いてしまう。行為と沈黙した隷従との間のハイデガー的深淵は架橋されないままである。」(p340)という指摘は御尤もという感じですわね。小野が第3章冒頭で述べたとおり、現代において「慎慮(フロネーシス)に基づく政治哲学もしくは規範的政治理論」が盛んになっている(ホンマか?)ということであれば、そことハイデガーの「政治」哲学とやらがどのように結び付きうるのか、オンティッシュとオントロギッシュのアポリアを乗り越えてオンティッシュな次元にはハイデガーを架橋できるのか、という点の突っ込んだ考察はもう少し欲しかったかもしれない(最後に若干ポストモダン的な政治理論との接続可能性について示唆されているが……)。

 ちなみに、終章「戯れの甘受」は全く意味が分かりませんでした……。これはほんとすいません、力不足です。

 本書は全般的にかなり難しいし、読むのに難渋した。小野はかなり分かりやすく書いている方だということは断っておきつつも、ハイデガーについて通り一遍の知識がないと読みとおすのもきついだろう。俺は学部時代にハイデガーにそれなりに取り組んだ覚えがあるので、通り一遍の知識がないといえば嘘になるが、正直覚えていないこともメチャクチャ多いので、暇な時に轟本とか高井本でも読んでみようかなと思った次第です。ただ、注などはかなり勉強になりますね。

 以下は気になったところの引用。下線俺。

 (慎慮に基づく政治哲学もしくは規範的政治理論についての説明として)「第一に、政治とは、知恵(ソフィア)が発見する真知(エピステーメー)に基づく観想的な「心理の政治」或いは「理性の専制」であってはならず、せいぜいのところ臆見(ドクサ)(意見)を尊重する慎慮に基づいて行われる実践の営みである。以下は、ここから帰結するコロラリーであるが、第二に、政治とは、常に普遍的な知を追求する抽象的な理性が顧慮しようとはしない、具体的な状況下における具体的な自己と他者との関係を対象とする営みである。第三に、そのために政治的統治は、個物を何らかの同一性を根拠として包摂するところに可能となる集合の相互関係を規律する一般的なルール(法その他)の機械的な適用に終始してはならず、寧ろ同一的集合から逸脱する差異、身体性を備えるが故に個々人が有する差異に対して可能な限り配慮するべきである。」(pp281-2)

 「ハイデガーにおける「政治的なもの」とは、意味に満ちた日常的世界に亀裂が生じ、そこに隠蔽されていた存在物の全体性が現前する瞬間、ただ存在するものが互いに有する、同一性に包摂され得ない差異が現れる破局の瞬間を、政治的に到来させようと企てるところに存する。」(「第3章 実践概念の脱構築」p312、イミフ……)

 「『存在と時間』の中でロゴスをめぐる実践について論じているときに、彼の念頭には一貫して政治が置かれていたことは間違いない。日常的世界における現存在と共同存在である他者との実践的交渉とそこにおけるダス・マンへの頽落を分析した部分も、そしてダス・マンからダス・ゼルプストへの超越を論じた部分も、要するに『存在と時間』の殆どすべては、「政治的なもの」に関わっているのである。」(同p328)

 「「線」をめぐる省察という点から言うならば、ユンガーが主張したかったことは、外部への脱出を断念して、内部で不断に逃走線を引き続けることではなく、逃走の彼方に一つのユートピアを夢見ることであり、線を「突破」して存在の現前する外部へと脱出する可能性に賭けることである。そして、ハイデガーの批判は、正確にこの点に向けられているのである。「貴方は、線を越えて彼方を眺め、そして線を越えて彼方へ行く。私は辛うじてただ、貴方によって目の前にひかれた線を注視するだけである。」ユンガーが英雄的に線を「突破」することができるのに対して、ハイデガーには線を前にして逡巡し、線を凝視し続けることしかできないのは、前者が「力への意志」という人間の本質を信じ、それによって「合理化」「規格化」「水平化」された近代的秩序を打破して存在の現前をもたらすこと、換言すれば、ニヒリズムの克服が可能であると確信している一方、後者はそこに本質主義、基礎づけ主義、つまりは形而上学を認め、ニヒリズムの克服は新たな存在の隠蔽と忘却をもたらすものでしかないことを承知しているからである。」(pp376-7、小野はドゥルーズ=ガタリ千のプラトー』が提出した「ありとあらゆる逃走線を塞ぐ全体主義/逃走線上で破滅を生じさせるファシズム」の区分けにも注意を喚起している。)

 「ハイデガーにとっては、民族のようなゲマインシャフトリッヒな共同体と近代市民社会のようなゲゼルシャフトリッヒな共同体の間に、本質的な相違はない。なぜならば、両者はいずれもその構成員を共通に基礎づける同一性根拠を有しているからである。前者は民族精神の如きものであり、あるいは形態であり、後者はそれを構成する合理的個人が共有する理性的なものである。(中略)重要なことは、このような観点に立つならば自由主義とそれに対立するファシズムとの間の相違も解消されてしまうという点である。両者は、何らかの意味で基礎づけられている点で共通するのである。そしてハイデガーが政治に託したものは、まさにこの基礎づけられた共同体を解体して、基礎づけ得ないものを救出することであった。この点で、現実の名イズムがその政治的敵手である自由主義と大同小異であることに気づいたとき、彼は必然的に政治的関与を止めなければならなかった。」(pp385-6)

 「ハイデガーの運動が、けっしてその都度の規則が構成する秩序を否定せず、彼の主張したい点が、その規則と秩序を自明視せずに不断にそれを脱構築していくことにあるならば、デリダに代表されるポストモダン的な法批判と通じ合うことは無論のこと、それどころか敢えて言うならば、彼が生涯放棄することのなかった国民社会主義の理念とは、案外ドゥルーズ及びガタリ全体主義と区別したファシズムに近いのかもしれない。」(p483)

 

【雑感】

 忘年会は楽しかったが、みんな人生の話がすごかった。離婚、結婚式の相談、如何に職場で生きていくかなど……。俺が空虚な読書をしているところ他の人々は普通に人生を生きていてワロてしまうね。今月30になるという話をしたら、まあ多分冗談なのだろうが「30にもなって彼女もいないのか」と言われたので「貴方みたいに離婚調停しなくて済むからね」とかなりきついことを言い返してしまったが、凄く悪いことをしたと思って反省しています。