死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20240125

【労働】

 無。頼む助けてくれ。

 

【ニュース】

 昨日先月分のブログを読み返してびっくりしたんですが、埋め込み型にすると当該記事が消えたら何貼ってたかわからんくなるっぽい。もう面倒なのでとりあえず今日からは埋め込み式を辞めるという対応にします。

 

「死刑に処する」繰り返した裁判長 青葉被告が首を左右に振った言葉:朝日新聞デジタル

 ワァ……ってなっちゃった。いや当たり前っちゃ当たり前なんですが。

 

【読書】

 アーレントエルサレムアイヒマン』を読了。折を見て何度かパラパラしていますが、きちんと通読したのは実は二度目です。一度目の通読は確か大学時代だったかな。
 実は11月に『全体主義の起原』も一週間ぐらいで通読したのですが、それから本書を読んでみるとアーレントの著述の意図が昔よりはつかめるような気がした。多分本書はアーレントの著作の中では割かし読みやすい方ではないかと思うが、他方でそれなりの前提知識が要求される。本書はよく副題の「悪の陳腐さ」に単純化されがちだが、実際には「悪の陳腐さ」という単語は本文中にはほとんど出てこないのである(アイヒマンが絞首された際と、長い追記の中で言及はされる)。アーレントがこの副題に込めた意味はそれなりに考えられて然るべきだが、本書は決してそのような単純化では汲みつくせない内容を持っている。
 通して読むと分かるのだが、本書はいわゆるアイヒマン裁判のレポートに終始するものではない。アーレントがもちろん裁判傍聴で得た情報(アイヒマンの表情であるとか、法廷内の失笑とか)も盛り込まれているが、大部分が訴訟記録や同時代の歴史研究をもとに書かれた、裁判の展開を軸としたアイヒマンバイオグラフィーである。また、本書の主人公は確かにアイヒマンなのだが、同時にアーレントはしばし脱線し、戦争犯罪をしばし矮小化しようとしたドイツ社会や、この法廷を政治的に利用しようとしたイスラエル国家への批判、前例のない犯罪であるがゆえにそれを「ユダヤ人の受難」として途方もない罪状でアイヒマンを起訴した検察官や、法廷の正当性や瑕疵などはあれど裁判体としての役割を果たしてアイヒマンに死刑を言い渡した裁判それ自体への考察も含んでおり、その意味ではバイオグラフィーにとどまならない多面的な考察を展開した思想書としての位置価も有しているように思われる。
 具体的な内容に踏み込む前に、本書の重大な欠点を挙げるとすれば、アーレントアイヒマンを極めて「見下している」ように見受けられる点である。もちろん、いわれのない理由で数百万人の同胞を地獄に投げ込んだ連中に対する態度としては理解できなくはないが、結果としてアイヒマンを単なる小市民的小役人に矮小化してしまったのではないかと思われる(現代の研究では明確に否定されているイメージである)。アイヒマンが学校を中退していること、SSの官僚社会の中で疎外感を持っていたこと、上流社会へのちっぽけな憧れがあったこと、記憶力が絶望的に悪いこと、単純な紋切り型の文句に酔いしれる悪癖があったこと、そしてほら吹きだったこと――こういったことはいずれも多かれ少なかれ事実ではあるが、アーレントはそれをアイヒマンポートレートを描く際に強調しすぎたきらいがある。恐らくは、『全体主義の起原』でアーレントが侮蔑的に描写した「モッブ」がまさにアイヒマンであると考えていたのであろう(実際、モッブを形容する際にアーレントが使った「脱落者déclassé」というフランス語は、アイヒマンにも適用されている)。ただ、アーレントアイヒマンがやらなかったこと(東方における絶滅政策への主導的な関与、これはアイヒマンの権限を優に超えていた)については彼に帰責することはなかったし、アイヒマンが一度ならずとしてユダヤ人を救おうとしたことなども取り上げている点は指摘しておく。

 さて、単純な要約を許さない本書ではあるが、中心的な問いとアーレントが暫定的に導き出した答えについて俺なりに理解したものをまとめておきたい。

 まず、国際法違反でアルゼンチンから拉致してイスラエルにおいて実施された裁判は正当なものなのか。アーレントは、裁判自体はいくつかの法技術的な理由から完璧に正当とは言えないと考えていたが、しかし避けられないものだったと考える。ヤスパースが提案したような国際法廷においてアイヒマンを裁くことが理想だったが、それは望むべくもなかった。そして、そのような疑問符がついた裁判ではあるが、それでもアイヒマンが絞首の判決を受けなければならなかったのは、この途方もない前例のない犯罪において「罰」だけが唯一の解だったのである。アーレントが裁判官が言うべきだと思ったアイヒマンへの説諭(「何びとからも、すなわち人類に属する何ものからも、君とともにこの地球上に生きたいと願うことは期待し得ない」)は有名である。

 次に、全体主義体制においてアイヒマンは「歯車」的な役割で巻き込まれただけなのか、という点である。『全体主義の起原』でも示されているように、全体主義体制の真髄とは人々の頭の中に「現実に対する防壁」を作り上げ、正常な判断を不可能にすることにある。実際、当初はシオニズム運動に共感していたアイヒマンが積極的にユダヤ人の移住(その真の目的は「ユーデンライン」にあったわけだが)を支援し、また東方におけるアインザッツグルッペンによる虐殺には嫌悪感さえ示していたアイヒマンだったが、その後もなおアイヒマンユダヤ人移送に奔走する。アーレントアイヒマン全体主義体制に囚われた人間であるということは理解するも、それでもアイヒマンが大量虐殺を幇助した罪を逃れるべきではないとする。「…恐怖(テロル)の条件下ではたいていの人間は屈従するだろうが、ある人々は屈従しないだろう」(p321)と考えるアーレントにとってすれば、「総統の意思」を自身の行為の格率としてカントの定言命法を読み曲げ、(アイヒマンは自身が移送したユダヤ人の運命を明白に知っていたにもかかわらず)各地でユダヤ人の移送業務にせっせと取り組むこと(彼は保身に走ったヒムラーによる絶滅政策の中止命令に反発したのである)で「良心」を証し立てようとしたアイヒマンについて、「仕方のない行い」だったというのは免責の理由にならないのである(弁護側は常に「国家行為」や「上からの命令」というロジックでアイヒマンを免責しようとしてきた)。

 さて、悪の陳腐さについてである。個人的には取り扱いの難しい概念だと考えている。これについてアーレントが「追記」で述べている部分を引用しておこう。下線は俺。

 「被告やその犯行、または裁判そのものが、エルサレムで審理された事柄の範囲をはるかに超えた普遍的性質の諸問題を提起したことはもちろん疑いを容れない。(中略)私が悪の陳腐さについて語るのはもっぱら厳密な事実の面において、裁判中誰も目をそむけることのできなかったある不思議な事実に触れているときである。アイヒマンはイアーゴでもマクベスでもなかった。しかも<悪人になってみせよう>というリチャード三世の決心ほど彼に無縁なものはなかったろう。自分の昇進にはおそろしく熱心だったということのほかに彼には何らの動機もなかったのだ。そうしてこの熱心さはそれ自体としては決して犯罪的なものではなかった。(中略)俗な表現をするなら、彼は自分のしていることがどういうことか全然わかっていなかった。まさにこの想像力の欠如のために、彼は数か月にわたって警察で訊問に当たるドイツ・ユダヤ人と向き合って座り、自分の心の丈を打ち明け、自分がSS中佐の階級までしか昇進しなかった理由や、出世しなかったのは自分のせいではないということを、くり返しくり返し説明することができたのである。大体において彼は何が問題なのかをよく心得ており、法廷での最終弁論において、「〔ナチ〕政府の命じた価値転換」について語っている。彼は愚かではなかった。まったく思考していないこと――これは愚かさとは決して同じではない――、それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ。このことが<陳腐>であり、それのみが滑稽であるとしても、またいかに努力してみてもアイヒマンから悪魔的なまたは鬼神に憑かれたような底の知れなさを引き出すことは不可能だとしても、やはりこれは決してありふれたことではない。死に直面した人間が、しかも絞首台の下で、これまでいつも葬式のさいに聞いてきた言葉のほか何も考えられず、しかもその<高貴な言葉>に心を奪われて自分の死という現実をすっかり忘れてしまうなどというようなことは、何としてもそうざらにあることではない。このような現実離れや思考していないことは、人間のうちにおそらくは潜んでいる悪の本能のすべてを挙げてかかったよりも猛威を逞しくすることがあるということ――これが事実エルサレムにおいて学び得た教訓であった。しかしこれは一つの教訓であって、この現象の解明でもそれに関する理論でもなかったのである。」(pp395-6)

 アーレントはここで言うアイヒマンの悪の陳腐さは「教訓」になりうるとはしつつも、それが理論や現象の解明(原因)であるとはしていない。あくまでアイヒマンという人間の「事実」としてこの論点を取り扱っていることに注意を促していることも気になる。つまり、アイヒマンのような人間がそこかしこにいるという意味での「陳腐」=ありふれたものということではなく(何故ならアイヒマンほどの存在はありふれてはいないとアーレントが明言している)、起きた結果に対してあまりにも「陳腐」ややもすると「滑稽」な動機や能力しか持ち合わせていないという意味で述べているのだとすれば、無思考や現実感覚のなさが破滅的な結果をもたらすというそれ自体既に「陳腐」な教訓話にしかならないように思う。残念ながらアーレント自身が多くを語っていないので、なかなか言いうることがないように思う。実際、この概念は本書の枠組みを飛び越え、どちらかというと「悪の陳腐さ」は「陳腐」なまでに人口に膾炙している感がある。

 本書はアイヒマン以外にも様々なことが言及されている。デンマークにおける組織的なユダヤ人移送への抵抗、打って変わってルーマニアでの残虐なテロル(ユダヤ人を列車に詰め込んで全員死ぬまで無目的に走らせる行為で、これにはナチもビックリして止めるほどだった)、ブルガリアの組織的殺戮から突然の移住容認への豹変、ヴィシーフランスやイタリアでの移送政策への障害などなど、(ヒルバーグに依拠した形ではあるが)ホロコーストの歴史の概観としても読める。また、しばしば寛大な判決をもらったり、戦後のうのうと官職に収まり続けたドイツ社会への批判もなかなか読ませるところがある。もちろん、それ自体が論争になったシオニズムユダヤ人評議会の移送への協力に関する話も、興味深い点ではある(多くのユダヤ人を犠牲にしてまで自分たちを「例外」だと位置づけようとしたこと自体が、地獄への口を開いたのだという指摘は思い)。そういった各論でも読めるところではある。いろいろと勉強した上でまた読み直したら面白いのかもしれませんね。

 

【雑感】

 普通に本をまとめるのに2時間ぐらいかかるな。何かいいやり方ないですかね。