死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20240216

 今日の夜は愛すべき大学時代の友人たちとの飲み会なので多分更新できないので今のうちに……。まあ、ほぼ昨日の話ですが。

 

【労働&雑感】

 天皇陛下に心の中で「ごべぇぇぇぇん!!!!」って言いながら諸々に白旗を上げました。まあ、妙な意地を張ってもしょうがない。これでもう出世も職場での立場もなくなるのだろうけど、別にどうでもいいわな。逆にこれで何ら手当がなされなかった時のことを考えないといけないわけですが。何はともあれ、ここが人生の踏ん張り時です。

 以前俺がどこかのエントリで年収600万円あれば万々歳の暮らしができると豪語した記憶があるのですが、下方修正して年収500万で生きていくことを目指したいと思います。実際今がそんな感じなのですが、未来永劫異常独身男性、風俗に行かない、賭け事もやらない、実家で暮らしている、といった「生まれもった好カード」を複数枚持っているおかげで、何だかんだ余裕のある暮らしができているんですよね(前職で立て替えた経費の支給が間に合わずにピンチみたいなことは割とあったので大違いです。)。配られたカードで勝負するっきゃないマンですが、実は配られたカードがまあスリーカードぐらいにはなっているという感じ。貯金だけ見れば、そこそこ大きな買い物もできるし、多分両親が突如死んでも葬式と墓ぐらいは何とかなりそうです。あと普通に仕事辞めても2年ぐらいは食っていけるはず。そういう意味では、現状維持さえ何とかクリアできれば人生において全く問題がないので、後は如何に労働に起因するあれやこれやを回避しながら自身の生を慈しむか、ということに尽きるのではないかと思われます。

 今の労働環境は、時間的には余裕があって申し分ないのですが、それ以外は残念ながら最悪と言わざるを得ないですね。なぜかというと、尊厳もなく、自己実現もなく、ただ単に本当に意味のない労働に従事しているし、その無益さが周知の事実になっている以上「いてもいなくても構わない」人間になっているんですね。俺は職場では割と温厚に振る舞っていますが、そのせいか何も思わない木偶の坊だと思われている可能性があるっぽい。そういう環境で、「まあ別に労働で自己実現したいわけじゃないっすし」と虚勢を張ってもいいし、ある程度一片の真実が含まれてはいるのですけど、けど、自分が真綿で絞められているような感覚があるのでずーっと苦しいわけです。労働にも1%ぐらいの自己実現がないといけないわけです。メチャ不謹慎なことを言いますが、ゾンダーコマンドが強制収容所でガス殺された同胞の死体を埋めることにさえ、徹底的に悪辣ではあるが何らか「意味」があったのだとしたら、意味がないという点では俺の仕事の方がひどいもんですわ。嘘ですこれは言い過ぎた。俺の「罪」として取消線であえて残しておきます。

 とはいえ、やはり根本的に俺の逃げ癖があることは否めない。変えられない環境に直面した時にそこから逃げるのではなく耐えることも選択肢としてはあるような気もします。逃げ続けるには、それが許されるだけのスキルと確固たるマインドセットが必要な気がしますが、どっちも欠けている平平凡凡な人間なので、どこかで折り合いをつけざるを得ないということは拳拳服膺として自身に言い聞かせねばなるまい。しかし、決して今ではない、ただそれだけです。

 

【ニュース】

(ひと)吉田類さん 「日本百低山」に挑む酒場詩人:朝日新聞デジタル

 今一番俺がなりたい人間が吉田類なんですよね。なぜかというとあんなに歳食ってるのにメチャクチャ酒飲めるしうまそうに飯を食うし。吉田類に低山ハイクの側面があることを知らず勉強になった。

 

ヒズボラへ報復、空爆 イスラエル軍、続く応酬:朝日新聞デジタル

 別にこれが「戦争」だっていうことを言う必要もないですし、イスラエルが中東各国に対して空爆を行うのも今日に始まったことではないにしても、もはやリスクコントロールができない状況になっている感がありますね。破滅的なイランとの戦争回避という暗黙のコンセンサスは恐らく各アクターにあるだろうとは様々なシグナルから推測されるのですが、それさえ守ってればあとはどれだけエスカレーションラダーを駆け上がっても大丈夫、みたいな状況は、多くの血の代償を払ってようやく小康状態が訪れつつあった中東を回復不能なまでに不安定化させることにしかならないような気がします。ま、俺が天下国家のことを気にしててもしょうがねえ。

 

ローマ字つづり、改定見通し ヘボン式浸透、新年度以降に:朝日新聞デジタル

 これは率直にいいことではないかと。名刺を作るにしても何にしてもここで迷いが生じなくて済むし。

 

伯父に懲役30年判決 放火、2児殺害 神戸地裁支部:朝日新聞デジタル

 この事件は極めて救いがないですが、諸々考え合わせると、遺族には悪いがこの判決は妥当な気がしますね。有期刑に減刑されたことからして検察は控訴必至だと思いますが。ただ、個人が有する応報感情はそれ自体として自然なものですが、そうした応報感情を社会全体でわがものにして死刑と決別できないというのは、如何にも御しがたいレベルで前近代を感じて嫌になりますね。

 

ナワリヌイ氏、獄中で死亡 ロシア反政権派指導者 当局発表:朝日新聞デジタル

 ロシアは今後どうなっていくのか……。犯罪者・狂人・強欲な壺人が支配する国家という意味では、わが国の悲惨とあんま大差ないかもしれませんが、残念ながらわが国の指導者はここまであけっぴろげに人殺しをしないので、その強度においてロシアとは格が違いすぎますね。何はともあれ、体制への異議申し立てが死と直列回路で繋がっている国においてこのような英雄的人物がいたという事実自体が、人類を諦めてはいけない理由たりうる気がしますね。まあ俺はそれだけでは人類絶滅回避に納得しないですけど……。

 

自衛隊制服組トップの吉田圭秀統合幕僚長 過労による体調不良で入院 | NHK | 防衛省・自衛隊

 みんなで守っていこうこの国をっていう気持ち。それってさァ、統幕長が安心できるように核兵器を導入する……ってコト!?

 

【読書】

 久しぶりにまとめます。

 イレネ・バジェホ『パピルスのなかの永遠 書物の歴史の物語』(作品社)を読了しました。マングェル『読書の歴史』の姉妹本かと思えるぐらい似ていますが、しかし独自性もあるので面白かったですね。

 著者はスペインの西洋古典学者で、古典古代のギリシア・ローマの文化に通暁している。本書では、主にギリシアやローマの時代において、「書物」=書かれた言葉はどのように制作・保存・変形・伝播していったかを描く、学術的なエッセイとまとめられるだろうか。「エッセイ」としたのは、時折読み手への語りが入ったり、著者自身の鬱屈した子ども時代や思い出話なども挿入されており、それが本書に複層的な豊かさをもたらしている。また、単なる古典古代の蘊蓄にとどまらず、様々な映画や現代文学、ポピュラーカルチャーへの言及もセンスよくなされている。まさかこの著者からクトゥルフ神話の『ネクロノミコン』が、ゲーテの『ウェルテル』などと一緒に死をもたらす本として言及されるとは思わなかった。その博覧強記っぷり(悪く言えば雑多さ)はお見事というほかない。そういう配慮によって本書はエッセイ的な読みやすさを獲得している一方、それが学術的な知見にしっかり裏付けられていることも本書の美点である(古典古代のかなりマイナーな著述家も拾っているあたりは流石というところ。)。また、本書では古典古代において少数派であった女性の書き手についてもきちんとフォーカスしている点は素晴らしいと言える。

 今回は本書の内容を章ごとにまとめるというよりも、個人的に「おっ」と思った部分を引用して残すこととしたい。なお、引用にまではしませんが、プロローグにおけるプトレマイオス朝の命令を受けて世界中の書物の収集を命じられた騎手たちと、エピローグにおいて馬に乗って本を市民たちに配り歩いたアメリカの移動図書館の女性司書たちの対比は本書の中でとりわけ美しい描写であったことを書きとどめておきたい。

 「ホメロス叙事詩の魅力と数々の圧倒的に美しい瞬間を味わいながらも、これは家父長的なギリシア貴族の支配する世界で起こったことであり著者はその価値観に疑問を呈することなく賛美していることを念頭に置いて、私たちは用心深くありつづける必要がある。自由で逸脱的な物語を語ることは、詩人が伝統の番兵であった時代にはありえないことだった。文字と書物が発明されて初めて、一部の作家たち――いつも少数派――が、反抗的な者、御しがたい者、虐げられ傷つけられた者、沈黙を強いられてきた女性や、叩きのめされた醜いテルシテスの声で語りはじめることとなる。」(pp117-8)

 「……ごく普通の人たちも、長い文学的テクストを忠実に再現することができた。ヒッポのアウグスティヌスは、彼の著書の一つで、同級生のシンプリキウスがキケロの議論もウェルギリウスのすべての詩も――つまり、何千もの詩行も――後ろから前に順番を逆にして暗唱したことを想起している。(中略)アンテュルスという二世紀のローマの医者は、さらに進んで、書物を記憶することは健康に良いとまで断言した。これに関しては突飛で面白い議論をしている。物語や詩歌や対話を記憶する努力をしたことがない人たちは――彼が言うには――自分の体から、ある有害な流体物質を消すことがかなり難しい。代わりに、長いテクストを暗唱できる人たちは、問題なくその害ある物質を呼気として排出できるということだ。」(p149)

  (パウサニアスが紹介した逸話として)「「ボクサーであったアスティパレアのクレオメデスは、試合中に対戦相手のエピダウロスのイコスを殺してしまった。その残虐さに、オリュンピアの審判は彼から勝利を剥奪した。クレオメデスは怒り狂った。そしてアスティパレアに帰ると学校に入り込み、そこには60人の子どもたちがいたのだが、両腕で力任せに天井を支えていた柱をくだいた。建物は彼らの頭上に崩れ落ち、全員が死ぬことになった。」」(p152、著者はこれを『ボウリング・フォー・コロンバイン』と死刑執行人サムソンの混交というなかなかセンスある評言をした)

 (アリストパネス以降のギリシア喜劇を評して)「次の世代には、ギリシアアレクサンドリア大帝国とその後続の王国に組み込まれていた。それらの君主たちは冗談を寛容しなかった。そうして新喜劇が生まれた。感傷的で風俗描写的、波乱万丈な筋の、オルテガ・イ・ガセットが「喜劇とは、保守政党の文学ジャンルである」と書いたときに念頭に置いていた喜劇が。知られている限りでは、ストーリーの素材は反復的だった。若い主人公、口のうまい奴隷、思いがけない出会い、見分けがつかない双子、厳格な両親、きれいな心を持った売春婦。

 (中略)新劇の作家たちが攻撃的ではない形で観衆を楽しませようとしたにもかかわらず、結局は癪に障った。古代社会がより厳格になると、繰り返されるプロットの不道徳性が不快感を与え始めた。」(p231)

 (アレクサンドリアのヒュパティアが求婚者を断った時の逸話として)「「彼女は経血が染みた布を取り上げて言った、「これが、あなたが恋をしているものですよ、若者よ、美しいものではありません」。彼は恐ろしい光景を前にあまりに恥じ入れ動転して、心に変化が生じ、たちまちにより良い男に改心した。」」(p273。エグいてぇ!)

 (『チャリング・クロス84番街』を評して)「二人ともますます特殊になる贈り物、仕事、言葉を送りあった。意思疎通するため、感傷のない、遠回しの、彼らの口にされない愛を深刻なものとしないために巧みな表現がつまった特有の言語を精製したのだった。」(p361、これはかのフランクとヘレーンの感動的な手紙のやり取りを表すものとして最も簡にして要を得た記述だと思う。)

 「…2009年に常軌を逸した検閲の試みによって、アマゾンは著作権侵害の疑いを理由に、顧客のキンドルからジョージ・オーウェルの『1984』をこっそりと消した。何千という読者が、前もって知らせもなく自分の端末からその書籍が消えたと訴えた。学術的な作業をしていたデトロイトのある学生が抗議したのは、そのファイルとともに彼の読書ノートがすべて消え去ったからだった。アマゾンが暗黙の文学的象徴について意識的だったかどうかはわからない。『1984』では、行政の検閲官が「ビッグ・ブラザー」の癪に障るすべての文学の痕跡を消し去るために、「記憶のブラックホール」と名付けられた焼却炉に書物を投げ捨てるのだ。」(p426)

 「すべての分類学と同様に、カノンはそれを作成した人やその時代について多くを明らかにする。そして選ばれたリストのなかに、偏見、思惑、心理状態、盲点、権力構造、自己評価が露呈する。カノンではなくなった古典作品、片隅に追いやられたところから浮上したものや、影響力を絶え間なく保持しているもの、つまり世紀を超えたカノンの変遷の歴史の研究は、私たちの文化的な生活に魅力的な視点を提供する。私たちの永遠を意図した判断が生起する場である可変性のコンテクストを認識することは、歴史的な読解力を高めることであり、J・M・クッツェーによると、それは現在を形作る力として過去を理解することに基づいている。「歴史家された後になにかが残り、時代を超えて私たちに語りかけるものがあるとしたら、古典に残されているものはいったい何だろうか?」とこの南アフリカ出身の作家は問うた。古典は時間的境界を超え、来たるべき時代のために意味内容を引きとどめ、生きる。日々さらされる試練のなかから無傷で浮上する。暗黒の時代が横断しようとも、その連続性は途切れない。歴史の転換も乗り越え、ファシズム独裁制による聖別という死の口づけさえも生き延びた。エイゼンシュテインによるソヴィエト共産党プロパガンダ映画やナチスのために制作されたレニ・リーフェンシュタールの映画には、いまでも私たちを感銘させる何かがある。

 カルチュラル・スタディーズは権威による抑圧的なカノンを攻撃し、排斥されたものを主役とした、代替的なカノンの提案に取りかかった。70年代にはじまったこの戦いは20世紀の終わりを活性化させた。多文化的な意識に支配された学術界の文脈で、アメリカ合衆国の批評家ハロルド・ブルームは哀愁に満ちた様子で、彼が「怨恨学派」と呼ぶ道徳観念を指摘し、彼自身が選んだ――無礼なまでに、アングロサクソン的、白人的、男性的な――ウェスタン・カノンを発表した。これほど多くの問いが投げかけられ、同時にこれほど多くのカノン化の動きがあったことはかつてなかった。インターネットは書物、映画、歌の果てしないリストを抱えこんでいる。文化特集はその年の新刊をとめどなくランクづけする。賞や祭は出版された最優秀作品選を列挙する。「〇〇百選」というタイトルが無数に出版される。ソーシャルネットワークには専門もしくはアマチュアの読書家に共有された何百万というおすすめが載せられている。私たちはリストを嫌うと同時に、中毒でもある。必需品だが不完全、カノンはこのように矛盾した情熱を表している。そして書物の洪水のさなkで、包含不能なものに対する不安から抜け出したいという私たちの望みが表面化する。」(pp450-1、本書で一番重要な指摘です)

 (ローマ時代における女性の文筆家の存在について)「こうした社会的妨害にもかかわらず、スルピキア(引用者注:男性作家の作品と誤解されたまたま作品が生き残った女性詩人)だけが自分の作品を公にしようと試みた女性というわけではなかった。今日の私たちには、24人の女性による短い断片、引用、言及が残されている。彼女たちすべてに共通する特徴は、裕福で、重要人物の家系に属していて、有力な男性の庇護のもとで書いたということだ。スペインのローマ法研究者で作家のアウロラ・ロペス・グエトが書くように、彼女たちには才能、財産、そして奴隷たちに対する権力があった。都市は自由な時間をもたらした。つねに家という内々の空間を切り盛りしたが、そのなかでは結局自分たちが主人であった。つまり、ヴァージニア・ウルフが望んだような、金があり、自室があるという、一人の女性が作家となるために必要な条件を手にしていたのだ。(以下略)

 しかし男たちの領土を侵略しようとした貴族の大胆な淑女たちも、特定の境界は尊重せねばならなかった。彼女たちには、マイナーなものと見なされたジャンルや私的生活に関連したジャンルでの実践が許されたのみだった。(以下略)

 彼女たちローマの女性が書いたテクストは切れぎれの断片となって私たちのところまで届いた。全体でもわずか一時間かに時間で読み終わる量だ。こうして、失われたものの範囲がぼんやり見えている。スルピキアはちょっとした間違いがもたらす恩恵に浴し、知らぬうちに男性名のペンネームを持つことで未来へと跳躍した。他の者たちは、緩やかに静寂のなかを漂流した。カノンのなかで、彼女たちは例外的な断片である。エウリュディケのように、だれかが救出しようとすると、再び暗闇に沈むのだ。私たちはその消された足跡を追って、いまとなっては残響とのみ語り合える闇につつまれた景色のなかを手探りで進んでいる」(pp464-5)

 

【動画】

youtu.be

 またインターネットのミームに詳しくなってしまった。このラーメンハゲが狂った回すこ(結局脂の入ったラーメンがうめえんじゃねえかみたいな話。)。あと、ふっくらの4人でのわちゃわちゃ感もいいが、かまどがしっかりと話をまとめてくれる感じもまたよい。俺好みのもの。