死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20240221

【労働】

 今日は何かを成し遂げたという気がするが、これは常日頃のつらくきびしい毎日の中で俺を惑乱させるために仕掛けられた罠だと思う。どうせ明日はもっと辛いんだよな!!!(ここでハム太郎を掴んで壁にぶん投げる)

 

【ニュース】

中国「警察業務拠点」を警視庁捜索 給付金詐取容疑で2人書類送検へ:朝日新聞デジタル

 ずっと疑問に思ってるんですが、エッこれはスパイ行為じゃないんですか? 爆殺したらアカンのですか? 日本は早く聖杯戦争を起こして「アサシン」でジェルジンスキー召喚して真の防諜国家を実現すべきやで。

どうするアッバス議長 超難問の「2国家解決」 語った希望の道筋 [イスラエル・パレスチナ問題]:朝日新聞デジタル

 これは朝日GJでしたね。俺だったら大量虐殺国家のお隣に住みたいとは決して思わないが、大量虐殺国家の外に逃げ出しても非人間的な地獄が待ち受けている以上、それでも二国家解決を信じるしかないというパレスチナの真のお気持ちは尊重されるべきなのかなと……。

 

【読書】

 最上敏樹国際法以後』(みすず書房、2024)を読みました。暗黒の国際情勢というべき今日において読まれるべき一冊ですね。大変教えられるところの多い一冊でしたが、いかんせん国際法については門外漢オブ門外漢もいいところなので一回読んだだけではちゃんと消化できたという感じはあんまりないっすね。ただ、著者のパッションはしっかり俺の胸に届いたぜ。

 内容としては、ロシアのウクライナ侵略やパレスチナ問題などに代表されるように、何故国際法が遵守されないのか、言い換えると国際法で禁止されているにもかかわらず、何故侵略が行われたり、違法な占領がなされたり、ジェノサイドが発生したりするのかという素朴な疑問に対して、国際法のフィールドで長らく研究してきた著者が、国際法の実態や国際法学のディシプリンを批判的に再検討していく中で答えようと努めた著作と言えます。正統的な国際法学ではあまり取り上げられてこなかった「国際法の実効性」について正面から考察するために、批判的国際法学の知見を取り入れつつも、国際法を無用にする単なる権力主義的なニヒリズムや、既存の国際法に居直る法実証主義即ち法弁証論(Legalism)にも与さず、この混迷を極めた国際情勢において必要であろう国際法の可能性を探らんとする気宇壮大な著作でした。

 「第1章 奇妙な法」と「第2章 奇妙な学問」では、国際法国際法学を取り巻く現状についての批判的な分析が展開される。著者は、安保理の機能不全(イスラエルによる違法占領などがアメリカの拒否権行使で適法化する現状)、条約を拒否する国への統制の難しさなどを例に挙げ、国際法は以下のような理由で不確定・多孔的・非実効的であると考える。

 「(1)誰がどこでどのように作るのかが不明確あるいは不統一である。

  例:すべての国に適用可能な慣習国際法はいつ、どこで作られるか。

  (2)不明確な「法」を明確にする手続きが不明瞭である、あるいは確立していない。

  例:国際司法裁判所が時々その機能を果たすが、それを除けばどの機関が国際社会全体の法を指定できるか。

  (3)法がいちおう確立しているらしい場合でも、それを執行する手続きや機関が確立していない

  例:世界政府なきこの世界で、その部分的代替たる安保理は常に機能するか

  (4)執行権限を与えられた例外的機関には権力制御のメカニズムがなく、国連加盟国間の公平性が担保されておらず、正統性や信頼性を伴っていない

  例:安保理常任理事国には国連の強制行動、いわゆる経済制裁や軍事制裁が向けられない」(p39)

 しかし、こうした国際法のあり方を批判しうる肝心な国際法学が十分に機能していない現状がある。アメリカを代表する国際法学者ルイス・ヘンキンはかつてこのように言ったとされる。「ほとんどすべての国々は、ほとんどすべての場合において、ほとんどすべての国際法原則およびほとんどすべての義務を守っている」(p36)著者はこれを<ヘンキン命題>と呼び、国際法が現実には非実効的な状況がしばしあるのに、正統国際法学においてはしばしそれらを些末な逸脱として例外処理してしまう傾向があることを批判する。他方、国際法がしばし非実効的になるのに対して、外交交渉や国際社会の圧力によってしばし国際法違反の状況が是正されることがあるが、著者は「要求や交渉の背後に国際法規範があり、それがガイドラインとして有効に機能する」(p82)結果とは考えるが、国際法規範それ自体に実効性があるわけではなくあくまで交渉や要求の結果だと手厳しい。

 「第3章 国際法を不確定にするもの――総仮設構造の世界」では、何故そのような奇妙な状況が生起したのかという原因が考察される。著者は国際法の構造を「総拒否権構造」と捉える。つまり、主権的国民国家体系として説明される国際社会では、「主権国家ありさえすれば、何においても、最後の土壇場ではみずからの意思に反する規範や命令には服従しなくともよい」(p90)という留保が与えられている以上、最後は国家の利益に還元する説明を通してしまえば国際法を事実上拒否することが可能になっているという構造である(安保理常任理事国のみならず、主権国家であればどこでも拒否権があるという構図。)。また、しばし国際法学における学説が法に転化する(例:着弾距離説)状況なども、国際法を遵守しないエクスキューズに利用される脆弱さにもなりうるとの指摘はなるほどと思った。そうした国際法脆弱性を指摘した上で、著者は国際法構造を「総仮設構造」と総括する。つまり、「国際法世界において条件話法の不確定命題がきわめて多い」ことが、法規範ではなく「仮設」的なものにとどまっているのではないかという指摘である。このような国際法の不確定性を認識した上で、次章以降において著者はどのような形で国際法を活かしうるかという「後退線」を素描しようとする。

 「第4章 非世界政府の非世界法(国際法の制度)」で著者なりの国際法のあり方が示される。国際法を国際社会の憲法として捉えるような単純な国際立憲主義や、国際法を度外視する単独行動主義を退け、世界政府や世界連邦なき世界においては「法の支配」を錦の旗とする多国間協力に国際法の実質を見る「マルティラテラリズム」「批判的立憲主義」の立場をとる。著者の言葉を引用する。

 「筆者の立場は、一種の立憲主義ではあるものの、いわば《批判的立憲主義》とも言うべきものとなる。それによって世界全体を説明し構築しようという気宇壮大な理論ではなく、いくつかの立憲的な規範(たとえば武力行使禁止)の不遵守や、反立憲的な規範(たとえば常任理事国の法的不問責)を批判するための梃子を提供する。それは同時に、マルティラテラリズムを牧歌的な多国間協力にとどめず、それに規範的な負荷をかけるものとなる。単に友好的であるとか協力するとかだけでなく、共通の規範に従い共同で意思決定し共同で行動する、という行動原理を指すのである。それはいわば《規範的マルティラテラリズム》とも言うべきものであり、内容的には《批判的立憲主義》と大きく重なっている。

 《規範的マルティラテラリズム》は国際機構論の理論的立場であり、《批判的立憲主義》は国際法学の理論的立場である。その両者がこうして一点に収斂する。われわれはこのようにして、世界政府なき世界において、世界法ではない法を可能な限り強化し、できる限りの法秩序を確保することを求められているのだ。」(pp154-5)

 「第5章 異議申し立て(または自己相対化)としての国際法理論」及び「第6章 理論と構想」は、先行する批判的国際法学者による国際法批判とその反批判などの系譜を辿りつつ著者なりの考えをまとめたもの。このあたりはかなりハイブラウな議論だったのでまとめきれなかったが、重要な議論をしているなといったところをそのまま引用します。まず、批判国際法学の意義について著者は次のように述べる。

 「批判法学自体、単にいまある古典的法学を打ち倒すというより、国際法学の新たな構想のための自己相対化だと見るべきではないか。古典的国際法学では、日本も含め、みずからの分野の思想性の認識が稀薄だった。それが領域や管轄権の拡張や植民地支配の正統性などについて、どれほどイデオロギー的な機能を営んできたか、国家中心主義を規範化する上でどれほど効果的であったか、国際人道法に至る戦争法の成立過程も「先進国」の戦争の多さゆえではなかった等々、洗い直すべき問題点は数多くある。むろん、その過程の産物たる国際法規範の中には、多くの人々と国々に普遍的に恩恵をもたらすものも少なからずあった。だが、結果が部分的にそうであるからといって、強者による支配を基盤とする思想的機嫌があったことが拭い消されるわけではない。植民地分割があり、戦争による領土取得があったからこそ、現在の地球分割もあるし、そういう分割が現在もなお社会的後遺症を残していることも明らかなのだ。そういうことが一部国際法学者に意識されるようになったのは、ようやく批判法学が登場してからである。その点で批判法学の意義は正当に評価されてよい。」(pp189-90)

 この点を認めた上で、なお著者は批判法学が貫徹し得なかった国際法へのさらなる批判が必要であると考える。著者の批判の眼目は、国際法学の「不可能性」である。つまり、そもそも国際法が政治権力を抜きにして実効的な解決策を持たないことを認識すべきということである。そうなった以上、国際法学の役割は次の二点にあると著者は考える。「第一に、変わるべきであり変わりうるのが政治アクターであるなら、それら権力の担い手に対して何が世界に必要な国際法であるかを説いて聞かせることである。(中略)たとえそれが「証明」にならなくとも、説得を最も効果的にするための議論を展開するのである。(中略)。第二に、不可能の構造が前提であり、それを変更する現実的な能力が国際法学にはないのなら、むしろ理論的にしか扱えない問題、あるいは理論だけで構想できる問題こそを扱うという方向性がある。むろんそこでは、現在の国際法規範体系を継続し外挿すれば世界は必ずよくなるという、およそ現実的でないイデオロギー的主張は放棄することが前提になっている。そういう大言壮語はやめるが、それでもなお世界の改善の為に理論的に改変できる部分はないかを追求し続けるのである。」(pp230-1)。第一の部分を著者は以下のとおり敷衍する。「そうして批判的・反省的な認識体系を保つかたわらで、自動的には働けない法規範が政治の手段として機能できる条件を探る。それは政治的主張と交錯が暴発するのを防ぐ、重要な機能である。賞部品を寄せ集めるようにして局面ごとに暴発を防ぐ仕組みを作り、それをささやかなカテーコンとする。そのための最小限の理性として法規範を働かせる。それが共通の・普遍的な理性と言えるものかどうか、たとえば国連安保理制裁委員会による各種「テロリスト」への制裁制度がそういう「理性」かどうか、それを精査することも国際法学の任務である。そして十分に「理性的」ではない場合、それに代わる政策を提示し、それは国際法と無関係な政治論だと片づけない。それもまた重要な任務になる。

 (中略)批判と反省が唯一可能な任務であるなら、その極点でひとたび学問的議論は終わるのだ。そのあとは「政治」を叱咤激励し続けるしかない。単純な政治的利益の自己主張を唱えるのではなく、「必要法」の堅固な思想を構築し、それを盾にして「政治」を動かすのだ。」(pp254-5)

 「第7章 時間を巻き戻す――理論だけにできること」は、前章で言及された国際法学の持つもうひとつの役割に関するケーススタディでもある。国際法には「時際法(intertemporal law)」という考えがある。これは、「ある行為が合法か違法かは行為の当時の法にのっとって判断されるべきであり、その後変遷を経た現代の法にのっとってではない」という考え方である。ドイツ帝国によるナミビアでの「ジェノサイド」じみた虐殺や、奴隷として連行された人々の思想がヨーロッパ各国に行った賠償請求などの事例では、加害者であるヨーロッパ各国はこの考えを盾に法的責任を回避している(ドイツがナミビアに謝罪したのは法的責任ではなく歴史的責任においてであった。なお、トルコによるアルメニア人虐殺を批判しておいてナミビアの責任を認めようとしないドイツ議会のダブスタについても著者は突いている。)。しかし、国際法学の観点から考察してみると、この「時際法」をこのような方便に使うことはそもそも誤りであると著者は指摘する(このあたりの指摘はテクニカルだった。)。誤りであることを前提とした上で、過去の国家の違法行為で苦痛を受けた人々への救済の道筋としての国際法学のあり方を著者は次のように述べる。

 「時間を巻き戻すこと、それにより、「それは過去のこと」という現状維持的・強者支持的な認識枠組みを克服すること、それは理論上のことにすぎない、という批判がすぐに加えられるだろう。そのとおりである。それは理論上のことにすぎない。しかし、本書で検討してきたように、国際法というものは一皮むけば実は理論でしかないことが非常に多いままできた。権力者の法である時代が長かったために、理論でしかないことが「客観的」な法になってしまうことも多かった。それゆえ、「それは理論でしかない」という批判は、実は天に向かって唾する行為でもあるのだ。百歩譲って、国際法は外交の道具にすぎないのだし権力中心的な世界での問題解決に使われ続けるのが現実である、とする現実主義を認めるのは各人の自由だろう。同時にそれは、前にも述べたように、「国際法」の意味するところが、実務の道具という面と理論という面んに二分化するということである。あるいは、世界を変革する意志のない国際法と、変革する意志のある国際法への二分と言い換えてもよい。実務の道具としてはけっしてなしえないことを、国際法の理論は担う義務がある。現実の単なる肯定ではなく、それへの異議申し立てをする義務がある。

 現実の時間を過去に戻すことはできない。2023年の時点で、世界の現状を植民地主義以前の1400年代に戻すことはできないのだ。だが、事実としての歴史は確かに継起そ、その中で支配者が決めた「国際法」が永久に普遍であるかのような展開を国際法は遂げたが、その錯覚のような遺制を克服すべき課題は残っている。「あの時点でジェノサイドではなかった」で済ますのではなく、現在の時点でジェノサイドであり違法な行為であるなら、理論的に「あの時点でもそうだった」と言うことが可能なはずだし、そうであるべきなのではないか。そしてそれこそが「理論にのみ可能なこと」なのではないか。」(pp276-7)

 

【雑感】

 こういう読書ノートをとるのはマジで大変だし、常に誤読のリスクを抱えているので、ホントはいつでもやめちまいたいという気持ちがあります。が、今これぐらいしか俺の人生で肯定できる要素がないので、頑張って続けたいなと思う。でも2時間ぐらいかかるんだよな。家帰ってからの可処分時間半分はきっついわ。かといってこまごまとまとめると、最初に読んだ内容をどんどん忘れるのでさらに読み直しが発生し、結局かかる時間が多くなるというジレンマよ。頼むから俺の脳内をAIが読み取って要約してくれるみたいなの早く作ってくれ。