死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20240219-0220

【雑感】

 人生への疲れがメチャクチャすごいことになってしまい、月曜日は完全に無になった。恐らく心因性の症状が体にポツポツと出始めたので終わりかもしれない。

 と思い一日静養したら何とかなった。でも、もしかするとこうやって定期的に休みを挟まないとダメになる体になっちゃったのかもしれねえなあ。

 

【ニュース】

辞める裁判官、働き方に疑問 転勤続き、家族に負担 身内亡くなった日も出廷 判事補、約2割欠員続く:朝日新聞デジタル

 裁判官のくせに生意気やろ。そんなん言うなら全部ChatGPTに任せたらええ。

 ※俺は法曹三者憎悪者なので裁判官に厳しい。

不同意性交などの罪で起訴の警視正が留置場内で死亡 自殺図ったか:朝日新聞デジタル

 警察官の立場を利用してまでセックスをしたいという気持ちすごいな。やはり人間のセックスに対する情熱をむしろ考えるべきなのではないかと思いました。

 ところで生成AIによるAV女優がデビューするらしいですね。咲乃ミライって奴。性欲なし太郎なのに興味が沸いてサンプル動画を観たんですけど、あれほとんど現実やんと思ってビックリしました。ただ、そのためかアイドルのディープフェイクものっぽいなという感じがありました。もはや生成AIで大量のオカズが地球上にわんさか投入されているし、ディープフェイクはかなりの精度だし(直近でもテイラー・スウィフトの奴とか出ましたね)、もはや生成AIなしにこの辺の大人の話はできないかもしれませんね。

 ところで、何でこれに言及したかというと、そういう生成AIで女作ったらこういう犯罪なくなるやんという俺の素朴な気持ちだからですね。そうすれば人類絶滅に近づけるネ。生身の女に依存しない強固な男性だけで国を作りたいンゴ!!!(中野昌宏並感)

オンライン受講にリスキリング 時代に先立つ放送大、果たす役割は:朝日新聞デジタル

 放送大に入り直して勉強してえという気持ちが若干あるので。勉強し直したいっつっても何をやるか……。まず語学をちょっとしっかりやり直したいというのはあるんですけどね。

声優・梶裕貴さん、面白いを大切に しつもん!ドラえもん5000回:朝日新聞デジタル

 素朴に祝いたい。

(天声人語)のび太の長所:朝日新聞デジタル

 無料なのですが朝日新聞デジタルからはいつ消えるかは分からんし、他方で埋没させるには惜しいぐらいいい文章なので全文引用します。

ドラえもん』ののび太は、何をやってもいいことがない。テストは0点だし、犬にかまれるし、買ったばかりの漫画をジャイアンに取り上げられる▼でもあんなに何度もつまずきながら、決して人生をあきらめないのが、のび太のいいところだ。年に数回は「今の自分より少しはましになりたい」と一念発起し、宿題をやろうと机に向かってママを驚かす。考えてみれば、芯は強いのかもしれない▼作者の藤子・F・不二雄さんが雑誌で、くるくる回る床屋の看板を人に例えていた。上へ上へと夢を追いながら、じつは同じ場所にいる。「しまいには、その『上昇の夢』さえ忘れてしまう。そうじゃなくて、挫折しても明るく夢を見続ける『自分を見捨てない人』に共感してほしい」。きっとのび太のことだろう▼卒業シーズンが近づく。多くの高校生は、3月上旬に別れの時を迎える。希望の道へ進む人、涙をのんだ人。さまざまだろう。この一歩で残りの人生も決まると、若いうちは思うかもしれない。でもそんなことはない。大事なのは「自分を見捨てない」ことだ▼ドラえもんから眼鏡型の道具「ファンタグラス」を借りたのび太は、童話さながらに、動植物と心を通わせられるようになる。大事に育てたタンポポから、綿毛が最後にひとつ、春風に吹かれて飛んでゆく▼どこへ行くつもり? のび太の問いに綿毛が答える。「わかんないけど…、だけどきっと、どこかできれいな花をさかせるよ」。旅立つ若者たちに幸あれ。

 久しぶりにドラえもんをダシにする系の散文でいいな!と思った奴です。そして心よわよわ状態の俺には刺さりすぎた……。生成AIのエロを語ってる場合かよ。

 

【読書】

 苅部直・瀧井一博・梅田百合香編著『宗教・抗争・政治 主権国家の始原と現在』(千倉書房、2023)を読了しました。

 日文研における共同研究の成果である本書は、政治思想史・宗教学・歴史学・政治経済学・憲法学等の様々なディシプリンから主権国家がその内と外に孕む様々な緊張関係を析出していると言えます(とはいえ、各論文は比較的独立しているので、そんなまとめでいいのかは不安が残る。)。個人的には一番興味関心があったのが白幡俊輔による近世正戦論を扱った第5章だったのですが、その他の論文も興味深く読むことができました。全般的にオールウェイズレベルが高いンゴねえ。

 第1章「宮中祭祀と「国家神道」」(山口輝臣)は、天皇による宮中祭祀を批判するいわゆる「国家神道」言説の原理的な再検討を迫る好論文です。GHQによる「神道指令」の中にあった「State Shinto」の訳語としてこの言葉は日本の宗教言説分析の枠組みの中に生まれ落ちたわけですが、この概念を極めて広範な事象に拡大して適用したのが、当時の宗教における復古反動的な動きに批判的に対峙した村上重良だったとの由。村上は宮中祭祀神社神道の結合を「国家神道」としてみるという、今日の研究からすれば無理のある概念操作を行うことで、復古反動的な宗教勢力を批判的に「網にかけようとしていた」(そうした勢力が宮中祭祀を否定するわけがないので。)。しかし、そもそも神社神道宮中祭祀自体がリンクしていたというのは歴史的説明としては無理があるし、現実においてもそのような流れにはなっていない(この点、山口は島薗進の一連の「国家神道」批判に対して極めて批判的である。)。現実を見失った「国家神道」批判と、国家神道批判の価値を反転させた右派勢力による天皇の祭祀機能の重視=「国家神道」の完成を目指すという謎の掛け違いで議論が空中戦になっている中で、実際には平成天皇は退位の際の「おことば」において国民への寄り添い(被災地訪問など)と国民の安寧を祈願する宮中祭祀を結合的に論じたことで、本来的に法的根拠を持たない後者の機能を前者に対する国民の広範な支持を背景に保持するという「象徴天皇の神学」を達成したという指摘はなるほどと思いました。

 第2章「筧克彦のキリスト教論」(西田彰一)は、国体論者として知られた筧克彦(元々は行政法学者)がどのような形で自身の議論にキリスト教を位置づけたかを論じています。筧克彦においてキリスト教の関心は法の背景にある宗教や道徳に関する考え方への着目に現れたわけだが、後に彼自身は日本人古来の「古神道」なるものを重視し、それがキリスト教に優越すると説く。キリスト教への信仰自体は「日本基督教」として認められるが、古神道への優位がその信仰の前提にあるべきという話でになるとのこと。この論文は知らんことばかりなので勉強になったが、果たしてだからなんだと言われるとぐぬぬとなる感じがありますね。

 第3章「南原繁三島由紀夫」(苅部直)は、南原と三島の天皇観を対比しながらその共通点とずれを明らかにする論考でした。南原は日本の復興のために、日本人が世界観として共有している記紀神話の神聖性と天皇制が必要であると考え、これについては三島も共感をしていた。しかし、あくまでリベラル・デモクラシーを支持した南原は世界に開かれた普遍合理的な国民統合の「象徴」として天皇が機能することを期待したわけだが、単なる象徴を超えての天皇親政を企図し暴走した三島の懸隔は大きい。他方、無教会派のクリスチャンであった南原自身も、国家と宗教の関係については一筋縄ではない見解を有していた。祭礼一致や神社神道制度には反対していたものの、いわゆる南原政治哲学における「価値並行論」(個人が追求する「真」「善」「美」と政治が追求すべき「正義」はそれぞれ独立を保たねばならないとする説。学問の自由はこのコロラリーである)を支えるものとして、その根底において政治の前提たる宗教的神性の価値は認めていた。南原にとっては、「「国家的」「制度的」な「祭礼」と、個人それぞれの内面における「ほんとの神様」への信仰を分け、両者の境界を保つという「怜悧さが、近代日本型の政教分離の制度を支えている」(p64)と考えられたわけだし、「神話の意味とリベラル・デモクラシーの理想とは、南原にとって矛盾なく共存するものだった。」(同)とする苅部の見解には納得できます。

 第4章「知識としての国家」(瀧井一博)は、大久保利通の「知の政治家」として再検討する営みです。もちろん知の政治家と言えば、木戸孝允伊藤博文などであって、大久保にはあまりイメージがないかもしれませんが、瀧井は大久保の施策を検討していく中で、彼が様々な知識を持った人々(それは前島密のような官僚だけでなく、旧幕勢力や東北の復興に自主的に取り組んできた地方経済エリートなど)を積極的に登用していたり、イノベーターたちをつなげる内国勧業博覧会を開催することで、日本の近代化をはかったということを明らかにする。大久保は既に維新の時代から、既成権威(朝廷や幕府)を相対化し、諸藩による協議を構想する「新たな公共性」を木戸や岩倉具視とともに重視しており、こうした考えに基づいて旧幕勢力の積極的な登用をはかっていったとみられる(逆に維新の功労者であっても島津久光のような守旧派は切り捨てる。)。瀧井の結論は示唆に富む。「大久保にとって公を担うのは、知識を求め、それをもとに具体的に社会に福利をもたらしていこうとする人々であり、さらに言うならばそのような実学的知識そのものである。西洋列強との条約体制に組み入れられることによる国内社会の変容は、政治の過熱化をもたらしただけではない。それと同時に、新たな知識への希求とそれに基づいた産業の革新への胎動も生起していた。そのような知識が流通する知識交換のネットワークで、藩の閥を超え出た日本全体を覆うこと。それが大久保にとっての公であり、明治維新の何たるかだったと考えられるのである。」(p92)

 第5章「近世「軍事革命」における正戦論」(白幡俊輔)。これが一番俺の関心があった奴です。正戦論オタクなので。白幡は、しばし技術的・量的な観点から語られがちな「軍事革命」を、近世の正戦論がどのような理路で発展してきたかという思想史的な観点から分析しようと試みております。軍事革命とはつまるところ火砲の普及とそれに伴う城塞の変革、そしてそれに合わせた軍制や政治の変革を指すわけですが、それが当時の軍学書などでどのように受け止められたのかというところです。火砲が出てきたからとて、当時の騎士道的な軍学書においてはそこまで受け入れられるわけではなかった。それではどのようにこうした軍学が発展したかといえば、イエズス会における学術研究の中でこうした新規の軍事技術に対するさらなる研究が行われた。イエズス会として布教のためには世俗権力の保護が必要だった一方で局外中立の観点から政治への関与を控えめにしていたわけだが、直接的な政治への関与を控える代わりに防衛戦争における利用という建前でこうした最先端の軍学を世俗において教授するという妥協をせざるを得なくなり、こうした観点から軍事革命と正戦論を和合させたと解釈することも可能だという。「近世のイエズス会士は、その「正当な戦闘手段」を最大限に解釈し、火砲と城郭の利用を防衛戦争に相応しい手段としていわば「合法化」し、軍事技術の発展を推進」(p115)というわけです。

 第6章「ホッブズとトゥキュディデスの倫理学」(梅田百合香)はホッブズにおけるトゥキュディデスの影響を改めて精査するもの。ホッブズ自身のトゥキュディデス翻訳の意図などを、自身が参加していたヴァージニア会社における直接の利害関係があったことなどから推定するということほへえと思ったが、結論等はそこまで新規性があるものではなかったような気がします。

 第7章「ロールズハーバーマスにおける宗教と政治」(毛利透)は、ロールズ(『政治的リベラリズム』以降)とハーバーマスによる宗教言説を一定の条件において立憲体制の中での言説として認め得るという「但し書き」問題を検討し、「宗教」言説を公共=政治的にどう取り扱うのかといった観点から検討された論考でした。ロールズはそもそも但し書きの条件を十分に練れてないし、ハーバーマスは「2トラック民主制(議会外の公共空間の討議を議会内議論に反映していくという仕組み)」というそれ自体はよかった理論に宗教というややこしい変数をいれたせいで、むしろ民主制を減ずる結果になってない?と手厳しい。ロールズハーバーマスも結局は立憲主義体制の枠内にあるような宗教しか想定してないから、イスラム過激派みたいな連中に対して有効な回答を持ち合わせてないよねという残当な指摘には笑ってしまった……。

 第8章「EU市場統合と「社会的市場経済」」(神江紗蘭)は、これ完全に門外漢なのでなんとも言えないのですが、EUの統合過程において通貨統一等の金融政策が結果として各EU加盟国レベルの財政政策における独自性を失わせる(例:財政移転が困難になる)ことを受けて、ユーロ危機や新型コロナウイルスを経てどのようにEUEUレベルでの金融政策(基金の積み立てや債権国→債務国への融資の移転の容易化)を講じてきたかということを概観する論考でした。「従来EUでは、市場秩序のルールについて欧州レベルに権限を移譲する一方、社会福祉的な政策決定は構成国レベルに残し、その主権を尊重するという姿勢を保つことで正当性を保ってきた。しかし近年の複合危機を通して構成国レベルの社会安定化機能の低下が明らかとなり、また各国の危機への脆弱性や危機対応のキャパシティの差が欧州大での新たな危機の創出とその伝播に繋がる実態が如実になった。ユーロ危機について、その原因の一端が市場・通貨統合を推し進めたEUにある点は否定できないため、EUが市場統合政策を担い、各構成国が社会安定化政策を担うとの役割分担の建前は疑問視されるようになった。各国レベルでの財政・税制、社会福祉における社会安定化機能は縮小しており、それを欧州レベルで一定程度回復させることが、その正統性維持に不可欠となったのである。」(p190)。よくわかんないので著者のまとめに依拠します。

 

【映画】

 遅まきながら『PERFECT DAYS』観て素朴によかったなあと思いました。いつかちゃんとした感想を書きたいのですが、多分俺の言いたいことは全部世の中の大体の映画オタクが言っているっぽいのでよしとします。