死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20240325

 多分だけど鬱だッピ!!!!!!!!!!! 殺してくれ!!!!!!!

 もはや酒浸りしか解決策がないので、とにかく辛くなくなるまでは酒を注入していきます。大丈夫、為替介入と一緒で準備はきちんとできている。俺の中の神田財務官が預金残高を見つつ「スタンバイしている」って言っているので、こっからは無軌道に酒を飲み続けていくぞ。今日は早速普段飲まないスプリングバレーを飲みながら家帰っちゃった。

 というわけで、ブログは若干不定期更新になることをお許しください。とはいえ、本を一冊読み終えたらそれをまとめるために更新するという感じなので、まあ多くて週2回ぐらいではないかなと思います。難しい本とかなら分割して紹介するかも。

 ちなみに、俺はせっせと本のまとめを書き溜めていますが、今までほとんど読み返していません。もしかして俺のやっていることは壮大な徒労に過ぎないのではないかという気付きが生じてきたのですが、少なくとも1年はそれを無視してやり抜く所存です。鬱が酷くなったらすいませんやめます。

 

【労働&雑感】

 厳しいわ。マジで出勤すると吐きそうになる。この歳できちんと登校拒否みたいな症状が出てくるの、育ちが遅れすぎてワロけてくるよ。

 こんな状況なので仕事を辞めざるを得ないと思います。まあこの仕事そこまで嫌いじゃなかったですけどね、この1年間で受けた仕打ちで全て帳消しですね。ありがとう!!!!さようなら!!!!ファック!!!!!

 ただ、マジで俺が社会に向いていないということがようくわかった。前職は破滅的なアホばっかりだったけど、今の職場は良識ある人間が多い。つまり、破滅的なアホも良識ある人間もどっちも俺には耐え難いということ。だからもうダメなんですわ。最悪生活保護があるのであんまり心配はしていないが、とはいえ俺以上にもっと公的扶助を必要としている人間がたくさんいると思うので、とことん人間が嫌になるまで自分の精神を追い込み続けるしかない。次仕事するにしても3年持たない気がするし、とにかく自分で飯が食えるように本格的に何かしないとヤバい気がする。ホントのこと言ったら今の職場やめた後5年は何もしたくないっすよ。

 

【ニュース】

二階氏「政界引退は地元が決める」 会見で「ばかやろう」発言も [自民]:朝日新聞デジタル

 俺は二階が嫌いなのだが、この「ばかやろう」だけは見習っていきたい。仕事辞める時はそう言おうと思う。

 

【読書】

 源河享『「美味しい」とは何か 食からひもとく美学入門』(中公新書、2022)を読了しました。

 非常にクリアでかつヴィヴィッドな論旨で読みやすく、近年の分析美学のエッセンスを理解するにはもってこいの著作ではないかと思う。中公には優れた美学の本が多いが、本書もまたそのラインナップに加わるものだと思います。この人の他の本もいろいろあるので読んでみようかなと思いました。

 本書は人が食べる時に「おいしい」「まずい」と感じること、それを言語化すること(時にはおいしい、まずい以上の分厚い言葉や比喩を使う必要がある)に関して、美学的な観点から考察を深めていく。といっても、かなり卑近な例を用いて明快に述べられていることから、非常にリーダブルだと思う。著者は「食の好みは人それぞれ」という相対主義(この言葉は著者は用いていない)や、「この目の前の一品にまつわる背景事情なんかどうでもよくてこいつの味を楽しまなきゃ!」といった純粋主義で立ち止まるのではなく、食の好みが主観主義的でありながらも客観主義的な部分も含んでいることや、単純に人は皿に盛られた料理を食べるまでに既に様々な知識・判断が介在しているため純粋な「純粋主義」は貫徹不可能であることなどを、明晰な論理展開で明らかにしていく。そうした中で、「この食べ物はおいしい/まずい」で終わる以上に、われわれの普段の食事という経験を豊かにできる可能性を示していると言っていいだろう。また、味覚に関する興味深い科学的知見もふんだんに盛り込まれており、単純にそうした点を知る読み物としても面白いと思う。

 以下、章ごとに紹介していく。

 第1章「五感で味わう」では、まず美学が扱う対象としての飲食の特徴が論じられる。従来の美学においては絵画や音楽といった「視覚・聴覚」に基づく高級なものが対象とされてきた。しかし、著者が指摘するとおり、そもそも「視覚・聴覚」と味覚を含むそれ以外の感覚の高級・低級を論じることは全く根拠がない。他方、それでは味覚だけが独立して美学における考察の対象になるかというとそういうことでもない。著者が科学的知見を踏まえて指摘しているのは、結局我々が普段ものを食べて感じている「味」には多くの感覚がマルチモーダルに関わっている。嗅覚は料理の「立ち香り」と「口中香」が基本味(甘い、しょっぱいなど)をさらに細分化していくことに寄与するし、触覚は歯触りや食材の温度などが味の判断に強い影響を及ぼしている。さらに、近年の実験から、音と見た目も味に影響を及ぼしていることが紹介される(例としては、ポテチの食感の音を変えてサクサクしないと不味く感じるというソニックチップ実験や、白ワインに赤い着色料を入れると醸造学科の生徒でさえ赤ワインに帰されるべき表現をする実験など)。結局著者が述べるように、「純粋な味」というのは基本的には日常生活では感じられず、また料理においては見た目などもそれなりに重要だというのが示される。

 第2章「食の評価と主観性」と第3章「相対的な客観性」は、本書の中でも重要な部分だと思う。ある人がおいしいと感じるものを、別の人はまずいと感じる。こんなもん、パクチーを引き合いに出さなくても多くの人が知っていることではないか。この事実から人は容易に「趣味については議論できないde gustibus non est disputandum」という帰結を引き出しがちだが、著者はこの状況についてより深く考察するよう促す。

 まず、ある料理に対する言明の分析として、著者は以下のように整理する。「おいしい」と「まずい」というのは、当該料理に対する評価であり、「甘い」とか「辛い」は当該料理の性質を記述している。「おいしい」と「まずい」は、「甘い」や「辛い」のように当該料理の性質として帰属しうるかというとそんなことはない。アメリカではルートビアが好んで飲まれているが、他の文化圏の人は美味しいとは思えない。つまり、ルートビアは「おいしい」という性質を持っているわけではなく、「おいしい」や「まずい」という評価はあくまで当該料理を評価する人の態度表明(おいしい=好き、まずい=嫌い)に過ぎないのではないかというのが、著者が整理する「主観主義」的な立場である。この立場は、上に挙げたようなルートビア等を巡る文化的相対性からも補強しうる。ここまでは、正直哲学的な分析を試みずとも直観的にはそうだと言いうるような気がする。

 しかし、本当に「おいしい」と「まずい」は単に好みの問題でしかないのだろうか。「客観主義」的な立場の擁護の仕方として、著者は「傾向性」という概念を持ち出す。毒キノコを食べるとその毒性で人は死ぬ。この「毒性」は「人が食べる」ことによって発揮される。つまり「もしX(人が食べる)という条件が満たされたらY(死)という出来事が起こる」と特徴づけられるのが「傾向性」である。これは言い換えると、ルートビアをおいしいと思う人たちが飲めば「おいしい」と思えるという傾向性を有していると考えると、ルートビアそれ自体に「おいしい」という性質はないにしても、ルートビアには不特定多数の特定文化の誰かに「おいしい」と感じさせる傾向性があり、そしてそれは文化の外にいる人たちにもわかるようなものであると考えられる。ルートビアの例で著者は以下のとおり説明する。

 「たとえば、最初はルートビアがまずいと思っていた人が、何かのきっかけでおいしいと思い、そこからいろんなルートビアを飲むようになったとしよう。最初のうちは、ルートビアであればどれもおいしいと思っていたかもしれない。だが、いろいろ飲み続けているうちに、このメーカーのルートビアはおいしいが別のメーカーのものはまずい、と区別するようになってくる。このときになると、最初の方に下していた「どのルートビアもおいしい」という評価は間違っていた、あのときはあのメーカーのルートビアもおいしいと思っていたがそれは間違いだった、と思うようになるだろう。以前に下していた評価が間違いだとわかるのである。

 文化相対的な客観主義では次のように説明される。最初はルートビアを飲む文化・習慣に慣れ親しんでいなかったので、対象がもつ「ルートビアを飲む文化の人に『おいしい』という評価を生み出す傾向性」がわからなかった。そのため、その傾向性をもつルートビアも、もたないルートビアも、違いがわからず、最初は誤った評価を下していた。しかし、ルートビアを飲み続けることでその傾向性を発見するセンスが磨かれ、正しい評価を下せるようになった。このように考えれば、文化を超えた普遍的な評価の正誤はないと認めても、文化内での評価の正誤はあると言うことができるのだ。」(pp85-6)

 また、著者は客観主義を擁護しうる戦略として、バーナード・ウィリアムズを援用して評価用語の「薄さ」と「分厚さ」に着目すべきだと述べる。といっても難しい話ではなく、「おいしい」「まずい」という薄い言葉はレンジが広いが、「こってり」「くどい」という分厚い言葉(評価と記述があわさったような言葉)が向けられる対象は絞られる、と理解すればいい。豚骨ラーメンもレモネードも「おいしい」と思えるが、レモネードに「こってり」という言葉を使うと「???」となるだろう。「こってり」というのは脂肪分の強く癖になるうまみという感じがあるためだ。逆に、それが好きでない場合は豚骨ラーメンを「くどい」と言うだろう。つまり、豚骨ラーメンの持つ脂っぽい性質が「こってり」や「くどい」という言葉を要求しているのであり、それ以外の言葉は場違いになる。適した言葉かそうでないかという判断が生じる以上は、何らかの基準は存在しうるのではないか、という指摘である。このような形で、著者は主観主義と客観主義はそれぞれ腑分けすれば両立するのではないかという指摘をしている。

 第4章「知識と楽しみ」では、料理を食べる時に「このトリュフはこれこれこうで~」とか「このワインは~」みたいなイキった知識のひけらかしより「味を楽しもうぜ!!!!ドン!!!!」みたいな主張(純粋主義)は、端的に誤りであることが論じられる。つまり、結局のところ食って味を感じる過程の中で、これまで食してきたものとの差異の判断(あの時食ったものよりこの料理はこうだなみたいな)、目の前のラーメンを「ラーメン」として認識しうる過程に既に体系化された知識(目の前にあるどんぶりの料理はラーメンで、スパゲッティやうどんとは違うことなど)が前提されている。「このラーメンはおいしい」という言明は純粋主義的には不可能である。何だか目の前にあるようわからんもんを口に運んでみたら「うまっ!」と思うのが純粋主義の飯の食い方だが、そんなことは(日常においては)恐らくできないだろう。著者は、知識がなくとも料理は楽しめるが、知識を得た状態のポジティブな側面を強調する。「知識が少ない段階では、対象の価値はそこまで楽しめない。自分の目の前にあるラーメンや絵画が他と比べてどうすごいのかまでは理解できず、違いを楽しむことはできない。それでも、その対象と関わった自分の経験を楽しむことができる。他と比べてどうかはわからないが、とにかく目の前のものはおいしい、心地よい、と感じることができるのだ。そして、そこで得られたポジティヴな経験をより増やすために、似たようなものを何度も経験し、そのうち知識が増えていく。知識が増えると、以前は気づけなかった対象の価値に気づけるようになり、それが楽しみを増やすことになるのだ。」(p129)

 余談だが、著者の以下の記述は面白かった。

 「純粋主義を支持したい気持ちになるのは、この手の不快な経験(引用者注:料理に関する知識自慢)があるためかもしれない。そうした人に対して「頭でっかちでうるさい。大事なのは自分がどう感じるかで、知識なんか関係ない」とつい思ってしまう。正確には、こうした場合で嫌悪されるべきなのは知識ではなく知識を自慢してくる人なのだが、坊主が憎ければ袈裟まで憎く、知識も嫌悪の対象となってしまうのだ(こうした知識自慢は食に限ったものではなく本当にいろいろなところにいるし、芸術に関してはとくに多いように思われる)。」(p123)

 第5章「おいしさの言語化」は、「これおいしいね!」以上の言葉をどうにかこうにか見繕ってそのおいしさをより精緻に言語化していく営みがフォーカスされる。俺も普段人と飯を食う時に「うめえ」以外の言葉を発したことがないので、これは勉強になった(何か料理についてこれはこうですねと言うと借りてきた言葉っぽくなるので。かまど、俺も舌壊人や。)。著者は、おいしさの言語化によって他人に体験を共有することができるし、さらに過去の自分が経験してきた味を言語で残しておくことによって比較が可能になる点を指摘する(ソムリエが狂ったレベルでワインについて豊富な語彙を貯め込んでいるのは、そういった比較のためらしい。)。「ある料理のおいしさが「筆舌に尽くしがたい」と言われるように、味の体験は言葉で完全に再現できるものではない。しかし、だからといって「おいしさを言葉にすべきではない」という主張が支持されるわけではない。というのも、言葉を使う目的は体験を完全に再現することではないからだ。私たちが体験を言葉にするのは他人に判断材料を与えるためであり、その目的を果たすには体験を完全に言葉にする必要はない。ある程度伝われば十分なのだ。感動した味を言葉で表現し、その言葉で他人を感動させる必要はないのである。」(p164)

 第6章「芸術としての料理」は、料理は芸術かどうかが問われる。著者は芸術はXという要素があり、料理もXという要素があるので、料理=芸術という三段論法をとるのではなく、そもそも「芸術」概念が「開かれている」ために常に揺らいでいる状況(デュシャンなどを引き合いにだすまでもなく)があることを確認した上で、むしろ「料理」が「芸術」でない理由として挙げられるものを批判的に検討し、料理が芸術でないことを説得的に示すことの難しさを提示するにとどめている。個人的には、そもそも料理を芸術だとかどうだとか言い募ること自体に意味がないと思っているので、同じように料理が芸術であると主張することにもさほど意味があるとは思えないような気がしているので、正直この章はあまりピンとこなかった。

 なお、手に取ったのが初版なので、既に重版で訂正されているとは思うが、2点指摘しておく。著者の瑕疵というよりも、本の製作過程でどうかなとは個人的に思いました。

 1点目は、52頁でルートビアが引き合いに出されている。その3行目に「ルートビア(写真)」とあるが、当該の写真がどこにも見当たらない。これは脱漏と思われる。

 2点目は、202頁で「財布ステーキ」の話が紹介されている(小沢真珠演じる妻が西村和彦演じる不倫夫へ、グレービーソースをかけた牛革財布を食卓に供するという狂ったエピソード。)。しかし、この話は本書記載の「フジテレビ系列の昼ドラ『真珠夫人』」ではなく、「フジテレビ系列の昼ドラ『牡丹と薔薇』」が正しい。『真珠夫人』でも同じような展開の話でコロッケに見せかけたたわしが供される(脚本家も一緒らしい)。実際これはよく取り違えられるのだが、よく取り違えられるからこそ、校閲や編集で気づくべきところだと思う。

 

 

【動画】

youtu.be

 こういう会社を一瞬だけいいなと思ったけど、俺みたいな社不はどう考えてもお呼びじゃなかったので動画だけで楽しみますです。俺はあらゆるコミュニティから追放されるオタク。さまよえるユダヤ人。それはそれとして、序盤のみくのしんの怒り方と「空笑いのメルセデス」で息ができなくなるぐらい笑っちゃった。今日本当の意味で「笑った」のはこれだけです。