死者の如き従順

脱落者・敗北者・落伍者と連帯するブログ

20240224-0225

 また休みが終わっちゃうッピ!!! 辛いッピ!!!!

 

【雑感】

 またしてもFallout4のMOD再構築に着手してプレイちう。敵を殺した後の経験値が入ったり入らなかったりするのが「?」という感じだが、まあ細かいことは気にせずテストプレイとして流していこうかと。Tacticoolな武器ばっかり入れていたのだが、世界観に合わせようと思い、木と鉄で作られているタイプのオールドスクールな武器縛りにしてみたら意外に楽しかった。あとRobcoPatcherはホンマ便利やね。

 こうやっているうちにグラブルリリンクをクリアしないまま3月に突入し、いつの間にかドラゴンズドグマ2とかRise of Roninとかが発売されておしまい!ってことになりそうな気がしている。というかそうなるぞこれは。

 あと、休日を使って昔のエントリを結構読み返していました。この頃は残業がつれえとか仕事がうぜえとかいろいろ愚痴っていたのですが、今の俺を見たら当時の俺は「これが理想やないか!」と大喜びするのではないか。残念だったな、理想などどこにもありませーん!!!

 

【ニュース】

宮沢元首相の「日録」見つかる 戦後40年間克明に「第一級の史料」:朝日新聞デジタル (asahi.com)

 これ単純にすげぇなと思いました。東大の御厨先生らとの共同作業らしい。そういう日録をつけてたマメさというのがやはり宮澤という男の偉さを物語っているとも言える。

 

TSMC誘致に向け、重ねた極秘交渉 経産官僚「賭ける価値がある」:朝日新聞デジタル (asahi.com)

 TSMC誘致交渉の顛末に関する連載ものらしい。これはウォッチしておきたい。

 

【読書】

 日曜日の暇つぶしとして、奈倉有理・逢坂冬馬『文学キョーダイ!!』(文藝春秋、2023)を読了しました。片や日本人初のゴーリキー文学大学卒業者にして押しも押されぬロシア現代文学の紹介者で、片や『同志少女よ、敵を撃て』『歌われなかった海賊へ』など該博な知識に裏打ちされた重厚なエンターテイメント小説の書き手が姉弟だったというのは有名な話。本書ではその姉弟が自分たちの生い立ち・書くということへの関わり・文学と社会の関係という3つを軸にして対談するというもの。逢坂は奈倉を「有里先生」と呼び、奈倉は逢坂を「逢坂さん」と呼ぶのだが、姉弟のこの不思議な距離感が本書の魅力を引き立たせているかもしれない。つかず離れずというか、お互いにその生き方や趣味嗜好はかなり異なっているのだが、そうした状況で互いに世の中をいい方向にするべく「風をふかせていこう」という目的意識は似通っているという点で、2人は静かな連帯を再確認し挨拶を送り合っているというのが本書なのかなと。

 「PART1 「出世しなさい」がない家」では、2人が育った環境について語られる。父親は日本思想史の研究者(奈倉哲三というらしいが存じ上げなかった)、母親は語学に堪能な教養人であり、「耳をすませば」に出てくる「団地のインテリ」のような家庭で育ったという。「耳をすませば」の話ついでに言えば、奈倉=天沢で逢坂=雫という見方も可能ではという言及があり、お互い気質は天沢や雫と似ている点があるという(ただ、あの2人に血縁関係あったらメチャクチャ嫌だなと素朴に思ってしまった。)。両親は、奈倉の高校からロシアに行くという選択肢を無条件で応援したり、逢坂が管理教育的な幼稚園を抜け出したらそれに賛同して転園させたりするなどかなり理解のある理想的リベラルという感じで、それが「好きなことを突き詰める人生を送れる」2人の生き様に寄与したのかもしれない。「将来というものに対して果てしなく大きな選択肢をくれていたんだよね。「普通」ということは考えなくていいから、もしなにか学びたいものを見つけたら、そこから本気でそれをやればいい、たとえば全教科の平均点を上げるとかそういうことは考えなくていいから、という……」(p64)と奈倉が感慨深げに述べているのは興味深い。

 また、2人の気質の違いも明白に出てきている。逢坂が言うように「僕が学者になって有里先生が作家になる」というルートも実はあったのかもしれないのだが、逢坂は学問を挫折し、奈倉はとにかくロシア文学を読みまくっていたら気づいたら学者になっていたような感じだという。実際、本書で如実に現れる逢坂の現実に対する強い批判意識はまるでどこぞのリベラル左派の学者っぽいし、奈倉の(批判意識は弟と通底しているようだが)あまり批判を前面に出さないスタイルは、どっちかというと本邦の作家っぽいかもしれない(こういうスタイルの押しつけがましい当てはめについては両者とも嫌うだろうが。)。逢坂は学問には挫折し、馴染めない会社員生活を送るが、ふとしたきっかけで小説を最後まで書き切ったことでそれを書くのが楽しいことだととわかり、以降は小説を書くことに邁進する。他方で奈倉は「本を読みたい」という欲求が強く、できれば本を読み続けられるような仕事をしたいということで、翻訳家や研究者としてキャリアをスタートさせる。どちらも好きなことを突き詰めていくということにかけては、両親の教育も相まってか一流だったのだろうなと思う。なお、本書では他にも、大きい音が苦手なので映画が観られない(奈倉)/映画大好き(逢坂)、武器や戦争についてのアレルギーが強い(奈倉)/戦争は嫌いだが武器には詳しい(逢坂)というような様々な違いが浮き彫りになっていて、それはそれで興味深い。

 また、逢坂のジェンダーに対する強い意識も興味深かった。「両親はジェンダーについて「ああせえ、こうせえ」というよりかは、ニュートラルなところから入るのが自然という視座を与えてくれた。長ずるにしたがって、身の周りのギャップに気づいていくというか。大学生になってから、特に男子だけで固まっていると、「なんでこんなろくでもない話をしたがるんだろう」というような違和感がって。のちにホモソーシャルに対する忌避感が自分に強くあったんだなということが分かったんだけど。高校生、大学生と進んでいくにしたがって、僕は男子だけがいる空間というのがすごく嫌いになっていっちゃったんです。ものや人を粗末に扱う言動、危険なことをする言動がもてはやされて、男子しかいないサークルの中でのヒエラルキーが上がっていくという。非常に未熟で幼稚な価値観だなというふうに思っていたから。」(pp63-4)という指摘はギクリとしたが、残念ながらこの時点でもう分かり合えませんね……。俺はスクールカースト5軍のホモソーシャル空間でしか生の実存を確かめられなかったので。

 本章で紹介される興味深いエピソードとしてはほかに、逢坂の『同志少女よ、敵を撃て』のロシアに関する考証を奈倉が行ったこと(そこで登場人物の顛末をパン屋に務めさせるのではなくパン工場に変えさせた)が挙げられる。

 「PART2 作家という仕事」では、2人の著述等について語られる。逢坂が「とにかく新しいものを書いて、いままでのファンに忘れてもらわないようにしながら、新しい読者も開拓しなければならない。でも、小説は工業生産品じゃないから、大量生産できるものでもない。だから、仕込みの時間をすごく長くとらざるを得ない。やっぱり気ばっかり焦りますね。」(p110)と述べているのは、こんな売れっ子作家でもこうやって意識してるんだなあと思ってしまった。逢坂のスタイルはとにかく時代考証をしっかりと固めてからプロットを作るのだそうで、資料を徹底的に読み返して検討してから一気呵成に書き上げるとのこと。なお、奈倉は普段から思いついたときに書いたものをフォルダに突っ込んでおいて、それを仕上げて原稿を提出する形をとっているという。どっちもまねできないわ……。

 その他、PART2では大学の役割とか、小説の意義についていろいろと語られているが、このあたりは特段個人的には新規性に乏しく感興が沸かなかった。ただ、奈倉の「文字にすることを急ぐと、結局すでに決まった形式に自分の感情を流し込んでしまいがちなんです。SNSなどの即時的な言葉が危ういのはそこで、テンプレートみたいなものに自分のほうを合わせてしまうと、心に抱えていたものはそこで仮の形を得てしまう。その仮の形がいつしか自分そのものになっていって、それ意外の言葉を紡ぐ可能性のほうが潰されていく。」(p148)という指摘は刺さった。これは本当にそうだと思うので。また、逢坂が創作は趣味でどんどんやればいいし、プロで食っていくとかそういうのは別として書くことの楽しさを知ることの方が大事という指摘にもうなずいた。「誰かがなにかを言ってきたとしても、「ほっといてくれ、好きでやってるんだから」と言えるぐらいの強靱さがある趣味の世界」(p158)、作りたいもんですな。

 「PART3 私と誰かが生きている、この世界について」は、2人の活動が社会とどう切り結んでいくかについて、お互いが語りながら考察を深めて言っている。逢坂は解釈の多様性を認めつつも、自分の作品について戦争賛美と誤解されないような形で言及するし、反戦デモにも積極的に参加するという(他方、「Twitterは言論空間として成立していない」(p246)としているのは、上に引用した奈倉の指摘と重なっているような気がする。)。立派な行いですね。

 また、インターネットのオタクたちがプーチンをキャラクターとして受容してきたことにも批判的であった(この点もまたぎくりとしてしまう。何故ならまさに高校時代の俺がそうだったからだ。)。このような「冗談めかした迎合」について、両者は極めて批判的だった。自省的な意図も含め、引用しておく。

 「奈倉 プーチンを面白がっていた人って、いったいどこに視点があるんだろう。ロシアにも自分と同じ人間が暮らしているんだということを理解していないのかな。

  逢坂 プーチンがいるのは自分とは関係ない、アニメの世界だと思っていたんだと思う。その時点ですでにロシアでは政治的被迫害者や貴社が突然暗殺されたりしていた。決していまの抑圧体制とは無縁の体制ではなかった。

  奈倉 それにしても、権力者のキャラクター化とか国家の擬人化とかって、どうしてあんなに人気が出るんだろう。

  逢坂 最悪のカルチャーね。

  奈倉 それはやっちゃいけないことだということが社会に認識されていない。いま大学で教えていると実感します。プーチンはいまの大学生にとってはほんとうに小さいころからいるわけですよね。で、戦争になって「けっこう面白いおじさんみたいな感じで言われていて、そういうイメージがつよかったので、びっくりしました」みたいな感想も出てくる。それを不思議にさえ思わないほど一般的に定着してしまっていたのか、と。それが外国に対するイメージって、本当に恐ろしいですからね。そうして消費することによって、それ以上はなにも考えなくていい空間ができてしまう。だから楽で、楽しいかもしれないですけど、国家や民族のイメージをあるタイプに流し込んでいくのはプロパガンダの手法と同じです。みんなが思考しないですむ楽しいところに落ち着けば、権力者にとって非常に扱いやすい状態ができあがる。」(pp215-6)

 最後に、奈倉の以下の指摘はそれぞれ引用に値すると思うので引く。

 「ジェンダーの問題にしてもそうですが、書物を「書く/読む」という行為においては、書き手も読み手も、時代時代の俗世が個々人に押しつけた生まれながらのカテゴリーー性別、人種、出身地域、家柄、血縁、生育環境によって決められた宗教、身体能力、美醜といった、知らないあいだに「自分の属性とされてしまったもの」から解き放たれる可能性を持っている。それこそが本を読む喜びであり書く喜びでもある。その可能性をとりあげる権利は誰にもない。その根本的な内面の自由を理解する人は、本はその内容で判断すべきであり著者の属性で判断するべきではないということを知っている人です。」(p177)

 「本を読むことが、風を吹かせることにつながるのかもしれない。いつのまにか社会のなかにできあがっていた暗黙の了解が心にのしかかってきて、頭がうまくまわらないようなとき、いまはあんまり言っちゃいけないと思われていることとか、深く考えないとわからないことに、本の力を借りるとたどり着けることがある。本を読むことによって、思考の可能性が開けていく。あらかじめ用意された回答で満足なんかしていられないぞ、という思考回路ができてくる。それが読書の大きな楽しみのひとつなんです。」(p247)

 個人的には、俺は逢坂みたいに旗幟鮮明にするというよりは、奈倉の示唆的な思考スタイルの方が合っているような気がする(ので、今回の引用も奈倉の引用が多めになった)。とはいえ、逢坂の言語化能力の高さも率直にすごいと思みまみた(自分でも「アジテーター」気質と言っているが)。とはいえ、俺は階級脱落者にして世界憎悪を糧に生きる反動人間なので、基本的にはこの2人とは永遠に分かり合えない地平にいるなということを再確認した読書でした(とはいえ、2人とも書くものはどっちも面白く読めるのですがね。)。